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「何もしてあげられなかった」

 11月11日、18時30分。卓上の蛇口からハイボールが出てくる神田の居酒屋で、父親と1年2ヶ月ぶりに再会した。

 ハイボールとレモンサワーが飲み放題である以上、2時間ひたすら飲み続けないと逆に損をする。普段は2杯で酔えるお酒激弱の私がこの日は軽く5~6杯も飲んでしまい、泥酔状態となった後半の会話は半分ほど覚えていない。

 それでも、父親のあの言葉だけは印象的で、今でも私の脳裏に焼き付いている。

「高校を中退してからのお前に、何もしてあげられなかったことを後悔している」



 私が高校(高専)を3クールで中退した話はnoteに何度も書いたが、それに付随する両親の話は不自然なまでに避けてきた。高校を辞めるなんて親が容易に納得してくれるはずもなく、3度目の懇願(というかただ喚き散らしただけ)でようやく父親が「じゃあ辞めろ辞めろ」と投げやり気味に吐き捨てた。同時に「運動をすること」「社会との接点を持つこと」などの約束を複数提示した。

 私はそのいずれも実行しなかった。



 後藤真希が(妄想上で)支えてくれたお陰で大検(現在の高卒認定試験)には合格できたものの、それが人生のピークでもあった。予備校の模試はE判定の連続。講師にこっぴどく叱られ、お先真っ暗であることに気付くと程なくして鬱病になり、心療内科に通った。中学で学年15位に上り詰め、高校受験をトップ合格した男は、その2年後に勉強の出来ない精神状態に闇落ちした。

「約束を守らないからこうなってしまったんじゃないのか」

 言い得て妙の父親。「何もしてあげられなかった」のでは決して無い。私が腐らない為のアドバイスをちゃんとしてくれていたのだ。私がそれに応えず、勝手に自堕落な生活をして勝手に腐っただけなのだ。

 当時の私に“他者視点”という概念は皆無だった。父親の、母親の、高校教師の、そして予備校講師の気持ちをろくに考えていなかった。いつも自分の事だけで精一杯だった癖に、その自分さえも幸せになれなかった。

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 令和5年。父親も母親も70歳を超えた。それなのに、20年も前のことを今更「何もしてあげられなかった」と後悔している。それは私の台詞である。学生時代に散々迷惑をかけておいて、反対を押し切って上京してからの15年間、私は両親に何をしてあげられただろうか。

 高校中退から鬱病を経てFラン大に進学するまでの暗黒の3年間が、20年経った今でも両親に呪いのように付き纏う。そうさせてしまったのは他でも無い私だ。0点を取った専門科目、何度聞いても操作できない機械、グループに迷惑ばかりかけた化学実験、PCに嫌悪感すら抱いたプログラミング、そして孤立する体育。確かに16歳の少年にとっては高い壁だったのかもしれない。しかし、統計上は98%以上もの生徒が普通に乗り越えている壁でもある。高校を辞めずに通い続けるだけで鬱病は回避できただろう。両親に喚き散らすことも無かったはずだ。ただ一つ、両親の悲しむ顔を見たくない、そう思うだけで、“他者視点”を持つだけで、誰もが幸せになれたのかもしれない。

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 学生というのは社会人に向けての準備期間、モラトリアムであり、色々と間違えるのは致し方ないのかもしれない。将来的に幸せになれれば、その過程で失敗を繰り返したって良いのかもしれない。「終わり良ければ全て良し」とは言い得て妙なのかもしれない。

 そんなの綺麗事だと今の私は思う。学生こそ一日一日を大事に生きねばならないのだ。その時の怠惰が、トラウマが、黒歴史が何年後、あるいは何十年後に我が身に降りかかるか、はたまた家族の誰かに呪いとなって付き纏うか。可能性の一つとして十二分に考えられるのだ。

 SOFFetの『人生一度』より「喉が渇いたときにはもう水は無い」という歌詞を引用して、この記事を締める。そして私は父親の言葉に今も苦しめられている。



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