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「妻が帰ってくる日」

「今日で私の仕事は終わり。もう帰ってくるの」と、妻がふいに言い出したのは3月31日もあと5分ほどで終わろうとしていた夜のことだった。

「眠りについてから別の次元で、惑星をつくる仕事をしていたの。あれこれ大変だったの。これまで20年くらいかな。あなたと結婚する前からだったから、最初に始まったのは」

妻は最近、脚の痛みを患っていて、階段の上り下りがスムーズにできずにいた。
今日も地下鉄を移動中、私の腕にしがみつきながら、「この痛み、もう20年よ」と言っていたことを思い出す。それと同じだけの期間、別の仕事をしていた、ということなのだろうか。実際妻は、最後に短期契約の仕事を辞めてから、4年も経っている。

私はなるべく妻を馬鹿にしたり揶揄している訳ではないことを伝えるために、身振り手振りをゆっくりと加えながら尋ねた。
「寝てからの仕事って、毎日やっていたの?つまり、想像したり、夢の中とかで?」

彼女はようやく伸びてきたと喜んでいた前髪を、ゆっくり耳にかけると言った。
「そう、毎日。寝てからね、その中でずっと忙しかった。意識を通す仕事って言ったらいいのかな。新しい次元と空間を創るような。最後には街全体を確認して回るんだけど、バグみたいなのもいっぱいあって。綺麗な大通りに大きなイカが落ちてたり、時計台は反対回りに動いていたり。でももう、終わり。完成したの。あと3分で、完全に引き上げて、ここに戻ってくるの」と、壁に掛かった時計を見つめながら言った。

私はふいに、妻が明日には消えてしまうのではないかとの不安に駆られた。彼女はいつも冷静で、穏やかに微笑んでいる女性だが、瞳の奥がいつもより輝いているように思えたからだ。
顔を覗きこんでいると、彼女は言った。
「私、いつも寝ている時間、長すぎるよね」
「毎日、最低でも9時間は寝るよな。きみの適正睡眠って、何時間だっけ」
コップを口に運ぶが、水がなかなか流れ落ちてこない。妻はペットボトルの蓋を開けながら言った。
「何時間でも寝れるけど、理想は10時間とか、疲れている時は12時間。もちろん身体を休めるのもしてるけど、ほとんど多くは、ずっと働いてきたの。でも、誰にも分かってもらえない仕事だから、ずっと辛かった。私はこれをしてるんですって、名前がないんだもん。それに、こっちの世界では、今はまだ、それを証明することができないの」
コップの水が溢れそうになる直前で、妻の手はぴたりと止まった。
「その場所は、俺も行ける?」と尋ねると、
「うん。いつか行けるようになると思う、あなたも。その時に楽しんでもらえたらいいな」と言った。
妻はソファからお尻を離して、わざと左右にフリフリと振ってみせると、笑いながら洗面所へと向かった。



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