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#01 マウント野郎とレイシズム

あなたの周りで、マウントを取ってくる人はいないだろうか?あるいは、あなた自身は周囲の人にマウントを取ったりしていないだろうか?

マウントを取るというのは、「自分の方が上なんだぞ!」というアピールをすることである。自分を大きく見せようと「国立有名大学の出身」や「一部上場企業に勤めている」と自分のステータスや実績などをアピールすることである。(東洋経済オンライン『他人にマウントをとる人のあまりに情けない心理 他人の価値を落として自分の価値は上がるか』より引用)

上記引用記事の執筆者である臨床心理士・公認心理師のるろうにさんによると、マウントを取る人の心理は承認欲求が強い人だという。承認欲求とは、周りから凄いと思われたい、認められたいという欲求だ。そして、承認欲求が人一倍強いのに、その裏では自信がなくて不安でたまらない。自尊心を保てなかったり、努力して自分の価値をあげることができなかったり・・・と、るろうにさんは論じている。

私もこれまでの21年間の人生で、大なり小なりのマウント野郎(マウントを取る人間)と出会ってきた。
幼稚園の頃には、かっけこが得意な子が「俺は一位だったぜ、お前に勝ったわ」とマウントをとっているのを見たし、私も取られた。
小学生の頃には、勉強の得意不得意でマウントを取ったり、塾で進んだ単元を勉強していることをマウントを取ったり、スポーツで活躍していることをマウントを取ったりしている子がいた。
中学生にもなると、テストの順位制度が登場するので勉強マウントは勿論のこと、恋人の有無のマウントなども登場する。さらには、顔が整っているか、否かのマウントやも開始される。
高校生になると、ファッションマウントやモテマウントも始まる。
大学生になると、さらに多様なマウントを目撃する。「俺はこんなレベルの大学に入る予定ではなかった。」「周囲のレベルが低すぎる。」というマウントに始まり、運転免許を取り出すと免許を持っていない人に対し「いつ免許を取るの?」「免許がないと彼女できないぜ?」というマウントも存在する。
教授までもが「〜ってわからないと思うんだけど」とか、「ファシリテーターを選んでくださいね。あ、司会者のことね」といったマウントを取る。
社会人になれば、企業のブランディングマウント、収入マウント、学歴マウント、資格マウント、結婚マウント・・・人生はマウントに満ちているのかもしれないと思わざるを得ない。とはいえ、社会人マウントには直面していないが。

これらは、誰しもが直面したであろうマウントをざっと概観したものだ。
次に、私の経験談を述べよう。私が取られて、ムッとしたり、モヤモヤしたマウントを紹介したいと思う。

ある時、友人と滋賀県に出かけたことがあった。冬で、六甲おろしで風が吹き荒れ、寒さで耳や顔がかじかみ痛くてたまらなかった。私が、たまらず「六甲おろしってこんなに寒いんだな」と呟くと、友人は「鈴鹿おろしとどっちが寒いんだろう」と言ってきたので、「鈴鹿おろしより、六甲おろしの方が寒いんじゃない?」と返すと、「あ、でも厳密には鈴鹿おろしって存在しないんだよね」と得意げな顔をされた時には、「なにが目的なんだ?」とムッとした。

ウクライナのゼレンスキー大統領の話をしている時に、「国民の僕ね〜(ゼレンスキー大統領のコメディアン時代の主演映画)」と言われ、私はその当時、国民の僕を知らなかったので反応に困っていると、「あ、知らないならいいです」と言われて、ムッとしたこともあった。

あるアーティストの曲がLINEで送られてきて、その曲を聴くととても良い曲であった。「このアーティストの曲いいね」と送信すると、返ってきたのは、「〜(別のアーティスト)の曲いいよね(笑)」という内容だった。要するに、カバー曲だったのだ。ならば、そう教えてくれたらいいのにと思った。

