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教育3.0 ~目立ちたくない令和の子どもたち~

はじめに

 令和の教育を受けている今の子どもたちの特徴を考えてみましょう。

  • デジタルネイティブ(生まれた時からスマホを使っている)

  • SNSネイティブ(LINEで繋がるのは当たり前。インスタやTikTokをやってる子もいる)

  • YouTubeネイティブ

  • サブスクネイティブ(音楽も動画も見放題)

ここからわかることは

  • 同級生からどう見られるかが気になる。(LINEで何を言われるか怖い)

  • 表面的なキラキラを演出する(SNS映え)

  • 共通の話題に追いつくのが大変(流行ってる動画は何?全話一気見)

 今の子どもたちはとにかく忙しく、自由な時間がありません。
 学校の授業も増えるし、受験は大変だし・・
 友達との会話のためには、流行りのアニメやドラマも見ておかないといけないし・・
 LINEが来たらすぐに返信しないといけないし・・・
 こんな中で子どもたちに将来何になりたいのとか、好きなことを伸ばしていこうとか言っても、考える余裕は無いですよね。

教育1.0(昭和)

 ここでは教育1.0を昭和時代の教育と定義します。
 昭和は高度成長時代で、今の親または祖父母が受けてきた教育です。
 この時の特徴は、社会の歯車になる人間を育てることが目的であることです。
 元々は戦時中に上官や作戦に従順に従う兵士をつくることを目的としていました。
 規則・ルールは絶対。上官の命令に逆らわない。自己主張をしない。
 この教育システムが戦後そのまま引き継がれました。そしてそれは高度成長時代には有効に作用しました。
 高度成長時代は大量生産・大量消費の時代。そしてあこがれる未来の姿が分かりやすい時代でした。車、テレビ、冷蔵庫など欲しいものがたくさんあって、欲しいものを作れば売れるという時代でした。
 会社は売れるものを作って販売すればよく、社員は会社の方針に従って動いておけばよいので、決められたことを素直にやるだけで会社も日本も成長していきました。
 国民が等しくある一定以上の知識をもっておきつつ、命令に従順に従うということに対しては、昭和の教育は最適でした。

教育2.0(平成)

 バブルの崩壊や高度成長の終わりにより、あるいは行き過ぎた受験戦争の反省からゆとり教育への転換が図られました。
 学校での学習量が少なくなり、子どもたち各々の裁量で自由に使える時間が増えました。
 ゆとり教育にはネガティブな批判が多いですが、結果から見ればこの世代は、スポーツ界やエンターテイメント、漫画やアニメなどで才能を発揮している人がたくさんいます。

教育3.0(令和)

 ゆとり教育の反省から詰込み型の教育に戻りました。
 さらにグローバル化やIT化の流れから、英語やプログラミングの時間が増えました。
 その上、自ら考える力としてアクティブラーニングやロジカルシンキングというのも増えています。環境問題やSDGsなども考えないといけません。

 世の中がグローバル化し資源や物資が世界情勢に左右されたり、ネットワーク技術の発達で世界中の誰とでも繋がるようになった現在、私たちが認知しなければならない空間が広がっています。
 江戸時代なら村や藩のことがその人の最大限の世界であったものが、現代人は日本はおろか世界中の事象が生活に関わっているため、注意しておくべき情報も膨大になっています。
 このような状況では、子どもたちに教えるべきことが多くなるのは当然かも知れません。

令和の教育が目指すもの

 令和の教育では、答えのない問題に取り組んだり、プログラミング的思考を身に付けさせたいと考えています。
 課題に対して議論(ディベート)して納得解を求める練習をしたり、プログラミングを通じてトライ&エラーの体験や、人によってアルゴリズムが違っても答えは同じになるという経験をさせるのが狙いです。
 また、AIの発達により情報を扱う仕事は自動化されます。
 人間が覚えられる情報量と、ネットにある情報量を比べれば一目瞭然です。人間同士で知識の差を競っても、コンピュータを相手にしたら目くそ鼻くそのレベルです。
 本格的に社会にAIが導入されたとき、人は何をして稼ぐのか?
 その予測から、考える力やITの力を身に付けさせたい、あるいは勉強以外の分野を伸ばしてオンリー1を狙うのが令和の教育が目指しているものです。

そこにニーズはあるのか?

 10年後の未来の予測から逆算して、現在必要なことを教えていくのは大切です。
 しかしこれは今の大人が考える「未来の大人はこうあるべき」という理想の姿を想定しています。
 そして「今の子どもたちはこういうことを学んでおくべき」という理想を押し付けていないでしょうか?
 当事者の子どもたちは世界情勢を気にしてるでしょうか?
 IT技術が無いと仕事が無いと考えているでしょうか?
 答えのない問題に取り組むつもりがあるのでしょうか?

