見出し画像

育休100日目 僕が育休を取った理由

「どうして育休を取ろうと思ったのですか?」とよく質問される。
育休から100日目が経過した今、振り返っておきたい。

理由は2つある。
1つは「妻を守るため」。もう1つは「自分のため」。


産後にノイローゼとなった妻

僕は妻を守るために育休を取る。
苦しんでいる妻を、僕は二度と見たくない。

遡ること6年前。
第一子の息子誕生時に、妻は産後にノイローゼになった。
その変化は産後すぐに確認できた。
妻は無口になり、機嫌が悪く、そして急に泣き出すことが多くなった。
何が不安なのかを問うても「理由なんてない」そうだ。
意味不明だった。僕は理解に苦しんだ。

出産から2か月が経過し、初めての予防接種。
病室で妻はフリーズしていた。
息子を抱いたまま、無表情で唇を震わせ、頬には涙が流れていた。
僕はこの瞬間、妻は"病気"だと確信した。
気づいてあげられなかった自分を悔やみ恥じた。

主治医と相談し、妻が少しでも楽になるように、僕は可能な限り育児と家事にすべての時間を費やした。
仕事も定時に切り上げで、猛ダッシュで毎日帰宅した。
そして妻をできるだけ一人にして、子どものことを考えなくてもいい時間を作った。
その結果、少しずつではあるが妻の体調は回復していった。
笑顔が見られるようになり、あの頃の大好きな妻が戻ってきてくれた。
並行して息子もすくすくと大きくなり、寝返り、つかまり立ち、歩行、発音など、できなかったことがどんどんできるようになってきた。
愛おしい息子の成長を感じられる喜びを、夫婦で共有できている。
ようやく家族3人の生活が楽しくなってきた。

二人目の話はなかなか切り出せない

夕食も、保育園のイベントも、クリスマスも、旅行も、七五三も、家族で撮影する集合写真は、いつも3人だった。
いつもの3人。どんなときも笑える3人。
これからもずっと3人でいるような気がしていた。
それは、二人目の話はなかなか切り出せないからだ。
でも、僕は薄々予感していた。

もし第二子を出産するとき、僕はきっと育児休業を取るんだろうな。

そんな予想を妻に伝えたことがある。
妻は安堵し、喜んでいた。
息子を出産した当初は「もう子どもは1人でいいわ」と消極的だった。
そりゃそうで、一番大変だったのは間違いなく妻だった。
でも「子どもが2人いるのもいいかも」と思ってくれて、僕は素直にうれしかった。

そんな会話から2年後。
僕は育児休業を取得して、いま娘を育てている。

育休を選択することが世界を救う

育休を取ったもう一つの理由は、「自分のため」である。
もう少し具体的に言うと、育休を取った僕の姿を多くの人に見てもらうために育休を取る。

昨今、子育てにまつわる諸問題が多すぎる。
母親はワンオペ育児を迫られ、毎日ストレスフル。
家庭保育にお金をかけたいが、夫の給料もなかなか上がらない。
仕方なく母親は仕事をするために復帰を目指すが、非正規雇用が多く満足いく働き方と報酬が期待できない。
かつてはおじいちゃんやおばあちゃん、地域の人たちみんなで子育てしていたが、面倒を見てくれる人なんて、近所に誰もいない。
希望する最寄りの保育園には登園できないことも多い。
行政に期待したいが、政府はリスキリングとか異次元の少子化対策とか大言壮語を吐いて完全に的外れ。

きっと多くの子育て世帯で抱えている問題だと思う。

僕たちもそうだった。
だったら解決するために、個人で選択して行動してみようと思った。
アクションを起こさない限り、僕たちの環境は何も変わらない。
育児制度や周囲に対して、過度に期待するのはもうやめよう。
僕たちの子どもは、僕たちが愛情を注いで育てる。
そして僕は、育休を選択した。
きっかけは先述した通り。妻をこれからも守る。

特に公務員は、育児休業を取得するハードルが低い職種だ。
欠員の加配が認められ、休業中の業務は代替の職員が担当する。
休業補償も手厚く、180日までは給与の67%、それ以降は50%だ。
休業の期間や期限にも大きな制約はない。
もちろん夫婦で育休を取ることも認められている。

育休を選択することが、世界を救う。そう僕は信じている。

そしてここからが育休を取った、もうひとつの理由。
この姿を、多くの人たちに見てほしい。
これが僕の願いです。

妻の前でカッコいい自分でいたい

僕は育休を取ってから、多くの人に「育休を取った」と説明している。
イクメンぶった育児素人が、ワンオペに苦しんでいる世の母親から総スカンを食らうかもしれないけれど、それが事実なのだ。
現にこのnoteで育休のリアルについて発信している。

また同時に、先日は娘を連れて職場へ行ってきた。
note同様に、育休の素晴らしさ、育児の苦悩、制度の手厚さを多くの同僚に話し、総じて育休は"最高"であるという結論を伝える。
職場の同僚は、僕の在り方を大いに評価してくれた。
この持論が各家庭で伝播してくれたらいいな、と期待している。

今度はその体験を、帰宅して妻に話す。
育休の輪を広げていく僕の在り方を、一番喜んでくれているのは、いつも隣にいる妻だ。
その笑顔が嬉しくてたまらない。

結局のところ、妻の前で育休を取ったカッコいい自分でいたいからなのだ。
要するに、"カッコつけ"だ。
ダサい。ダサすぎる。でも僕は間違っていない。

誰だって、結局は自分が一番なんだ。
家族がいたとしても、最高位は己の幸福が位置しているに違いない。
よく聞く「家族のために」という言葉は、美しいようで、どこか切ない。
尽くすことや奉仕することは素晴らしいが、それが"自分のため"になっているのかどうかを、一度冷静に検討する余地はある。
間違っても、家族のために自己を消耗してはいけない。
なぜなら家族の幸せに、自分が必要とされているからだ。
家族には家族の幸せがあり、僕には僕の幸せがある。
もちろん共通するところがたくさんあるけれど、年齢も、性別も、生活もそれぞれ違うのだから、すべてが同じという訳にはいかない。

息子と一緒に遊ぶのは楽しいけれど、ずっと一緒にいると流石に飽きる。
娘に絵本を読んであげるが、流石に30分はツラい。
いつまでも綺麗な妻でいてほしいと思う一方、僕は妻ほどファッションや美容に熱くなれない。
僕がトラックボールマウスよりも魅力的なマウスの話をしても、妻はちんぷんかんぷん。
息子の影響でポケモンカードにハマり、楽しくて今では彼よりも僕の方が強くなってしまった。
娘のファッションを選ぶのは妻だが、日用品を選ぶのは僕。
家事や育児は、気づいたときに全員で取り組む。
お金は口座を複数に分けて入金し、買い物する前に確認し合う。
教育方針や将来設計は、お互いの意見を受け入れ尊重する。
大きい話も、小さい話も、対話してみんなで納得していく。

家族のために 僕のために

すべての事柄に関して、全員が同じ幸せなんてあり得ない。
でも僕たちは、全員で幸せな瞬間を探しては日々噛みしめている。

不思議な共同体だ。
血縁があり同居する。そして愛し合う。
ただそれだけ。そこに特別な目的や理由はない。

家族のために僕がいる。
一方で、僕のために家族がいる。


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?