見出し画像

かぐや姫の物語  [幸せと価値観]

「姫」と呼ばれる女性を思い浮かべてほしい。

「絶世の美人・美しい着物を着ている・大きな御屋敷に住んでいる・高貴の殿方と結婚し幸せに暮らしている。」など華やかな女性というイメージがおそらく強いのではないだろうか。

かぐや姫も視覚的に捉えるとそのイメージ通りの姫である。しかし、根本的に違う所があった。それは「不幸な姫」であるということ。

そもそもかぐや姫は人間ではない。月の民である。

月の民であるかぐや姫は地球上においてなぜ幸せになれなかったのか。

かぐや姫にとって本当の幸せとは一体なんだったのか。

様々な視点から考えてみたいと思う。

なお、作品の詳しいあらすじや登場人物に関しては他のサイトや書籍などを参照して頂きたい。


                                                   [家族の想い]


「今は昔、竹取の翁といふ者ありけり。」日本人であれば、一度は聞いたことがある言葉であろう。原作の竹取物語同様、かぐや姫の物語という映画はこの一文から始まる。

「翁」は皆さんが思い描く「姫」にかぐや姫を育てたかったのだろう。

竹から姫を授かったこと、更にその竹から金や衣を採取した翁は「天からの授かり物であり、姫を立派に育てよと天が命じている」と感じ取る。そして翁は金や衣を手に度々都へ赴き、やがて屋敷を建てた。それも独断である。

「高貴の姫君に育て、貴公子に認められることが姫にとっての幸せである」と考えた翁は姫を連れて都へ移住することにした。姫が不満を漏らしても、翁は断固とした態度を貫いた。自らの選択によほど自信ががあったのであろう。

ここで早くも翁の行き過ぎた過信が目立つ。山から都へ移住をする…。姫の人生において大きな決断を第三者である翁が下してしまった。

そこまでの決断に至った理由。それは翁が姫を想う親心が強いのか、それとも天から命じられているという使命感が強いのか。筆者の見方では恐らく後者だと思うが、真相は絵の中の翁のみぞ知ることだろう。したがってこの場で明言することは避けたい。

そして、この物語の影の主人公は翁である。家族とともに都へ移住をし、高貴の姫君となるべく稽古に励む…という姫の人生や生活の方向性を物語の序盤で早くも位置付けていることになる。

物語において姫自らが大きな行動を起こすことはほとんどない。むしろ姫という立場からくる環境的要素が支障となり起こせなかったのだ。

話を物語に戻そう。

最初こそ大きな御屋敷や美しい衣に魅了され楽しそうにしている姫。翁は安堵している様子であった。しかし、ここから姫はここから不幸のどん底へ陥ることになる。当然、誰も知る由もなかった。

名付け親となった斎部秋田より「なよたけのかぐや姫」の与えられ、かぐや姫の成人儀礼、披露宴が行われた。その後は相次ぐ求婚に見舞われる。

名高い貴公子からの求婚に、翁は自分のことであるかのように喜び、心を躍らせている。それをみた翁や女童は「かぐや姫様は何とお幸せなことなのでしょう」と語りかけるも、姫からは全くその様子は伺えない。そして姫は巧みな言葉や駆け引きを使い、求婚はを全て断る。御門からの求婚に対してはかぐや姫が私の元に仕向けば翁にも官位を授けると提言している。翁は更に心を躍らす。「あなたはまだ分からないのですか?」と翁に問う媼。本人は何も分かっていない。その後姫は翁に対してこういった。

「(私の想いが)御門の言葉に背いているとお思いなら私を殺して下さいませ。父上が官位をお望みなのでしたら、官位を頂くのを見届けてから、その上で私は死にます。」

翁に対して強い口調でそう言った姫の意思は鋼のように硬く見えた。

翁は当然落胆した様子を見せることもあった。その気持ちを察する姫の姿も伺える反面、本人は自分のことで精一杯であるため構うことは出来なかった。

このように人間の女性にとっては幸せと思える出来事が重なっても、彼女にとって幸せに繋がることは無かった。

姫が自らの想いを翁に告白したのは御門に連れて行かれそうになり、月へ助けを請うた後。しかし、翁が姫の想いを理解した時にはもう手遅れだったのだ。

一方、もう一人の家族である媼は中立な立場にいた。姫の想いも尊重しつつ、翁の思いも尊重している。家族にとっての「よき母」とはまさに媼のような人物なのであろう。しかし、最後は翁に対し疑問を投げかけることもあった。それはあまりにも翁が行き過ぎた行動をとったからであり、当然のことである。