 現在の子どもたちは自分の将来をゆっくり考える時間もありません。
 現在の子どもたちが気にしている世界の大きさはLINEで繋がった範囲です。
 仲間からはぐれないよう、話題についていくのが必至です。
 仲間から浮かないよう、目立つことは避けていきます。

 大人が考える「理想の子ども」と、子どもたちが置かれている現実に大きなギャップがあります。
 このギャップが今の子どもたちの生きにくさや窮屈さの原因ではないでしょうか?
 ではどうするのか?
 変わるべきは子どもなのか社会なのか?

「自己肯定感が高くない子どもたち」という勘違い

 最近の教育では子どもの自己肯定感をどうやって高くするかがトレンドです。
 子どもの好きなことを見つけて伸ばすとか、自ら課題を見つけて取り組むにはどうしたらいいのかなど、いろいろな教育方法が提案されています。
 しかし、当の子どもたち本人はそれを望んでいるのでしょうか?
 大人が考える、「子どもたちの将来のためにできること」とは大人の理想を表していないでしょうか?さらには、これらを実現できる子どもは元々優秀であって、その優秀な子どもをもっと優秀な大人にする手段になってはいないでしょうか?
 優秀ではない大半の子どもや、優秀であっても目立ちたくない子どもは自己肯定感が低いのではなく「自己肯定感を高くしたくない」のではないでしょうか?
 一方で、今の教育で子どもを褒める時は問題に正解したときなので、正解できたらプラス、間違ったらマイナスという環境にあります。
 答えのない問題に取り組むことは、間違いの連続です。
 エジソンの言葉に「天才は1%のひらめきと99%の努力」というのがありますが、これの努力というのは失敗の数と置き換えられます。
 「99%失敗を繰り返した先に1%のひらめきが産まれる
 この事を、子どもたちにどれだけ伝えられてるでしょうか?

AIと働く10年後の社会

 10年後には職場にAIが入ってきます。その時、人はどんな仕事をするのでしょうか?
 AIを使う側なのか?AIに使われる側なのか?AIを挟んで人の仕事は上下に2極化されます。詳しくは下記の動画で解説しています。
  AIと働く世界 10年後のために今やるべきこと(YouTube)
 この時は人がAIに使われるという危機感から動画を作成しましたが、今の子どもたちはAIに使われる方を望むのかも知れません。
 AIが考えた効率的なプロセスを人が行う。これは会社にとって便利な歯車になるということです。
 しかし、今の社会でも人がやっていることは歯車の一つに過ぎません。ファストフードや回転寿司などシステム化されたオペレーションの一つを人がやっているに過ぎません。会社も大きくなればなるほど、社員一人ができることはプロジェクトの1パーツに過ぎません。
 結局、全体を包括的にコントロールできるのは一部の優秀な人であり、その他大勢は歯車になるしかないのです。その間にAIが中間管理職のように入ってくるだけです。

消極的「オンリー1」

 かつて「ナンバー1よりオンリー1」というフレーズが流行りました。
 行き過ぎた競争社会の反動で、他にないオリジナルを目指そうというものです。
 受験のための詰込み型教育ではなく、それぞれの個性を伸ばしていくことが強みになるという考え方です。
 しかし現在、この言葉が子どもたちのプレッシャーになっています。
 自分が何者かもわからない段階で、好きなことや得意なことを尋ねられても「わからない」としか答えられません。そして周りについていくのがやっとの状況で、自分の内省を見つめる時間もありません。
 しかし、何も持っていないと将来稼ぐことができません。コンピュータや機械ができる仕事は、どんどん人から奪っていきます。
 知識量や情報処理はコンピュータに敵いません。単純作業ならロボットは24時間動き続けます。
 残された仕事は何か?
  芸術系・・・ 映像や音楽の作成。動画編集などピンポイントで特化した技術。
  人と関わること・・・・ 医療・介護
  機械化しにくい作業・・・ 配達。草刈り。ゴミ収集。
 単純で低単価な仕事ですら、何かしら特化した技術が必要です。それは「根性」というのも含まれます。
 つまり高単価を積極的に求める「オンリー1」だけではなく、辛うじて働くために何かしらの「オンリー1」を身に付けていないと生きていけないという切実な理由から、消極的に「オンリー1」を見つけないといけないことになります。

指示待ちの新入社員

 「最近の新人は、自分で考えて行動しない」
 「言わなくてもわかりそうなこともやってくれない」
 そんな声をよく聞きます。
 昔は「仕事は盗んで覚えろ」などと言われ、先輩の仕事ぶりを見ながら技術の盗んだり覚えたりしていました。寿司や料亭では10年修業して一人前とか言われていました。
 今はYouTubeで寿司の握り方を勉強して店を出すという話もあります。ネット上には様々なノウハウが溢れています。職人が持っている希少性の価値は下がっています。
 先輩がやってる仕事に、どれだけ盗むべき価値があるのでしょうか?
 言わなくても理解してくれというのは、教える側の怠慢ではないでしょうか?

