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掌編小説【本棚】

♯クリエイターフェス10/27のお題「♯わたしの本棚」

「本棚」

わたしが離婚して戻って来たのは、びっしりと埋め尽くされていた本棚の八割が空いてしまった時だった。
その本棚はかつて祖父の居室だった日当たりの良い八畳の和室の壁に固定されている。祖父は社会学の著名な大学教授だったので、生前は彼の研究資料や蔵書で埋め尽くされていたが、祖父が半年前に八十五歳で亡くなると、それらの多くが大学の研究室や彼の教え子たちに引き取られていったのだ。
隙間だらけになっている本棚を見た時、まるで今の自分の空虚な心を見せられているようで、わたしはなんとも言えない気持ちになった。

「この部屋、使ってもいいわよ」
わたしが家に戻りたいと話した時にも少し肩をすくめただけだった母は、さばさばとした調子で言った。
「あんたが昔使ってた部屋、今は私が使ってるのよ。変わるの面倒でしょ」
「うん…」
このスカスカの本棚を眺めて暮らすのか。そう思うと少し落ち着かない気もしたが、出戻りの身だ。わがままは言えない。
しかし、本格的に荷物を入れて整え始めると、祖父の部屋は次第にわたしに馴染んできた。そもそも子どもの頃もこの部屋にはよく遊びに来ていたのだ。祖父はやや気難しいところもあったが強く叱るような人ではなく、わたしをかわいがってくれた。
「おじいちゃん、本がいっぱいあるね」
「手が届くところの本ならさわってもいいぞ」
そう言われてわたしは祖父が書きものをする傍で、静かに本を読んでいた。祖父と本棚は、どんな時のわたしも受け入れてくれた。

祖父がわたしのために低い棚に並べてくれていた世界文学全集や絵本たちは、大量殺戮をまぬがれた小動物みたいに本棚に残されていた。
「あんたたちも居心地がわるそうね」
わたしは昔なじみの本たちに声をかけ、斜めになったり裏返しになっている本を整え、今の私の目線の高さの棚に並べ直した。本たちはようやく落ち着いた、という感じにホッとして見える。次に、空いている棚もきれいに拭いた。埃が払われてさっぱりとした棚は、今度はここにどんな本を並べてくれるんですか?とわたしに訊ねているみたいだ。
さて、どんな本を並べたらいいのかしらね。わたしはわたしの胸の内に訊ねた。
しかし聞こえてきたのは祖父の声だった。

「これからゆっくり埋めていけばいいんだ。わたしの本棚はもうおまえの本棚なのだから」
…そうね、おじいちゃん。わたし自身にもきっと新しいなにかが訪れるわね、ゆっくり始めて、ゆっくり待つわ。
窓から秋の夕暮れの柔らかい陽が射しこみ、拭き清めた本棚とわたしを祝うように暖かく満たしていった。


おわり

(2022/10 作)

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