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天気の子 [青少年からみた社会と現実]

先日、新海誠監督最新作「天気の子」を鑑賞しました。
圧倒的な映像美はもちろんのこと、ストーリーも申し分のないものでした。
先日の記事で私は「映画レビューを書くのは苦手、天気の子の記事はしばらくしてから書く」などと書きました。けれど想像以上に多くの発見があったため、今回記事を投稿することとしました。

なお、本記事は基本的にストーリーを読み解くことに重点を置いているのでいわゆる「ネタバレ」を含んだ記事です。
まだ鑑賞されていない方はなるべく鑑賞してから本記事を読むことをお勧めいたします。いや、私は知ってから鑑賞したいんだ!という方はお読みいただいて構いません。鑑賞時に何かの手助けとなれれば幸いです。

以下本文です。


はじめに


この作品を鑑賞して最初に感じたこと。
それは、この物語は基本的に残酷なストーリーであるということだ。
しかし、全面的に残酷さが押し出されている訳ではない。
帆高と陽菜のバックグランド(社会生活)が残酷であると私は感じた。
この記事では両者と社会のつながりについて考えてみたい。

社会とは

天気の子という作品は、日本社会の現状・在り方を極めて忠実に描いていると私は考えている。まず、社会という概念についてここで考えてみたい。
「社会」という言葉を再確認するために、私は大学で社会学の授業を受けた際に先生から頂いた資料を読み返した。それを要約してここで紹介する。

社会とは、個人の自由と他者との連帯。このバランスを取ることが秩序となる。この他者は、自分の思い通りにならない存在である。

なるほど。社会とは自由と不自由のバランスによって保たれているんだな...私はそう考えた。ここまでは社会の概念について確認した。
以後は上記の内容を踏まえて、帆高・陽菜と社会のつながりについて考えてみることとする。

2人の現実

この話をするにあたって前提となることがある。
それは、帆高と陽菜は社会から孤立している存在だということだ。
特に帆高はその傾向が強い。彼は社会を生きづらいものと考え、基本的に対立する姿勢をとっている。具体的な例については後に触れることとする。

帆高と陽菜は幼い。しかし頻りに仕事を求めている。
その背景には「貧困」の2文字が存在する。
特に、陽菜の家庭事情は極めて深刻だ。父親の存在が作品内で明確にされておらず、母は病死したため、劇中では両親がいないという設定となっている。陽菜はアパートで弟の凪と2人暮らしをしている。したがって生活費を稼ぐことが欠かせない。そのことから彼女は「家庭を守る」という責任を背負っている。15歳という年齢は社会から見たらまだ子供だ。その責は重すぎる物があるだろう。
両親がいないのであれば、児童養護施設などに入所することが社会では一般的な流れであるかもしれない。
しかし、彼女は生活費を稼ぐために年齢を偽ってアルバイトをしていた。解雇された後は水商売で稼ごうとした様子も劇中では見受けられた。
それは陽菜が他者に頼らず、自力で生きていくという選択をしたからだ。

一方、帆高は家出少年である。身寄りもないまま東京へやってきた。東京で生活するためには仕事をする必要がある。そこで彼は須賀を頼った。
帆高と仕事については、次章で述べることとする。

彼らの貧しさを象徴するシーンがある。それは食事だ。彼らが食べているものは基本的にジャンクフードである。特に、陽菜の家ではポテトチップスとお米をかけ合わせて炒飯を作っているなど、食事事情は極めて深刻であることがわかる。手料理といえる手料理を食べる機会は須賀の事務所で初日に食事をしているときくらいで、他にはほとんど見受けられない。
また、新宿の雑踏を毎日のように歩く彼らの姿や、都内で大雪が降った日にホテルへ駆け込むシーンなどを見ていると、家になかなか帰れない、家庭事情が複雑な子供たちの姿と、私はどこか様子が被ってしまう。

彼らはこのような貧しさに苦しみながらも、自らのライフスタイルを確立していくために行動を起こす。それは彼らが追い求めるものに直結する。

自由という光

帆高は島から東京に出てきた「家出少年」である。彼はなけなしのお金を片手に、新宿界隈を歩き続ける。生きていくためにどうしたらよいのか。そこで彼が見つけた答えは「須賀のもとで働く」ということだった。
労働基準法第56条を参照したところ、16歳で仕事をすることは違法ではないようだ。しかし、家出中の少年という身分や労働契約的な観点から考えると違法とみなされるかもしれない。ただし、法学的な論述をすると話が逸れるためここでは省略する。
話を戻そう。仕事中の帆高の表情につらさは感じられない。むしろ、生き生きとしている。このことから、彼にとってはこのコミュニティ、社会は適合していることがわかる。それは東京という憧れの地で、仕事・収入・住まいを見つけ、「自力で生きているという実感」がもたらされているからだ。
これは彼にとって「自由」がもたらされているのと同じなのだ。

次に帆高に自由がもたらされる時は、陽菜と共に「晴れ女」ビジネスをはじめたときだろう。雨が降り続ける東京において「晴れ間」というものは人々に幸せをもたらすと考えた帆高。そこで陽菜の晴れをもたらす力を利用し、金銭と引き換えに「晴れ間を提供するサービス」をインターネット上で開始した。最初にサービスを提供した相手はフリーマーケットの主催者である。最初は本当に晴れるのか誰しもが半信半疑であったが、実際に晴れ間を提供することに成功し、多額の謝礼を手に入れた。以後、彼らのもとには依頼が殺到するようになり、2人は自力(9割は陽菜の力と言って良いが)でお金を稼いでいくことに成功する。
陽菜も自らの力によって人を喜ばせることができ、かつ定職で高収入の仕事を始めることが出来た。その間は常に満足した表情が伺える。これも自由を手にしたと仮定してよいだろう。