姫と翁。2人に生じた溝はなぜ埋められなかったのであろうか。それについてはまず、姫の想いを理解しなければならない。


[姫の想い]


月の民であるかぐや姫は地球上でどのような生活を送りたかったのか。

それは月にはない地球上の自然と人々のあらゆる豊かな「生」を、そして「愛」を享受する生活である。

姫は地球から帰還した天人の記憶を呼び覚まして地球がいかに魅力的な場所であるか知った。月にはない豊かな自然に囲まれ、人々と生活をする。そのような生活が姫にとっては「生きている」という実感につながったのであろう。しかしそれは掟破りの行為であった。その罰として「昔の契わりがあったので、それに従いこの世界へやってきた」と姫は述べている。

更に月の民は不死である。それに対して地球の人間は必ずいつか死ぬ。月には無い「生命の死」というものに対しても興味があったのではないかと思われる。

・・・・・・

魅力的な場所に憧れ、その地にやってきた人物。という条件で当てはめるとおもひでぽろぽろの主人公タエ子も同様である。都会暮らしをしている彼女は憧れの田舎にやってきてそこで滞在しているうちに田舎の魅力を発見しつつ、様々な現実に直面する。2人の境遇は不思議と似ているところがある。

主人公が理想の現実に直面するということは、高畑作品の特徴の1つと言うことも出来るだろう。

・・・・・・

姫が作中内で「生」を享受していたときは子供のころ、捨丸やその仲間たちと山や川を駆け巡っていたときである。捨丸たちと山の中を裸足で走り回って野菜を食べたり、鳥を捕まえたりしながら彼らと同じスタイルの生活を送っていた。そのときの姫は実に生き生きとした動きをみせている。

そして「愛」を享受していたのは、都から山へ戻ってきた際に捨丸と再開し、姫が真実を彼に話した後「見つかってもいい。俺はお前と逃げたい!」と捨丸が言い、その後二人で走っていたときであろう。

姫は名高い貴公子達よりも捨丸と生きていく選択をした。幼いころから馴染みのある捨丸には素の自分を見せることが出来た。残念ながら遅すぎた選択であったが、捨丸と2人でいる間の姫は実に笑顔であった。都では絶対に見せない表情を見せている。姫は地球生活の最後で少しだけ、幸せな時間を送ることができたのだ。

姫にとっての幸せは「普通の人間として普通に生きる」ということである。

「高貴の姫君となり、名高い貴公子と結婚して大きな屋敷で幸せな生活を送る」という想いや願いは姫にとっては微塵もなかった。

かぐや姫は貴族のような人間としてではなく、普通の人のように泥臭く、そして地道に生きて生きたかった。

そして不死である月の天人では感じることの出来ない

「生きている手応え」を感じたかったのである。


[なぜ2人は寄り添えなかったのか]


翁と姫では幸せに対する価値観は明らかに違う。

2人に生じたズレはなぜ最後まで修復することが出来なかったのか。

まず挙げられるのは、地球人と月の民という根本的な違いだろう。

地球上の人間にとっての幸せな暮らしは月の民にとって日常である。

月の民(天人)にとっては、高貴の姫君や貴公子たちのような生活は当然のこと。なぜなら月は不自由が無く穢れた地ではないからだ。人間関係に翻弄されることも無く、争いも無い。むしろ都の屋敷より月の方が平穏な環境である。人間は豊かな暮らし、裕福なをしようと努力する。しかし月の民にとってはその努力は無用なのだ。

かぐや姫、過去に地上に降りたことがある月の民にとっては、人間として生活をしたかったのである。何もない月より、地球上で自然や人々と共存し生活をしたい。野や山に囲まれ豊かな自然や多くの生き物たちと共に生きていく。そしてそれらの下でいつか生命を終えたい。かぐや姫と同様のことを思う人も世の中には居るかもしれない。

