記憶びとへの恋文

出身は関西、現在の住いは東京の下町である。 還暦を過ぎ、記憶がまだ定かであるうちに、今…

記憶びとへの恋文

出身は関西、現在の住いは東京の下町である。 還暦を過ぎ、記憶がまだ定かであるうちに、今までに出会い私の人格形成に多大なる影響を与えてもらった人や出来事を通して、彼らへの感謝と共に自らを振り返り新たなステージで生きていく糧にしたいと考え、記憶びとへ恋文を書いてみる。

記事一覧

固定された記事

1959年7月 母 1文

あなたは、今、何を考えているのですか? 私も傍からみたら初老であるがあなたからみれば、まだ危なっかしい心配な次男坊なのでしょうね。  1959年4月に皇太子(今生上皇)が…

1966年 親父だと思っていたおじちゃん 10文

「三歳ぐらいまでは親父だと思っていた」私にはそんなおじちゃんがいる。今でもご健在で年賀状のやり取りは欠かしていない。  「富士の高嶺に降る雪も京都先斗町に降る雪…

2003年 和食K屋のおかみさん 9文

 20年近く前、六本木、現在ミッドタウンがあるところの対面当たりの雑居ビルの地下一階に私が好きな和食、懐石の店 K屋があったことを関西に行くために成田空港に向かう…

1965年4月 幼なじみの師僧 8文

「おまえは坊主になれ」と私の人生の節目節目に必ず現れ言い続けてくれたK君。K師僧のおかげで56~57歳の時、老体に鞭打って2回の京都での本山修行を終え、ギリギリの成績…

2004年 ずっとみてくれている友よ 7文

 2億円の商談が決まった。うめちゃんのおかげである。2004年、マツケンサンバが流行っていた頃、私も喜びサンバを踊っていたに違いない。 うめちゃんが勤めている会社の偉…

1971年8月 ソフトボールの宿敵 6文

 2023年8月、「結局、タコは大学生活、8年送ったと思っているが、今となってはそれがよかったなあ」。タコと会うのは5年ぶりである。昔と同じで昨日も話をしていたように…

1990年 300日間の入院 感謝しかないお医者さまへ 5文

OS先生へ 1990年から91年にかけて約300日の間、私は病院で過ごしていた。 当時、織田裕二と鈴木保奈美の東京ラブストリーをベッドに横たわって観ていたことを記憶している…

1977年 殴ってしまった友 4文

 巷はワールドカップ(ドーハ)において、日本がドイツに勝って盛り上がっている日曜日(2022年11月27日)、FacebookからM君の誕生日のお知らせが届いた。早速、LINEでお祝い…

2009年5月 シュムリアップのトゥクトゥクドライバー 3文

Oui (ウイ)と彼は応える。シュムリアップ空港から朝早くホテルに着いてシャワー浴びて街にくり出すことにした。ホテルの入り口の脇に数人の三輪自動車のタクシーのトゥクト…

1965年7月 幼稚園児の初恋 2文

「かあちゃん、こいつに飯食わしてやってぇな。僕の嫁さんになる子なんやでー!」と幼稚園児であった私が言っている。嫁さんになる子はユカリちゃん、桃のようなホッペをし…

記憶びとへの恋文 初夜

初めての投稿です。 私が投稿する思いをまずはご紹介できればと思っております。 1. 還暦を過ぎ、記憶がまだ定かであるうちに、今までに出会い私の人格形成に多大なる影…

1959年7月 母 1文

1959年7月 母 1文

あなたは、今、何を考えているのですか?
私も傍からみたら初老であるがあなたからみれば、まだ危なっかしい心配な次男坊なのでしょうね。
 1959年4月に皇太子(今生上皇)がご結婚され、ミッチーブームに沸く中で安保改定交渉が本格化してきた。その年の7月に私は生れた。
前日、夏の夜に商店街が主催しているお祭りイベント(夜の市)で店番をしていたあなた。文房具屋を営んでいたため身重であっても戦力の一員である

もっとみる
1966年 親父だと思っていたおじちゃん 10文

1966年 親父だと思っていたおじちゃん 10文

「三歳ぐらいまでは親父だと思っていた」私にはそんなおじちゃんがいる。今でもご健在で年賀状のやり取りは欠かしていない。
 「富士の高嶺に降る雪も京都先斗町に降る雪も雪にかわりはないじゃなしとけて流れりゃ みな同じ・・・」という歌いだしの「お座敷小唄」が十八番であったおじちゃんちゃん。1966年、ほんとの親父が経営していた零細企業の社員旅行で私がおじちゃんに抱っこされている写真を今みている。おじちゃん

もっとみる
2003年 和食K屋のおかみさん 9文

2003年 和食K屋のおかみさん 9文

 20年近く前、六本木、現在ミッドタウンがあるところの対面当たりの雑居ビルの地下一階に私が好きな和食、懐石の店 K屋があったことを関西に行くために成田空港に向かう京成電車の中で思い出した。六本木からその後新橋に店は移転した。移転後にも2、3回訪れたと記憶している。インターネットで「K屋 新橋」でググる。1軒の店が表れた。御成門近くにあるが今でも営業しているのだろうか?
 金髪に染め、ベリーショート