私の交友関係に干渉をしてくる友人がいる。私は男女の友情は成立すると思っている。そもそも、友人というのは人間として魅力がある人と思うから交友するのであって、そこに「男」とか「女」とかの性別を持ち出すことはナンセンスだと思う(人の魅力を性別でしか考えられないのか!?と思う)が、あえて、「男友達」「女友達」という表現を用いるということを理解してほしい。私には、男友達もいるが、その分で女友達も多い。現に、一番なんでも腹を割って話せる友達は、女友達だし、高校時代に一番名がよかったのも女友達である。
だから、女の子と二人で出かけたり、女の子の集団に混じって遊びに行くこともよくある。そうすると、決まってその友人は、「女と遊びに行くのなら、俺らに報告しないんだ?」と聞いてくる。別に、友人と遊ぶことを友人に報告する必要があるのかと思うが、「俺は女の子とデートする時にお前らに報告してるだろ!」と言ってきた。うーん、そういうことではないことは前提として、私が女の子と親しくしていると妙に干渉してくる。別の友人から聞くと、「あいつ、自分が女の子と遊べないからって妬んでるんだよ」と言われたことがある。
何度も言うが、この友人の勘違いは甚だしい。私はデートではなく、単に友人と遊んでいるだけだから。勘違い甚だしいし、その価値観に共感は一切しないにせよ、これも女の子と遊べない自分と、私を相対化してのリアクションなのだろうと私は感じた。その後、実際に、その友人に彼女ができた。そうすると、私たちに対する態度が豹変し、ことあるごとに彼女自慢や、「お前らも彼女っていいぜ」と言ってきたり、失恋したばかりの友人に「次、いけよ」と言ってみたりするようになった。彼女ができたことで、自分に自信が湧いて来たからゆえの、優位性をアピールするマウントだろう。(その後、友人は振られもとに戻った)

大学に入ったばかりの頃、国公立に落ちた子が「レベルが低すぎる」とことあるごとに言ってみたり、「簡単すぎて」「うるさすぎる」「民度が低い」と文句ばかりを連ねていた。その子は、少し倍率の高いゼミに入り、久しぶりに会って「久しぶり、最近どう?」と聞くと、「このゼミは頑張れる環境だよ。この大学にしてはレベルが高いからね」と言ってきて、私のゼミの内容を聞くと鼻で笑われたこともあった。

ある教授は、「僕は落ちこぼれだ」と自らを卑下する。どうやらその教授の通っていた高校のクラスでは年間で30人が東大に入るらしい。しかし、「自分は東大に入れなかった」とことあるごとに言う。同級生はいまや大学病院のセンター長だとか、有名大学の教授だとか、エリート企業の重役だとか、国連機関で働いているとか、そんなことばかり言っている。
そして、「私の研究分野がオーソドックスであれば、有名大学の教授になれたかもしれない」と言っていたりする。その教授は、講義でも有名大学のレベルの講義を行なったりする。学生は、難しくてポカンとしていると、「これは、○○大学の教授をやっている僕の友達のレジュメを参考に作ったんだよね〜ちょっと難しかったか」と言っていたりする。当然、学生からの人気はないに決まってる。
その先生は経済系の専門分野の教授だが、専門分野を超えて、幅広い知識に精通していると思う。そこから学ぶことは多いと私も感じる。その教授は、自分の興味関心を持っている分野の教授(仮にB教授としよう)が、学生からの人気が高いことを不満そうにしていた。そのB教授は、学生にわかりやすいように丁寧なレベルから講義を行なっているし、学生の興味関心をリサーチして講義を設計している。だから、学生からの人気がある。すると、その教授はB教授のことを「インチキだ」「実践面では私も負けていない」と学生に対して批判を展開する。事実、その教授とB教授は学術的な主張に相違もあることも原因かもしれないが、ことあるごとに、B教授の批判を繰り返していて、正直、見苦しかった。

人間が自己を認識する際、その認識を自己完結することはできない。なぜならば、人間が生きる世界とは、様々な人や存在、制度、概念と共生している社会であるからだ。もし、私たちが、宇宙の中であらゆる万物とつながらずに孤独に生きることができるのであれば、きっと人生の悩みも社会問題も日常生活の課題も発生しないだろう。しかし、現実問題、そうはいかない。我々はあらゆるものと繋がりながら、生きる他ないのである。

だからこそ、他者と相対化して、自己認識を行ったとき、「自分は他者と比較して、優れている」という傲慢さを振りかざしたり、はたまた「自分は他者と比較して、劣っている」と自信を喪失したりするのだろう。
また時に、他者と比較して優れている自分の優位性を他者に誇示することで、自己肯定感(偽り)を高めたり、自信がない腹いせに他者を否定し貶すことで自分自身の存在を肯定(偽り)したり、自信を卑下することで、相手からの「そんなことないよ」と言う言葉を求めたり、自分自身について考えることを容易く放棄したりするのだろう。

余談だが、こんな話をしていると、the peggiesというバンドの「ドリーミージャーニー」という曲の「自信がない腹いせに誰かを否定してもそれは、自分を肯定したことにはならないんだ」という歌詞のフレーズを思い出す。

かっけこマウントも、勉強マウントも、恋人マウントも、容姿マウントも、免許マウントも、学歴マウントも、年収マウントも、学歴マウントも、キャリアマウントも、知識マウントも、優位性を誇示する、あるいは、優位性に対するコンプレックスから起因するものだろう。
つまり、「優位性」という物差しありきで発生する現象に他ならない。

