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「ノルウェーでサバを買っていたはずなのに、気づいたら厨房でビリヤニを作っていたんだ。」 【短編エッセイ】

私は新卒で入社した会社で、ノルウェーの企業からサバの買付をする仕事をしていた。世界を股にかけた仕事。長期の海外出張にも行くチャンスに恵まれ、夢にまで見た仕事だった。
しかし、そこにいた2年間、私はまるで悪魔に取り憑かれてしまったかのような顔で日々を送っていた。理想と現実のギャップ。責任と重圧からの逃避。何より、人間関係の苦しみを耐え凌ぐ術しか日々考えられなくなっていた。

そんな私は現在、東京郊外にあるカフェで働いている。厨房で炊飯器を開けて、クローブやシナモン、ローリエの香りのする蒸気で顔を包んでいる。バスマティライスをかき混ぜるたびに増す香りにうっとりして、心なしか口角があがる。当時取り憑かれていた悪魔との契約が切れたのだろうか?ここで働き始めてから、気づけば眉間の重さがなくなっていた。
ローリエ(月桂樹)には魔除けの効果があると聞いたことがあったが、これは迷信ではないのかもしれない。そんなマヌケな事を考えているうちに、今日もあっという間にランチの時間が始まる。

「いらっしゃいませ。」
「どうしようかな。お兄さんのおすすめは何ですか?」
「うちのお店オリジナルで作っているノルウェーサバの缶詰を使ったビリヤニです。スパイスを少し抑えて優しい味にしているので、コーヒーとも合いますよ。」
「じゃあ、そのサバのビリヤニ?を1つ下さい。このショップカードもらっていいですか?」
「はい、喜んで!」

ショップカードに書かれているお店の名前。その頭文字はセレンディピティのS。セレンディピティとは、簡単に言うと「偶然に幸せを発見する才能」という意味で使われる。私が今働いているカフェが大切にしている言葉なのだ。
私にもその"才能"が自分にあると信じて、ビリヤニを作る手に思いを込めた。

「お待たせしました。サバのビリヤニです。
ごゆっくりどうぞ。」

お客さんの笑顔を見ると、あの辛かった2年間が報われていく気がする。休憩中に店長が淹れてくれたコーヒーは、深煎りの奥深いロースト感とほんのりスパイスのような香りのするインドネシア・マンデリンのドリップだった。コーヒーを飲み終えて休憩から戻る時、この平凡な日常を大切にしていきたいと強く感じた。
嘘のようで本当の話。偶然のようで必然だったのかもしれない。私はノルウェーでサバを買っていたはずなのに、気づいたら厨房でビリヤニを作っていたんだ。

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