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「また大学で学びたい」は受け身

「また大学で学びたい」。そう思ったことがある。いまの感覚をもったまま大学に戻ったら、きっとこんな勉強をしたにちがいない、と。

会社員として仕事をしていながら「これからどんな仕事をしようか」「何を成し遂げていこうか」と、ある種の “夢” を追い求めながらも、「そのためにはこんな勉強をしたほうがいいな」と、実現する具体的方途よりも “学び” を求めていた。

しかしあるとき、それは「大学」に行けば学びの機会がある、整った環境がある、という一種の言い訳になっていたことに気がついた。学生になれたら、環境があればと、 “たられば” を言っているに過ぎなかった。

つまり「また大学で学びたい」と思うことは、ともすれば受け身の姿勢でしかなくなってしまうのだ。

今ある状況を、自分の必要な状況に変えていく。そんな前傾姿勢の学びがなければ、たとえ再び大学に行こうとも悪戯に学問に興じて終わってしまう。本当の意味での学は身につかない。

学びたいなら、自ら本や教科書を読み漁り、当時より圧倒的に高い意識で学び、アウトプットして力をつければいい。今、アウトプットの場はいくらでもあるしつくれる。僕自身、それに気づいてからというもの、少しずつだが今ではそれができている。

現に学生時代、授業や講義の時間よりも自己研鑽・研究の時間のほうが圧倒的に多かったはずだ。勉強も研究も、まずは自分の環境につくり上げ、生活のなかで当たり前にしていくことから始まる。仕事や生活のうえにいかに学問・研鑽を成り立たせていくか。ここに甘えはなく自分との勝負になる。

その学びも、ただの “学習” にとどめず生活上のプラクティカルな知に落とし込むことが重要となる。そのなかでいつしか実践知が、さらに応用的・創造的な智慧に昇華されていく。叡智とは知識の集積ではなく智慧に昇華されるほどまでの実践知の集積を言うのだと思う。

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学生時代、僕は生き方を探していた。

どう生きたらいいのか、どう学んだらいいのか、どう友人と付き合ったらいいのか、どう学生生活を送ればいいのか、教授や職員との接し方、友人との接し方、授業・講義の受け方、空き時間の使い方。

すべてにおいて、 “正解” を探していた。

当時の僕は、自分の一挙手一投足が信じられなくなり、人が認めてくれること、人が認めていると感じられて心地良いことなら、それが良い、正しい時間の使い方だと思っていた。勉強も研究も、日々のあらゆる努力のようなものはすべて、誰かへの報告の機会と評価があったからできてきたことだった。それくらい主体性の意識が欠落していた、と今では思う。

しかし、今こうして自分で生きる道を選択して生きている。人に何かタスクを与えられて、課題を与えられて、それに答えて、応えて、評価をあてにして、また次に進めてもらう、そんな生き方はもうしていない。

仕事を得て、時間と方法を決め、人との関わり方、稼ぎ方も意味もすべて自分で決定して、一日一日をたしかに自分で決めた道で、歩き方で、生きて進まなければならない。

学生時代もずっとそうだったはず。だけど、どこかで、人に決定権が依存した生き方から抜け出せていなかった。それがわかっていなかった。

日々、知らず知らずのうちに言い訳をしていないか。意味を与えるのは自分になる。場所もチャンスも自分でつくれる。


ライター 金藤 良秀(かねふじ よしひで)


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