 今の教育は正解への導き方を教えます。その道から外れることはNGです。自ら考え行動することは、正解からの道を外れる行為です。独自性を出して改善を提案するという目立つ行動は考えもつきません。「間違ってもいいからやってみろ」といわれても、「間違うぐらいなら、やりません」と答えます。
 これらは今どきの若者を非難しているのではなく、今どきの若者を理解するために重要な要素です。

正解がわかっているなら、そこまでの方法を全て伝える。

 今の若者は正解に向かってやるべきことに対しては真直ぐに行動します。余計なことはしません。ならば先輩はやるべきことを全て伝えるべきです。
 全ての仕事をマニュアル化するのか?という批判があるかも知れません。しかし、むしろマニュアルが作れない会社は今後成長が見込めません。
 最初の基本はマニュアル化し、ある程度のレベルまでは均等に引き上げ、その上で成長戦略を考えていきます。ネットから情報を得ることが得意な若者は、マニュアルを通じて成長するのは驚くほど早いです。
 指示以上の行動を期待するのではなく、全てを指示して早く使える状態にすることが重要です。

義務教育とは

 義務教育は教育を子どもに受けさせる親の義務であって、学校に行くことが義務ではありません。学校に行かなくても家で教育ができるなら、学校に行く必要はありません。海外では富裕層は先生を雇ってホームスクールを行います。学校は貧しい家庭でもある程度の学力を集団で安価に教えられるシステムです。
 日本では学校への期待と負担が大きすぎです。いじめのような人間関係やクラブ活動は本来先生の仕事ではありません。さらにプログラミングやディベートなど、本来の基礎学力以上のことを学ぶ場にしようとしています。
 学校では最低限の知識と、勉強する方法を学ぶことが役割です。それ以上のことは各家庭や民間の習い事などで補うべきです。
 いじめ問題もカウンセラーなど専門の人があたるべきです。もっとシンプルに対応するなら、いじめというごまかしではなく、傷害や恐喝として警察が関与すべきです。学校で「いじめ」という表現で中途半端な対応しかしていないことが、会社でのハラスメントが軽視される要因かも知れません。
 能力も家庭のレベルもバラバラな子どもたちが、地域という枠だけで集められてしまうのはお互いに悲劇です。優秀な子は塾やYouTubeなどで高いレベルの知識を身に付け、学校の授業は退屈。学校の授業についていけない子は、授業で何を言ってるのか理解できないで退屈。その上に人間関係もバックボーンがバラバラな人たちとこなさないといけないので、軋轢が生じるのも当然です。
 国が貧しいときは、集団で一定のレベルまで引き上げるのに適したシステムでした。現代では学校以外でも学ぶ方法はいくらでもあります。そんな中でも、まだ無理して学校に行くことにどれだけの意味があるのでしょうか?そして不登校の子どもを学校に行かせようとして、どれだけの労力とコストを無駄にかけているのでしょうか?
 一方で、学校に行くことで学ぶ機会を得られる子どももいます。学校というシステムが性に合っている子もいます。学校は学習する手段の一つに過ぎません。そして基礎学力以上のことはおまけ程度という認識で学校と付き合わなければなりません。
 家庭で教えるべきことを学校に依存し過ぎていないでしょうか?さらにそのことに対して学校に不満を持っていないでしょうか?
 子どもの心の教育は家庭に責任があります。子どもの将来に責任を持てるのは親しかありません。
 学校は基礎的な学びを教えてくれるところです。その基本に立ち返って家庭での教育や親子の接し方、習い事は何をするのかなどを考えてみましょう。