そして、これは優生思想に他ならない。
つまり、他者と比較した際に、優位であるものを迎合し、劣っている他者or自己を排除しようとする、レイシズムを感じずにはいられない。

そしてこの「優位性」という概念の妥当性すらも考えずに、私たちは「優位性」に固執する悲しき生き物である。
「優位性」とは、社会において人間によって勝手に意味付けが行われた定義である。それが、さも正しいかのように、幻惑されてしまっているのだ。

かけっこは早い方がいい、勉強はできた方がいい、ある程度の年齢になったら恋人がいた方がいい、世間一般的にはこういう顔が整っている、こういうファッションがおしゃれである、身長が高い方がいい、スリムな方がいい、ムダ毛はない方がいい、髪型はこれがおしゃれである、高学歴の人間は優れている、エリート企業に勤め年収が高い人間は優秀である、結婚している人間は人間性ができている、そして結婚するなら優秀な人間とするべきである・・・・
学校は社会の縮図であるとはよく言ったもので、幼い頃から段階を踏んで、私たちは格差と分断の社会を形成し、またそのシステムを維持している。

そして、そうした風潮が、ムダ毛は汚い、ハゲは見苦しい、デブはみっともないといったルッキズムを助長し、過剰に産業(脱毛・育毛剤・ダイエット)などのビジネスを誕生させ、人々のコンプレックスによって富を得るのだ。
ダサいという価値観の押し付けは、ファストファッションなどの大量生産・消費へと導く。エリート企業に勤め、収入の高い人間は、生産性が高いという価値観が、私たちを過剰なまでの競争市場に陥れ、私たちの存在価値を単に、利潤を生み出すだけの労働力商品に限定してしまう。過剰な生産と消費という、あらゆる格差や劣悪な労働問題、レイシズム、インフレ、戦争、気候変動の問題を生み出すと同時に、そういう問題を他者へ転化することで、問題を先延ばしにしながら、問題を膨張させ続けている資本主義経済の源は「優位性」にこそあるのではないか。

そして、働けない=生産性がない、とか、低収入=生産性が低いなどと、意味付けされた「引きこもり」や「貧困にある人」や「重度の障害を持つ人」などに対して、「こんなんになったらダメ」とか「あの子はかわいそうだ」とか「生まれてきた意味があるのか?」と勝手な意味づけと排除を繰り返す。

もう少し、マクロな話をすれば、都会よりも田舎が劣っているという考えが、都市部にエネルギーを供給する危険な原子力発電所を田舎に建設する構図を仕立て上げたり、先進国より途上国が劣っているという考えが、安価な労働力を求めて先進国の企業が途上国に進出し、劣悪労働や乱開発や環境問題などの搾取を生み出したり、その弊害を劣っていると意味付けするものへ押し付ける。
沖縄の米軍基地問題であっても「日本の平和」という課題を、沖縄に問題を押し付けすぎではないか。(筆者は沖縄の米軍基地は安全保障の観点から必要だと考えるが、日米地位協定の改定などの問題に政府は積極的に取り組むべきではないか)アマゾンの開発であっても、砂金の採取のために、水銀が垂れ流され、国の発展と共に発生する健康被害は原住民に押し付けられている。
そして、歴史に学ぶと「私たちの国は偉大である」とか「優秀な民族」というスローガンによって扇動された人々が、ホロコーストやジェノサイドを繰り返し、侵略や戦争を起こして、多くの人々の命を奪った。
これは、経済力や軍事力を背景にした「優位性」というパワーバランスによるマウントである。これをマウントと言わずして、なにをマウントというのか。

そして、人間は問題に直面した時に、その問題の所在や解決を外部に頼る。
これは、大きな落とし穴である。かくいう私も偉そうに講釈を垂れているが、他人事ではない。「社会運動を通じて社会を変えたい」と前回の投稿で語ったが、これは社会という外部を変えることで、変革を図りたいと考える、外部への要求に他ならない。では、私自身は変わる必要はないのかという話だ。実に傲慢だ。
そんな私だって、他者と比較して自分の自信を喪失することもあるし、逆に「よし、勝った!」と優位性を感じて自信を高めることもあるし、(これくらいは知っているだろう)と勝手に相手への理想を押し付け、相手が知らない場合に、「え、流石にこれくらいは・・・」と口走ったり、内心で(えぇ、嘘だろ?)とマウントを取ることもある。他にも、この投稿でも、色々なものを批判してきたが、これは私が「間違っている」と勝手に意味付けたものを批判している。
なにより私がマウントを取られた時に、ムッとするのは、マウントを取る人と自己を相対化しているからであり、マウントにその時点で加担しているのだ。
つまり、私もまたマウント野郎であるのだ。そんな心を持った私は、またこの息苦しい社会を生み出し、維持している当事者の一人であるのだ。

