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役者と飲む酒。

「それは劇団やめるイコール、役者をやめるってことなの?」


 そう聞いた男の目に、光は宿っていなかった。唇の片側だけがクイッとあがり、悪代官のような笑みを浮かべている。聞かれた女は、首を何度がかしげたあとに、ようやくコクリと頷いた。


「よく意味が分からないんだけど、それって劇団に依存してるだけじゃない? リョーコが本当にやりたいことって、役者じゃなかったってこと?」


 男は容赦なく問い詰める。テーブルの上には、食い散らかったサムギョプサルが冷たく固まっていた。リョーコは、すでに顔が真っ赤に染まっているというのに、さらにビールを胃に流し込む。


「いや、そうなんですけど。だから、アタシは劇団を続けていきたいんですよ!」


 リョーコの語気が少し強くなる。まるで論理的な意見ではなかったが、その言い方や髪をかく仕草には身につまされるような真剣さが滲んでいた。さらにリョーコはビールを飲んだ。そして、ベトっとしたキムチを口に放り込んだ。


 きっと彼女は心の奥底で男に気を遣っているのだろう。お酒の力を借りなければ、男に正直な気持ちをぶつけられないらしい。でも、それはもしかしたら、男の方も同じなのかもしれない。


「だから、別に劇団辞めたって、役者を続ければいいじゃん」


 淀んだ目をした男も、口論するかのような熱で意見を返す。表情とは裏腹に、よくよく聞いていると、リョーコのためを思っているかのようなセリフにも聞こえてくる。


「辞めてもケントさんみたいに仕事があるならいいですけど、アタシは劇団を続けることが役者を続けるモチベーションにもなってるから、そこがなくなったら、どうなるか想像つかないんですよ」

 いよいよリョーコは目に涙を浮かべていた。その瞳に店内の照明が差し込み、キラキラと反射させている。しかし、ケントは揺るがない。


「俺だって、別に仕事が多いわけじゃないからね。世間から見たら仕事があるように見えるかもしれないけど。でも、俺は役者が好きで続けてるんだよ。劇団にいようがいまいが関係ない。俺には、リョーコがそうやって劇団を盾にして、自分から逃げてるようにしか見えないんだよ」

 愛の告白かと思った。淀んでいたはずのケントの目に、微かな光が見えた。リョーコは、とうとうダムが決壊したかのように、目から涙をこぼし始めた。大粒の涙が、目の前に置かれたキムチをボタボタと濡らしていく。二人のやりとりを目の前にしているウチの心だけが凪いでいた。


「ケントさん・・・、アタシ、役者続けたいです」


「そうだよ。辞めるとかいうなよ。せっかくここまで続けてきたんだから」


 二人、抱擁。そして、キス。


 ドラマだったら、そんな流れになっただろう。でも、現実には二人が触れ合うことはなく、リョーコは涙を補充するようにビールをさらに飲み込んだ。ケントは顔色を変えず、でも、少し得意気に水をガブガブ飲んでいた。


「役者さんって、大変なんですねえ」


 ウチがそう呟くと、二人から同時に視線を浴びた。二人とも、鬼のような目をしていた。


「あ、なんか、ごめん。空気壊して」


 役者と一緒にお酒は飲まない方がいい、と思った。


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