kiku・kaku

コピーライター/コーチ。フリーのコピーライターとして取材、ライティング経験多数。子育て…

kiku・kaku

コピーライター/コーチ。フリーのコピーライターとして取材、ライティング経験多数。子育てを通してコーチングと出合い、コーチとしても活動。学ぶにつれて自分自身が整う感覚を、日常のできごとと絡めて書き綴っておきたいと思っています。

最近の記事

子どもからの自立。まずは親が楽しむ!

どう頑張っても親は親、子どもは子ども 息子の不登校がまったく気にならないと言えば嘘になる。そりゃぁ近所の中学生を見るとため息も出るし、つい寂しい気持ちにもなる。 でも、この間まで「気にしないように頑張ろう」だったのが、なんか急にほんとに気にならなくなってきた。 不登校という「問題」の解決は、「学校へ行く」ということかもしれない。 でもその前に、「不登校」は本当に「問題」なのか? 学校へ行かなくてもうちの子は素直で明るくて元気だし、学校へ行かないぶん台所だけでなくかなりの

    • 感情を添えると、言葉は温度を伝え出す

      スタッフ間のコミュニケーションがもっと活発になってほしい、もっとみんなに楽しんで仕事に取り組んでほしい……ある経営者さんとのセッションの中でそんな話が出てきたときのこと。 先日放送されたWBCのドキュメンタリー映画や、ドラマ「下克上球児」の最終回とか、そんなチームが理想、という話で盛り上がった。そこに共通するのは、監督が選手を「信じきる」という信念。経営者として、スタッフ一人ひとりを信じきる覚悟こそがまず必要だという認識を共にした。 そんな会社って、どんなイメージだろう?とさ

      • 大事なことに息子が気づいた瞬間

        もしかして…もしかしたら…… トンネルの終わりが来たかもしれない。 週末になると、放課後でいいからたまったプリントとか取りにおいで、と先生に呼ばれて学校へ行くことが多い。 火曜日の晩からほとんど口を利かずに過ごしてきたけど、昨日の放課後学校へ行った後から、息子がちょこちょこと学校での話をし始めた。こちらはあくまでも笑顔を見せず最低限の相づちだけ。 「土曜参観あんねんな」 そうやな。去年、中1最初の参観のときも体調が悪いって言ってほとんど行けなかったやつな。あきらめ半分、いや

        • 家庭内別居。息子と。

          家庭内別居をしてみようと思う。息子と。 久しぶりに時間を取って、セッションを意識して話した。最近、セッションというとめんどくさがる感じもあるので、自然な流れで。 導き出されたひとつの結果として、どうやら本気で義務教育とか普通のレールの上を歩く学校生活に見切りをつけたいらしい。それがどういうことなのか、考え得るリスクをあくまでもニュートラルなスタンスで伝えたけれど、そして親としての心配も正直に伝えたけれど、わかってる、と。いや、本当の意味ではわかるはずはないんだが。私だって実感

        子どもからの自立。まずは親が楽しむ!

          「理想の息子」を求めるな。だって「息子そのものが理想」なんだから。

           学校や社会にうまく馴染めない子たちが集う、南の島の合宿に息子が旅立って3日が過ぎた。1週間の予定だ。  空港で送り出したときは、なんともいえずこみ上げてくるものがあった。心配なのはもちろんだけど、穏やかな春の陽気の中、空港島の小高い芝生の上から滑走路をゆっくりと移動し、やがて飛び立つ飛行機を見送りながら、心を占めていたのはたぶん寂寥感のようなもの。空港を行き交う人たちがどこで何をしてようが見向きもせず、ただ飛び立つ飛行機が見える場所を探して一人でふらふらとそのポイントに歩い

          「理想の息子」を求めるな。だって「息子そのものが理想」なんだから。

          不登校の“レッテル”にひそむ親の自己否定

          ちょっといい気になってたな。うまくやれてるつもりだった。 息子さんにどうかな?と、友人が提案してくれた不登校や引きこもりの子たちが集まる団体の短期合宿。一度はありがたくお断りしたんだけど、その後いろいろあっていろいろ考えて、お子さんがそこの卒業生でご自身も活動を手伝ったりしているその人に詳しく話を聞いてみた。 息子が学校に行きづらくなった理由は、考えようと思えばいくらでも思いつくし、何もないといえばまったく何もないとも言える。 「不登校」だとは、正直まだまったく思っていな

          不登校の“レッテル”にひそむ親の自己否定

          やり遂げたい心も、妨げる心も、受けとめる…「大丈夫だよ」と。

          〈何かをしよう〉とするとき、それを〈妨害する要素〉がある。 簡単なことだと、〈仕事をしなきゃいけない〉けど、〈眠い〉とか、 〈転職したい〉けど、〈ちょっと不安〉とか。。。 一般的なコーチングでは、妨害要素を取り除くためにいろいろな方向からアプローチするのだけれど。。。先日、そうではない、すべてを包含する大きな、おお〜きなアプローチを学んだ。曰く、ネガティブに相対峙するのではなく、ネガティブをも深い深い自分の内面に迎え入れ、方向を変えていく、というもの。合気道など武道に通ずる