社会の価値観は絶えず、パラダイムシフトする。昨日の常識は、明日の非常識なのだ。そんな時に、真っ先に飛び乗った一部の進歩主義者は、昨日の常識にあるものを批判する。なにかあれば、人を批判し、炎上させる。過去の行いを引っ張り出して、批判し炎上させるような、キャンセルカルチャーもその一種だ。
確かに、問題提起は必要だ。しかし、問題提起が必要なのは、問題を解決するという正義のためだ。人を批判し、炎上させる問題提起は、正義でもなんでもなく、「優位性」を誇示するこれもまた、見苦しいマウントである。

人を攻撃することで、正当性を得たかのように「優位性」を誇示する愚かなマウント野郎の語る、多様性(笑)とはいかに。
そもそも、愚かさを自覚しない我々の掲げるダイバーシティ(笑)の理念とはいかに。ははは。笑えない、ブラックジョークにも程がある。

だから、大切なことは、問題を外部化する前に、内部化することを意識することではないか。ソクラテスの「無知の知」と同様に「自分はマウント野郎なのだ」と自覚することが大切なのではないか。
人間は誰しもが愚かであり、悪である。誰もが、道を踏み外す可能性を持つ。その時に、自らの愚かさを「仕方がない」と割り切り思考を放棄するのではなく、「今、愚かなことをしてしまった」と自覚し、どうやって道に戻るのかを考え、苦しむという覚悟と長い旅路を歩むという体力が必要なのである。そして、時に、他者の愚かさを指摘すること、そのためには、自らの愚かさの指摘に耳を傾けること。これこそが、本当の意味での共生社会(多様性)ではないのかと思う。そして、そうした社会が、私たちの生きる意味を、あらゆる「優位性」という名の外部に存在するステータスから、内部から真の人間や社会や万物の価値を見出すことができるようになるのではないか。長い道のりではあるのだが・・・

最後に、「仏教のミカタ-仏教から現代を考える31のテーマ-」(東本願寺出版)より、こんな話を引用しようと思う。

古典的な差別の例に、アンベール・メンミの定義がある。
「人種差別とは、現実の、あるいは架空の差異に、一般的、決定的価値づけをすることであり、この価値づけは告発者(差別者)が自分の攻撃を正当化するために、被害者を犠牲にして、自分の利益のために行うものである」

また、差別論を専門とする社会学者の三橋修氏は、「差別関係とは、一方の集団が他方の集団を意味づけする権利を一方的に持っており、その逆を不可能にする現実的障害に媒介された関係と言えるだろう」と論じている。

メンミは「差別は決定的な価値づけを自らの利益のためにする」と論じる。三橋氏は、「意味付けする権利を一方的に持っており逆がない」と論じる。私たちは、日常的に他者への意味づけや価値づけを行なっている。「烙印」を押し続けている。なぜ、そういう権利を持っているのかには無頓着のまま、権利から発生する権力を行使している。そういう権力を差別的関係(集団と集団の中の関係性)の中で、当たり前のように行使している。差別は、個人対個人の軽蔑でもなければ偏見でもなく、一つの差別が集団に属する全ての人を貶める行為なのだと、真宗大谷派僧侶の名畑格氏は論じる。
(参照:『仏教のミカタ-仏教から現代を考える31のテーマ-』東本願寺出版 19「アイヌに学ぶ 平等を願うこころ」p154〜161 名畑格)

メンミの定義は、「優位性」に取り憑かれ、それを誇示しようとする我々の本性を指摘している。そして、三橋氏の指摘は、「優位性」とされるものが一方的に意味づけや価値づけを行なっていることを見事に見破っている。そして、名畑格氏の指摘は、そうした「差別(レイシズム)」が我々の社会を富の豊かさと引き換えに、心を貧しくさせ、非人間的で、抑圧的で、息苦しい社会にしている源であると気づかせてくれる。私はこの本で名畑氏の指摘をそう感じずにはいられなかった。
そして、あらゆる社会問題、人生の悩み、身近な課題は、「優位性」という悪魔により発生し、それは私たちマウント野郎が生み出した負の産物に他ならない。そして、そんな息苦しさの諸悪の根源である資本主義経済と私たちの相性が異様にいいのは、私たちが「優位性」という悪魔を絶えず誕生させ続ける優位性に取り憑かれた愚かなマウント野郎だからである。全てのQEDは完了した!私たちは、自らの首を絞める愚かなマウント野郎なのである!

私は愚かである。これを自覚し、長い旅路を歩もうと思う。そして、この記事に共感してくれるすべての人はその長い旅路を歩もうではないか。そして、いずれは人類が団結し、長い旅路を歩もうではないか。

私たちマウント野郎にだって、未知なる可能性が秘められているのだから。


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