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掌編小説【辞書】

♯クリエイターフェス10/3のお題「今こんな気分」

「辞書」

ここしばらく頭痛がひどい。おまけによく眠れない。
枕が合わないんじゃないの?妻がそう言うので一万円以上もする枕を通販で買ってみたが、ダメだった。
妻は、あらじゃあ私が使うわと言って、その枕で気持ちよさそうに眠っている。
それが目的だったのかい?そんな嫌味も言いたくなるほど夜は眠れないままだし、頭痛も治らない。

そんな時、週末に甥っ子の翔太がやって来た。
子どものいない僕たちは、兄夫婦が忙しい時に八歳の翔太を預かるのを楽しみにしている。
しかし、今回はまったく元気が出ない。一緒に遊ぶのも厳しそうだ。
「おいちゃん、こんにちはっ」
翔太はかわいらしく元気な声であいさつする。でもその声さえ今の僕には辛い。
「よく来たね。でも今週は、おいちゃん具合がわるくてね、お出かけはできないんだ」
どこそこに連れて行けとせがまれたら困るな…と心配していたのだが、翔太は案外素直にうなずいた。そして勝手知ったるナントカで僕の書斎にダダッと駆け込むと、少しキョロキョロしてたずねた。
「おいちゃん、じしょ、ある?」
「じしょ?」
僕は翔太の足音が響いてジンジンする頭を押さえながら聞いた。
「うん、ちいさな字がいっぱい書いてあるぶあつい本」
「ああ、あるよ」
僕は書棚から一番分厚い【広辞苑】を出した。翔太は目を輝かせてそれを受け取る。
「辞書なんて使えるのかい?」
「うん。流行ってるんだよ」
翔太はおもむろに広辞苑を床の上に置くと、その前に静かに膝をつき、おでこを広辞苑に載せた。
まるで礼拝でもしているみたいな姿勢だ。
「な、なにをしてるのかな?」
珍妙なポーズを真剣にしている翔太を見て、僕は頭痛も忘れて吹き出しそうになりながらたずねた。
翔太は答えずにそのまま頭を横に向けると、辞書を枕に寝ているような恰好になった。
そして目を閉じたまま言った。
「こうするとね…おいちゃん。頭がよくなるんだよ…このじしょすごくぶあついから効くと思う」
睡眠学習か!とツッコミたくなったが、本人があまりに真剣な様子なので茶化すのもかわいそうで、僕は笑いをこらえながらソッと書斎を出た。翔太はあっという間にスゥスゥと寝息をたてている。

一時間ほどして書斎に様子を見に行くと、翔太は起きていて広辞苑をめくっていた。
「頭、よくなったか?」
翔太はパッと顔を上げて晴れ晴れと答えた。
「うん。これすごくいいよ。厚さが八センチもあるんだ。今までは五センチくらいだったから、すごくよくなったと思うよ」
「そうか、八センチか」
本当の親ならこういう時どうふるまうのだろうと思ったが、とりあえず否定はしない方がいいような気がした。
「おいちゃんもやってみて」
僕はとまどったが、翔太があまりにも熱心に勧めるので、少し恥ずかしかったが同じように床に膝をついてから辞書を枕に横になってみた。

すると…
なんだこのしっくり感は!僕は驚愕した。
表紙の質感か、八センチの厚みか、あるいは人類の英知に支えられている安心感か…。

翔太がのぞき込んでくる。
「ね、今どんな気分?」
「ああ、今こんな…気分…すごく…いい…」
僕は答えることができないまま深い眠りに引き込まれた。

眼が覚めると頭痛はすっかり治っていた。
それ以来、僕は調子が悪くなると広辞苑を枕にする。
翔太の意味とは違うけれど、確かに『頭がよくなった』のだ。

おわり(2022/10 作)

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