          やり遂げたい心も、妨げる心も、受けとめる…「大丈夫だよ」と。

          不登校でも不安じゃないワケ。

          久しぶりにママ友とお茶して色々聞いた。 保育園から一緒だった○○ちゃんは、小3のときの担任の先生が原因で不登校になっているとか。そういえば○○くんも小学校から不登校だよね、おばあちゃんがちょっと問題あるみたいだね〜とか。 彼女自身は、「うちの下の子、ちょっと心配。何考えてるかわからへん〜」と、あっけらかんと話していた。まぁ、いわゆる普通の、“うちの子”話。 で、ちなみにうちの息子(中1)は、ただいま絶賛不登校中。もう1ヶ月半だから、「不登校」扱いしてもいいよね。 そりゃぁ親

          不登校でも不安じゃないワケ。

          最期のギフト、受け取りました。

          もう親はいない。確実に世代が交代した。 ここ数年、文句ばっかり言いながら介護していたし、特に何かを教えてほしかった、とかいうわけじゃない。でも、たとえすぐに忘れてしまうとしても、最後まで私が感じたことやちょっとうまくいった出来事をにこにこと聞いてくれる、一番の相手だった。 親を亡くすということは、精神的な支えを失うということなんだな。たとえ要介護でどちらが親だかわからない状態だったとしても、ただこの世に存在してくれていることに大きな意味があった…と、亡くして2ヵ月経った頃、

          最期のギフト、受け取りました。

          母の余命、というテーマ

          今日、母の余命宣告を受けた。 父が早くに逝ったとき、「もういいわ、といえるくらい長生きしてね」と頼んだ通り、もういいわ、と言えるほど長生きしたと思うし、もういいわ、と言いたくなるくらい手もかかるようになっていた。 だから、いつ急なことがあっても仕方ないとは思っていたけれど。。。改めて余命を告げられることで、嫌でも終わりを意識させられてしまった。           ★  ★  ★  ★   自分の敏感すぎる感情のやり場は、コーチングのおかげで誰かの役に立てることができ

          母の余命、というテーマ

          気持ちの感度。求めていたもの。

           コーチとしてクライアントと関わるようになって、人の状況や気持ちに心から共感し、一緒に感じる行為が、解禁されたような感覚がある。  ずっと、誰かのために、の前に、自分が整っていなかったのだと思う。自分を認められなくて、そんな自分は人の辛さや喜び、いろんな思いに寄り添う価値がないと無意識に封印していたような。。。  クライアントの成長や目標達成を、本気で一緒に喜んでいたら、それがどんなに自分に幸せを感じさせてくれることなのか、その価値に気づいた。おそらく、私自身が、自分以上

          気持ちの感度。求めていたもの。

          自分だけの価値観に出合えた話

            私は片付けが苦手です。筋金入りです。これまでの人生で身辺がすっきりした、といえる状況は一度もありません。ギリ子育てもしているし、ギリ家庭訪問とかも乗り切ってきましたが、根本的にものを整理することができません。捨てることは大の苦手です。断捨離も、人生がときめく片付けも、もちろん読みましたとも。でも直接じゃないですからね。本ですからね。やっぱり直接マインドを変えてもらうのとはワケが違う。  直接マインドを変える・・それをコーチングならやれるはず。それはもうわかっているので、

          自分だけの価値観に出合えた話

          資格ってなに?

          ドラマ好きです。子育てで見る時間が減った頃から、15分で観れる朝ドラを欠かさなくなりました。いまは「おちょやん」。満州から引き上げた息子的な若者と主人公の話を見ていてすごく胸に刺さりました。何が、というより、誰かのために無償の思いを傾ける、ということにやられました。おそらく、ずっとそういう感情をドラマとかから受け取っても、深く感じることを避けていたような気がします。だまされやすいので、だまされないぞ、世の中そんな単純じゃないぞ、的な?(^_^; 偽善?他人事?どこかでそんな上

          資格ってなに?

          いつもどこかが、ほころびている。

           「ほころび」という言葉が好きだ。 もうずいぶん前だが、デザイナーと組んで作品展をしたことがあった。ちょうどその頃、“表現する”ことへの興味が強くなっていて、仕事としてのコピーライティングではない、自分の感性を表現するコピーを書きためていた。「ほころび」は、その頃から自分の中で引っかかり、今も折に触れて浮かんでくるワード。  「いつもどこかが、ほころびている。」 何でもない日常を切り取った写真に、たしかそんな言葉をのせた記憶がある。 表現には完成形はない。これだ、とい

          いつもどこかが、ほころびている。

          自己基盤がガツンとやられた話。

           今日は久々に凹みました。  資格取って、いくらかセッションの経験も積んで、コピーライターとして数知れない取材をしてきたからこそ相手の気持ちの動きを見逃さない自信も結構あったのですが‥。甘かったです。いえ、まだまだ甘くて緩いことはわかっていたんですよ。そこを強化する勉強を重ねるつもりもしていたし。  凹んだのは、甘くない本気のセッションを体験し、頭をガツンとやられたのがまず一つ。でもね、それは凹むというより、むしろすごく貴重な経験をした、ともいえる一時的なショック状態。本

          自己基盤がガツンとやられた話。

          ありのままの自分を受け入れてみた話。

           たとえばの話ですけどね。スーパーで買ってきた食材を冷蔵庫に入れるという、ごくごく日常的な作業ひとつで、夫婦げんかが勃発することもあると思うんですよ。でもね、そこでけんかにならない秘訣が、「自己承認」だったとはね〜。いや、発見でした。  私はお世辞にも整理整頓が得意とはいえず、何かをどこかに片付けるにしても、なぜかすっきりと片付けることができず、モノが傾いたりして収納場所にフィットしない。冷蔵庫に食材をしまうときも同じで、どうも雑然とした入れ方になってしまう。かたや夫は、私

          ありのままの自分を受け入れてみた話。