受験・入試について

 日本の教育の最終目標が大学入試になっています。
 大学が増えすぎて、入るだけなら誰でも入れる時代です。
 学歴が意味を持たないと言われても、いい大学にいけば大企業に入れると親たちは考えています。
 入試も昔ながらの知識量を問う記述式でいいのかという論争もあります。
 海外では学生時代の活動や日々の生活態度が問われる、いわゆるAO入試のようなスタイルが一般的です。
 一般に否定的に捉えられがちな日本の入試制度ですが、考え方によっては平等なチャンスが与えられているとも言えます。
 海外のようなAO入試式の試験では普段の生活で差が生じます。それは親の財力で差が生まれることにもなります。親に財力があれば、知見を広めるためにいろいろな場所へ連れて行ったり、高いレベルの経験をさせることが可能になります。ボランティア活動にしても、より印象の良いものを経験させることができるでしょう。
 また、いわゆる内申書的なものが重視され先生に気に入られるような学校生活を強いられることになります。
 ペーパーテストだと、単純に知識の競争です。対人関係が苦手だったり、学校に行くのが負担だったりする子でも、試験で結果さえ出せば大学に行けます。知識がなくてもテクニックでカバーすることも可能です。点数という分かりやすい評価で判断されるということは、チャンスは平等に与えられているとも言えます。
 問題なのは、試験の方法に多様性が無いことです。全ての大学が点数でランク付けされると、「勉強」が性に合っている人が有利になります。全ての努力も「点数」を取ることに向かいます。そして子どもたちは点数を取るための練習をさせられ、「正解を出すことだけが正しいこと」という洗脳を受け続けているのです。
 かつての「一芸入試」のように、何か秀でた特徴を持っていれば合格できるような大学が増えれば、「点数」だけが目的ではない学びを子どもたちに伝えることができます。定員割れをするような大学では、思い切った方向性で「点数」に寄らない才能を集めることが生き残る術です。その転換ができなければ、特徴的な子どもは海外を目指していくことになるでしょう。
 社会は点数だけが評価対象でないことは、親がまず認識し認めることです。その上で子どもの特徴を捉え、何を伸ばしてどこに繋げていくかを考えなければなりません。

今の子どもたちは・・

 人間関係はSNSが中心で、目立たず離れずに徹します。
 情報に溢れ、選択と集中と効率化が求められます。
 学校では正解を求めることを教えられ、正解するための方法を習います。
 これらは全てインプットです。たくさんの情報を取捨選択し、必要なものをインプットして、最適な正解を求めることが最大の目標です。正解があるなら、その正解にたどり着く方法があるなら、それをインプットして行動することは得意です。なぜならそれを良しとして教育されているからです。
 今の子どもたちに足りないのは、アウトプットする力です。
 自らの考えをアウトプットすること。それは正解か不正解か分かりません。失敗するかも知れません。今の子どもは失敗することを恐れます。失敗するぐらいなら行動しないということを選択します。
 どうして失敗することを恐れるのか?
 それは正解して褒めることをやりすぎた結果かも知れません。
 子どもを褒めることは大事なことです。しかし何を褒めてきたかが重要です。
 点数が取れて褒めたのなら、点数が取れなければ褒められないということになります。本当に褒めるべきは、それに向かってきた努力や、そのことによって成長した子ども自身の姿です。

赤ちゃんは自己肯定感の塊

 子どもが産まれた時のことを思い出してみましょう。
 「寝返りがうてた」「つかまり立ちができた」「ハイハイできた」・・
 日々成長する赤ちゃんを、いつも喜び褒めていませんでしたか?
 その時の赤ちゃんは、できることが増えるたびに褒められ、もっとできるように頑張ってまた褒められ、どんどんできることが増えて自信をつけていったのではないでしょうか?
 今、子どもたちにどんな声をかけていますか?それは子どもが自信をつけるような言葉ですか?

親バカであること

 赤ちゃんのころは全ての親は親バカでした。
 それが子どもが成長するにつれ親バカではなくなってしまいます。できることが増えるにつれ、もっとできるだろうという期待が生まれ、理想と希望がどんどん高くなり、その理想の姿に足りないときにプレッシャーをかけます。他の子と比べて、なぜできないのかと悩み、他の子と一緒にしないといけないという呪縛に囚われます。
 
 子どもの未来は親が作ります。
 子どもの未来は親に責任があります。
 子どもを愛して守ってあげられるのは親だけです。

 子育てで悩んだり迷ったときに思い出してください。
 かつて自分自身が親バカだった時のことを。
 他の子との比較は必要ありません。
 この子だけがオンリー1でナンバー1な存在だったはずです。
 
 親バカになったとき、子どものありのままの姿が見え、この子に本当に必要なものが何なのかが見えてきます。

 時代によって教育は変わります。それはその時その時に合わせて利用するだけです。
 家庭で教えるべきこと、親が子へ伝えなければならないことは変わりません。
 そして将来どのような方法で生きていくかを考えなければなりません。
 そのスタートは、まず親が「親バカ」になること。そうすることでこれまでと違う世界が広がってきます。

まとめ

 子どもたちは自分のことを見つめる時間もないぐらい、情報のインプットに追われています。
 激変する社会に求められる人材への期待は際限なく高くなっています。
 親世代は今でも学歴優位と考えています。

 それぞれの立場で、理想の姿と現実と間でギャップが生じています。
 
 どれだけ相手の立場になって考えられるか。
 自分たちの理想を押し付けていないか?
 
 当事者である子どもたちや若者について、我々はどれ程理解しているのでしょうか?
 「今どきの若者は使えない」「何考えてるかわからない」と一蹴するのではなく、どうしてそうなるのかその背景を考えるきっかけになれば幸いです。 



 



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