このように帆高は劇中において2度「自由」を手に入れる。
彼らにとっての自由は、太陽のようにまぶしく、青空のように美しく、広く、開放的なものであったのだろう。これは社会から疎外された社会において、他者と連帯を図ることによって成し遂げることができたのだ。

しかし、これは一時的な自由であった。
彼らにはこのあと社会から疎外されていない、一般的な社会の現実を突きつけられることになる。

社会の残酷性

自らライフスタイルを確立しようとする彼らの行く手に立ちはだかる存在...。それは物理・人為・金銭的な問題でもない。
「社会そのもの」であると私は考えている。

まず、陽菜は15歳と学校に通わなければならない年齢...すなわち義務教育期間に相当する。帆高は高校1年生のため、義務教育を受ける期間ではないが、高校には通っていることが劇中では確認されている。
学校に通うということは、必然的に社会と連帯を図らなければならない。クラスメイトなどの他者や校則といった規則と連帯しながら生活しなければならない。しかし、彼らにとってそれは過酷なものであった。その性質は両者で異なる。陽菜は貧困に陥っており、働かなければ生活ができないため時間的な余裕がない。帆高は生きづらさを原因に現代社会を敵視しているため、学校へ通うという意思がない。

「世界は狂ってる!」という言葉が度々この作品では登場する。
この狂いとは社会のそのものではないかと私は考えている。

自由に生きられない社会、強制される世界は彼らにとっては嫌なものである。特に未成年では尚更のことだろう。若年層だから仕事にもありつけず、夜の外出も困難。本人達にとっては不自由極まりない生活である。
「狂ってる」という言葉は一見、自暴自棄な言葉にも捉えられる。
しかし彼らにとってこの言葉は、自由に生きられない社会へ向けた「心の叫び」なのである。

そのようなメッセージを発しても現実は残酷だ。
彼らの思いとは裏腹に、大人たちはまっとうな社会生活を送るように彼らを促す。陽菜に対しては児童相談所が、帆高については一連の行動が非行とみなされ、警察という国家権力に追われることになる。
(劇中では親から行方不明届けが出たとの証言もある)

こうした大人たちは法に基づき違法行為や非行などを取り締まり、当人に処罰を下すため仕事に就いている。その責務を担っている以上は彼らを追跡し、保護する責任があるといえる。

そしてついに、帆高は警察の目の前で拳銃を発砲してしまう。

社会的制裁

劇中で帆高は二度拳銃を発砲する。
一度目は水商売の男から陽菜を救うとき。二度目は陽菜を天空の世界から地上へ取り戻そうとする場面だ。
この発砲は単なる脅しでも、捕まりそうになってヤケになった訳でもない。
陽菜と生きてゆく=社会との決別を選択したという意味が含まれている。

陽菜が地上に戻ってきたら雨が止むことはなくなる。
しかし、帆高にとっては雨が降り続いて東京が水没しようが、それに伴って死人が出ようが関係ない。すなわち、他人の幸せ・世の中の幸福などどうでもよいのだ。全ては陽菜が戻ってくることを望んで起こした行動だ。
陽菜のことを思う気持ちはわかるが、その考えに至るプロセスを考えると、帆高はやはり社会から逸脱した存在だと考えざるをえない。
大人たちは陽菜が失踪したことには気付いているが、雨を止ませるために人柱となり、天空の世界へ誘われたことなど知る由もない。
そうした意味では「常識的な考え」を持っていると言ってよい。

また、刑事達は帆高に対して一切の容赦がない。逮捕しようとする場面では暴力的な光景も見受けられる。「少年に対して過剰な暴力ではないのか」と思う方も居るだろう。この背景には法律が深く関わっているといえよう。
刑法第41条には「十四歳に満たない者の行為は、罰しない」と記されている。つまり、14歳未満の者に対しては刑罰を下さないということだ。

帆高は16歳のため刑罰を受ける年齢に達している。
だから刑事達は容赦なく帆高を捉えようとするのだ。帆高を逮捕することは警察にとって義務である。これは社会ではなく法律が定めている。
その義務を果たす為には年齢等の考慮がなくても、何ら不思議なことではない。

劇中では、逮捕・起訴され、家庭裁判所で保護観察処分の判決を下されたという証言がある。ただし、帆高の一連の行為は5つ程の法に反してる(銃刀法、公務執行妨害など)。そのことから、この判決は極めて減刑されていると考えられるだろう。

・・・

陽菜と生きていく
帆高にとってはこれだけの選択をしたにすぎない。
しかし、その選択の代償は...
16歳にして社会的制裁を受ける結果となってしまった。

自分たちで生き方を選択したい彼らにとって
社会との連帯は極めて残酷で不自由なものである。
この連帯には法律と他者が挙げられる。

その連帯を断ち切った結果
帆高と陽菜は現実世界において再開を果たすことが可能となった。


おわりに

天気の子と社会の関連性については映画を見ているときから家に帰ってパンフレットを読むまで、ずっと考えていました。
現実の社会でも若者は本当に生きづらくなっています。奨学金、家庭内暴力、就職問題、収入の低下など挙げればキリがありません。
この先どうなっていくのか不安はあります。
しかし、帆高と陽菜のように先が見えない中でも目標に向かって走ってゆく覚悟と気力は見習うべきだと感じます。

最後になりましたが・・・
駄文で私自信の考えもしっかりまとまらない記事で、お見苦しいところもあったかと思います。しかし、この作品の意義を読者の皆さんで見つける手がかりとなれば幸いです。最後までお読みいただきありがとうございました。

しっかりとした文章を作れるように、これからも精進していきます。
論文作成もあるし...苦笑。

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