しかし、月の民の本当の気持ちは人間には理解できないものであろう。


そして最大の要因は姫が翁に対し自分の想いを伝えられなかった環境にある。

姫は実に親思いのある娘だ。翁が自分のためを思って奔走してくれているのは重々承知していた。父の思いや期待に応えたい。父を悲しませたくない。その心があったから姫は翁に対しては本音をいえなかったのであろう。

媼に対しては都に移り住んで以来、度々自らの想いを語っていた姫であるが、翁に対してそれを語ったのは物語の後半になってからだ。特に月へ帰りたいと請うてしまったと説明した後に「父が私を想うその気持ちが、私にはつらかった。」と翁に対して言及したこの台詞はとても印象深い。


[現代社会にも通じること]


2人の関係性はいつの世にも通ずるものがある。

子供のことを想い過ぎたばかり暴走した行動をしてしまう親のことを「モンスターペアレント」「親ばか」などとよく日本社会では言う。

学校の教員に対し過度な要求やクレームを押し付けたり、子供に少しでも良い思いをさせようと傍若無人な行動をとる親の存在は社会問題となっている。また「キラキラネーム」「DQNネーム」と言われている子供に対し異色の名前をつける親も同様の存在であろう。

キラキラネームをつけられたり、親が学校の職員に対し過度な要求をした挙句子供は学校で特別扱いされ、肩身狭い想いをしている子供は今もいるはずだ。

翁は現代社会の人間にたとえればただの「親ばか」である。

姫のことを想って行動を起こした挙句、姫は不幸になってしまった。

子供を想う気持ちは分かるが、常識的な行動、更にその行動は本当に子供の幸せにつながるのか。かぐや姫と翁の関係性にならないよう、よく考えて行動して欲しいものである。


そして幸せの価値観というのは人それぞれである。

一般的なイメージでは幸せと想う事柄も、その人にとっては必ずしも幸せとは限らない。それはもう十分理解していただけたはずだ。

他人に自らの幸せを押し付けるということはタブーである。

「幸せ」に対する選択は必ず本人が行うべきだ。


[総括]


私が一番最初にこの映画を見たときの感想は「水彩画調の絵がとにかく美しく、絵が動いているというのはまさにこのこと」という映像に対しての考えがほとんどであった。特に姫が屋敷を抜け出し満月の夜に山へ走っていく描写はとにかく迫力があり、紙に描いた絵が本当に動いているような映像にしか見えなかった私は思わず「これが日本のアニメーションか…」と度肝を抜かれた。

古きよき日本の原風景、伝統ある屋敷や着物などが繊細に描かれている「かぐや姫の物語」。その美しい映像や背景画などはアニメーションという次元を超越し、芸術作品と位置づけることも出来るであろう。

しかし今回「幸せ」というポイントに焦点を置き、この物語を深く探ってみたところ、2時間の映像の中に2時間分を越える遥かに多くの情報量が詰まっていたこと、古典が原作であるにもかかわらず人々の心情がこと細かく描かれていることにも驚きを隠せなかった。

竹取物語を小学生のころ、学校で読んだときは特にこれといった印象も残らなかったが、この作品を見たことによりかぐや姫に対する印象は私の中で大きく変わった。姫の人生がいかに波乱万丈であったかなどという作品に対する印象だけでなく、姫に対して感情移入が出来たことはいまも不思議な感覚である。


「かぐや姫の物語」

映像はもちろんのこと、物語そのものも原作と比べてオリジナリティがあり素晴らしい作品である。原作の本を読むことも欠かせないと思うが、こちらのほうが見やすさはあるだろう。

映画・アニメファンだけでなくすべての日本人、また世界の人々にもぜひ一度見て欲しい映画である。


・・・・・・

ここまでは高畑勲監督作品にのみスポットを当て、記事を投稿しました。改めて高畑監督のご冥福をお祈りするとともに、監督が遺してくださった作品を後世に伝えていくためにも、今後も作品紹介や見解等を行いたいと考えています。

次からは高畑勲監督の盟友でもある宮崎駿監督の作品についても記事の投稿をする予定です。幸せというテーマで3回記事作成をしたので、次は魔女の宅急便「幸せになりたい少女・キキ」というテーマで執筆をしようかな・・・と思っています。

その他の作品は毎回テーマが異なるかもしれませんが、また一読いただければ幸いです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?