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「理想の息子」を求めるな。だって「息子そのものが理想」なんだから。

 学校や社会にうまく馴染めない子たちが集う、南の島の合宿に息子が旅立って3日が過ぎた。1週間の予定だ。
 空港で送り出したときは、なんともいえずこみ上げてくるものがあった。心配なのはもちろんだけど、穏やかな春の陽気の中、空港島の小高い芝生の上から滑走路をゆっくりと移動し、やがて飛び立つ飛行機を見送りながら、心を占めていたのはたぶん寂寥感のようなもの。空港を行き交う人たちがどこで何をしてようが見向きもせず、ただ飛び立つ飛行機が見える場所を探して一人でふらふらとそのポイントに歩いて行った。そこで心ゆくまで寂しさと向き合いながら見送ることができたのは、自分にとっては大事なことだった。うん、そうだな…。遠い昔、多感な思春期の頃、四季折々の空気の中でときどき湧いてきた感情に似てる。とても大事なんだけど理由もなく寂しくて、そんな自分に酔ってるのかな?なんて思いながらも捨てがたく、言葉にならなくてもどかしかったのを思い出す。

 行ってしまえばそれはそれでこっちも仕事がはかどるしスッキリするんじゃないかと思ったけど、どうもそうはいかない。いつも胸の中にもやもやがある感じ。受け入れ先の方から様子を知らせてくれる動画や写真が送られてくると、まだ息子が遠慮してるみたいに見えたり、持たせた服では寒かったんじゃないかと気に病んだり。モヤモヤの正体、核の部分はまだうまくつかめていないけど、うっすら感じ始めていることがある。

 私は息子に理想を求めすぎてる。
 周りになじんでいない姿を見たくない。うまく立ち回れない姿を見たくない。みんなより楽しめていない姿を見たくない。。。etc.etc.
 そんな評価を一番気にしなくて良い環境にやっているというのに。
 一番気にしているのは母親の私じゃないか。心配という言葉を借りて、実は自分が見たい息子の姿を探してる。
 気がついたのは、二日目になって周りと馴染み始めた姿を見た後、気持ちが少し落ち着いたとき。“息子が嫌な思いをしていないか”、心配なのはもちろん親心。でも、もうひとつ深いところに、“うまくやれる子の親”、でありたい自分がいた。そんな気がする、たぶん。
 生まれてからずっと、息子は私の理想を裏切っていない。かわいい、素直、賢い、正直、、、、。スポーツはイマイチだけどww  で、たぶん無意識に息子もその期待に応えることを自分に課してきたんだと思う。それが、私の価値観に添わせてきたってことかもしれない。
 そっか……書いててわかってきた。
 私の価値観から息子を解き放つ、そのための物理的な手段が今回の合宿だった。で、戻ってきた息子に、私は何か対応を変えなければいけない気がしていた。
 そういうことだな。
 空気読めなくても不器用でもどんくさくてもいいんだ。
 私の理想は、息子そのものだ。
 息子に理想を求めるんじゃなく、息子そのままを理想とするんだ。
 前回、自分の存在承認ができていなかったと書いたけど、息子への存在承認もまだまだ甘かったんだな。

 中学生ってほんと難しい時期。そのままでいいって言うけど、小学生まではなんやかやと親が方向性を示さないとズレていくのも事実で、だから小言も言うし理想も求めた。それが自立だっていわれて急に方向転換できるってもんでもないっしょ。求めたら応えてくれるから、ついまた求めてしまってたんだな。
 
 よっしゃ。大丈夫。
 安心して帰っておいで。ハハは悪いクセを直して、もっと大きな懐でアンタの成長を受けとめちゃる!


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