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「ゴミ」の基準。
ゴミは捨てる。当たり前の行為だ。そして、ゴミじゃないものは捨てない。これも当たり前の行為だ。つまり、捨てたいときは「ゴミ認定」してあげる必要があるし、捨てたくないときは、その反対をしてあげればいい。
この「ゴミ認定」がむずかしい。ゴミって、いつからゴミなんだろう。少なくとも、ゴミ箱に入る前には「ゴミ認定」されている。ゴミじゃなかったら、捨てないからね。
じゃあ、いつ「ゴミ認定」してるんだろう?
鼻水をかんだティッシュはゴミになる。昔は、乾かして再利用してたらしいけど、今は平気でポイと捨てる。食べ物の包装紙や、飲み切ったペットボトルなども同じ。リサイクルできたとしても、ウチの意識は「ゴミ認定」されている。
服や家電も捨てるときがくる。それは、「もう限界か」と悟ったとき。何年も同じものを使い、汚れたり、機能が悪くなってきたときに初めて「もう限界か」と思う。そして、ゴミ箱や、廃品回収、粗大ゴミになっていく。
「もう限界か」
これが、「ゴミ認定」のキーワードなのかもしれない。諦めに近いような感覚が胸の奥にある気がする。無意識的にティッシュなんかも捨てているけど、考えてみれば「もう限界か」が潜んでいる気もする。尾籠な話だけど、トイレットペーパーでお尻を拭うときもそう。
人それぞれの限界のラインによって、「ゴミ認定」が変わってくる。これは個性の範囲になってくるから良いも悪いもない。ウチの限界のラインと違うな、って思えばいいだけ。
そして、この「ゴミ認定」は、モノに限った話ではないんだと思う。
人間だってそうだし、精神面にだって言えることなんじゃないかしら。
無意識のうちに、相手を「ゴミ認定」していたり、考えや思考に対しても「ゴミ認定」したりすることがある。一緒に過ごすことに限界を感じ「ゴミ認定」したり、考え方や思考を理解できなくて「ゴミ認定」したり。モノだけに限った話ではない。
ついつい「ゴミ」という言葉に「汚いもの」といったイメージがあるから勘違いしてしまうけど、つまりは「限界」にきたってこと。きっとそれは「防衛本能」のようなモノにも近いのだと思う。自分の身を守ためにも、「ゴミ認定」しながら生きているのかもしれないね。
でも、意識的に「ゴミ認定」をしなくてはいけないこともある。
それは、他人と何かを共有するときだ。
自分にとってはゴミじゃないけど、家族との生活を考えたときには捨てるべき、なんてこともある。仕事もそう。恋愛もそう。意識的に「ゴミ認定」しなくては、他人と何かを共有することはむずかしくなってしまう。
そして、自分自身に対してもそう。
習慣になってる行動や思考に対しても「ゴミ認定」してあげることも大切だ。甘いものの誘惑や、感情のコントロール、お酒やタバコ、パチンコなど。心の中ではダメだと分かっているのに、ついついやってしまうことに対しても「ゴミ認定」できるといい。
でも、ゴミじゃないのに、「ゴミ認定」してしまっている場合もあったりする。習い事なんて、まさにソレ。自分で勝手に限界を決めてしまって、ついつい「ゴミ認定」して放り出してしまう。続けていれば、ゴミだと思っていたものが、とてつもない輝きを放つかもしれないのに。
サンクコスト、なんて言葉もあったりするくらい、とにかく「ゴミ認定」は、むずかしい。
ゴミは捨てる。ゴミじゃないものは捨てない。
シンプルなようで、意外と複雑。
でも、意地でも、「ゴミ認定」させないモノもある。
ウチにとっての「書くこと」は、まさにソレ。
誰になんと言われたとしても。
書いていきたいと思う。
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