もっとみる
1965年4月 幼なじみの師僧 8文

1965年4月 幼なじみの師僧 8文

「おまえは坊主になれ」と私の人生の節目節目に必ず現れ言い続けてくれたK君。K師僧のおかげで56~57歳の時、老体に鞭打って2回の京都での本山修行を終え、ギリギリの成績で僧侶の資格をいただいた。そしてK師僧から浄立という名を授かった。
 出会いは1965年の4月、幼稚園へ入園して間もない頃だ。この年から数多くのシリーズが描かれたゲゲゲの鬼太郎の髪型を真似ていた、今で言うグラボブレイヤーだったK君。後

もっとみる
2004年 ずっとみてくれている友よ 7文

2004年 ずっとみてくれている友よ 7文

 2億円の商談が決まった。うめちゃんのおかげである。2004年、マツケンサンバが流行っていた頃、私も喜びサンバを踊っていたに違いない。
うめちゃんが勤めている会社の偉いさんをご紹介してもらい、その大きく太い関係性の中からからソリューションを考え提案し、どぶ板営業も辞さず活動した結果である。その偉いさんに対してのうめちゃんの陰の交渉もあったと思っている。本当にありがとうございました。今でも感謝してお

もっとみる
1971年8月 ソフトボールの宿敵 6文

1971年8月 ソフトボールの宿敵 6文

 2023年8月、「結局、タコは大学生活、8年送ったと思っているが、今となってはそれがよかったなあ」。タコと会うのは5年ぶりである。昔と同じで昨日も話をしていたように会話は続く。 高校時時代に私が名字といで立ちによりタコ(蛸)と命名させていただいた。タコとの思い出で一番盛り上がるのはやはり、半世紀前の夏の小学生町内対抗戦のソフトボール大会決勝戦である。その年の夏のプロ野球オールスター戦で阪神の江夏

もっとみる
1990年 300日間の入院 感謝しかないお医者さまへ 5文

1990年 300日間の入院 感謝しかないお医者さまへ 5文

OS先生へ
1990年から91年にかけて約300日の間、私は病院で過ごしていた。
当時、織田裕二と鈴木保奈美の東京ラブストリーをベッドに横たわって観ていたことを記憶している。その月9ドラマがある毎週月曜日の朝、担当主治医であった呼吸器科のOS部長が回診に来てくれる。
今でもWebで先生の名前を検索すると、現役で活躍されていることがうれしい。さすが名医である。
 1990年11月頃から、よく咳き込む

もっとみる
1977年 殴ってしまった友 4文

1977年 殴ってしまった友 4文

 巷はワールドカップ(ドーハ)において、日本がドイツに勝って盛り上がっている日曜日(2022年11月27日)、FacebookからM君の誕生日のお知らせが届いた。早速、LINEでお祝いのメッセージを送る。サザンのライブ巡りをしたいと元気な返信がきていい気持になる。忘れることができない彼との記憶は、ロッキード事件で田中元首相が逮捕された年。高校二年生の私が彼を殴ったことだ。一回ではなく数回、同級生が

もっとみる
2009年5月 シュムリアップのトゥクトゥクドライバー 3文

2009年5月 シュムリアップのトゥクトゥクドライバー 3文

Oui (ウイ)と彼は応える。シュムリアップ空港から朝早くホテルに着いてシャワー浴びて街にくり出すことにした。ホテルの入り口の脇に数人の三輪自動車のタクシーのトゥクトゥクドライバーが屯していた。「安くしておきますよ」と流ちょうな日本語で話しかけてきたドライバーをさらりとかわし、端の方でモジモジしている厳つい大男が目に留まった。片言の英語で「あなたは一日貸し切りでいくらですか?」「13ドル」「五日間

もっとみる

1965年7月 幼稚園児の初恋 2文

「かあちゃん、こいつに飯食わしてやってぇな。僕の嫁さんになる子なんやでー!」と幼稚園児であった私が言っている。嫁さんになる子はユカリちゃん、桃のようなホッペをしていたのでモモちゃんと呼びたかった。ちょうど1965年にテレビ放映が始まったジャングル大帝レオの妻ライヤとモモちゃんを重ね合わせていた。今から思えばモモちゃんにはチャーミングな色気があったような気がしている。

 実はご飯の話も母からいつ頃

もっとみる
記憶びとへの恋文 初夜

記憶びとへの恋文 初夜

初めての投稿です。
私が投稿する思いをまずはご紹介できればと思っております。

1. 還暦を過ぎ、記憶がまだ定かであるうちに、今までに出会い私の人格形成に多大なる影響を与えてもらった人や出来事を通して、彼らへの感謝と共に自らを振り返り新たなステージで生きていく糧にしたいと考えた。

2. また、このエッセイを私がボケた時に肉親、介護人が自分に対して読んでくれることにより、私が記憶をなぞるこ

もっとみる