見出し画像

ひとりでは多すぎる。


「ひとりでは多すぎる」


という言葉がある。大好きな言葉だ。一見、意味が分からない言葉だが、ウチは初めてこの言葉と出会ったときから、妙にシックリくる感覚があった。


普通に考えたら「ひとり」と「多い」は結びつかない。ひとりなんだから、多くないだろう、となる。では、なぜ多すぎるのかというと、実は、この言葉の後に続く文があり、そこに理由が隠されている。


「ひとりでは多すぎる。ひとりでは、すべてを奪ってしまう」


そう。すべてを奪ってしまうから、多すぎるのだ。ウチは、のぼせるほど深い共感を覚えた。大人になるにつれて感じていたことを絶妙に言い表してくれたと思った。


子どもと大人の違いとは、世界の広さだと思っている。知識、経験、あらゆる意味で、子どもの世界は狭い。反対に大人は、知識をたくわえ、あらゆる経験を重ねていくことで広い世界を構築している。色々と反対意見もあると思うが、ウチはザックリと、このように考えている。


この定義でいくと、「大きな子ども」もいれば、「小さな大人」もたくさんいる。


ウチは、自分のことを「大きな子ども」だと思っていた。温室育ちで、勉強もロクにしない。そして、そのまま年齢だけを重ねてしまった。簡単にいうと、世間知らずのアホ、だった。だけど、何年もの間、社会の大波に翻弄されていくうちに、少しずつ「ひとりでは多すぎる」ことを実感していったのだ。


大人になって最初にぶつかったカベは、「正直者はバカをみる」ことであって、「嘘も方便」だということ。こんなこと、学校では教えてくれなかった。純粋まっしぐらで生きてきたウチには、受け入れ難い現実だった。


それは同時に、原色の世界しか受け入れていなかった、とも言える。赤なら、赤一色。青なら、黄色なら・・・、と。他の混ざった色が、ウチのパレットには存在しなかったのだ。


でも、時には黒が必要であったり、グレーや茶色。濁った色が必要になることがある。周りをよく見てみれば、たしかに単色の世界はどこにも広がっていなかった。


朝を知らせる太陽は、真っ赤に燃えているようで、橙色が混じっていたり、昼頃には白っぽく変化する。雲も鼠色になったり、空も藍色に染まったりする。ウチが歩くと、後ろからは必ず真っ黒な影が付いてくるし、流した涙に色はついてなかった。


「世界はカラフルだったんだ!」


正直であることがイケナイことではない。でも、ときにはウソをつくべき場合もある。なにごともグラデーションで、それほど世界は広くて、だから美しいのだ。

そのことに気付いたのは、大人になって何年経った頃だったろうか。そして、さらに歳を重ねると、「世界はカラフル」という表現だけでは掴みきれなかったモノが、少しずつ腑に落ちるようになってくる。


人間関係、思想や着想。なんでもそうだが、「ひとつ」というのは多すぎるのだ。


もう少し正確に表現すると「ひとつでは、割合が大きすぎる」ということ。


原液100%。その一色しかない状態は、純真ともいえるし、はた目では美しく見えるかもしれない。でも、その「ひとつ」だけが世界を占めているというのは、やはり違和感を覚えてしまう。


その最たるものが、戦争に繋がったりするのかもしれないね。


ひとりでは多すぎる。
ひとつでは多すぎる。


もっと視野を広げて、せめて、二人、三人。二つ、三つと、自分の中の色を増やしておきたいな。そして、世界を見渡し、人間関係や思想を広げていくことで、初めて「ひとつ」のものが醸成するのだと思う。


ひとりでは多すぎる。ひとりでは、すべてを奪ってしまう。


未来のために残したい、大好きな言葉だ。


この記事が参加している募集

#とは

57,875件

創作に励みになります!