見出し画像

1965年4月 幼なじみの師僧 8文

「おまえは坊主になれ」と私の人生の節目節目に必ず現れ言い続けてくれたK君。K師僧のおかげで56~57歳の時、老体に鞭打って2回の京都での本山修行を終え、ギリギリの成績で僧侶の資格をいただいた。そしてK師僧から浄立という名を授かった。
 出会いは1965年の4月、幼稚園へ入園して間もない頃だ。この年から数多くのシリーズが描かれたゲゲゲの鬼太郎の髪型を真似ていた、今で言うグラボブレイヤーだったK君。後にわかったことであるがご両親は東京から来られてお父様は隣の丁目のお寺のご住職であった。
 小学校の夏休みに、K君と一緒に京都の本山で短期修行を体験する。全国から檀信徒内外のこどもが集まり、仏教行事の意味、礼儀作法等を学んだとのことだが、楽しくキャンプした記憶しか残っていない。この時にも「坊さんになれ」と言われたのだ。。ションベンカーブで三振を取るK君、サードは私が守る弱小のチームで、小学校主催のソフトボール大会の優勝を勝ちとったのは嬉しかった。中学校の剣道部で本格派のK君は5人チームの中堅、技巧派の私は先鋒で府下北部では敵なし。しかし、全府下大会では後に優勝したチームに1回戦敗退だったが楽しく観光して田舎に帰った。高校の時に千葉にもお父様が住職をされているお寺があり、単身でK君は転校していった。
 東京に出たかった私は浪人生活をすることにして高田馬場の予備校に行き始めた。「K」、振り向いた彼はニャリと笑う。突然の再会。これは必然であったのかもしれない。勉強はそこそこにふたりで楽しい浪人生活もつかの間、大学試験の日は近づいてきた。「ひとつぐらい仏教系の大学を受けたら」「女にもてなさそうだから・・」そんなやり取りをして。K君は仏教系の大学へ、私は高級住宅街にある大学へ進んだ。
 社会人となって毎日仕事が終わった後、朝まで飲み歩いていたら、結核を患い一年ほど隔離病棟に入っていた。「サラリーマンなんかやっているからそんなことになるのだ。お前は坊さんになれ」32歳になっていた。そして50歳を境に「坊主になれ」が私に降りてきた。さすがのK君も「今からか?」という顔であったが弟子として受け入れ得度した。
 すでに出会って半世紀以上が過ぎ、私はまだサラリーマンではあるが師僧のお寺の法要でお手伝いさせていただくこともある。檀信徒さんを2、3日で百件ほどお参りするお盆の棚経は私にとっては修行である。
 あとどれぐらいお互いに生かされていくのかはわからないが、私がこの世を去る時に「坊主になってよかった」と言うだろう。師僧は「そうだろ!」とニャリとドヤ顔になる。これからも節目節目で、「坊主になれ」を肝に銘じたい。そろそろ、軸足を坊主に移し師僧のおちからにならなくて、合掌。  2022.09

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?