NZ life|マグカップとホームシック
ニュージーランド生活33日目。
天気、晴れ。気温15度。突風が吹く。ぜんぶが吹き飛ばされそうになる。
朝から気持ちがぼんやりしている。ホームシックなのかもしれない。
ホームシックって日本語だと懐郷病というらしい。かいきょうびょう。とても重々しい響き。
故郷を懐かしむ病。文字はそのままの意味なんだけれど、音にすると、ひどく痛々しい。何だか大きな鉛で殴られたような、あるいは、すでに手遅れになってしまった病のような気がする。
ホームシックになったことがある人はわかると思うけれど、ホームシックってすごく苦しい。胸がいっぱいなのか、それとも空っぽなのか分からなくなる。
「帰りたい」と言えればまだ気持ちは晴れるのだけれど、それを言葉にすることができない状態。それがホームシックなのではないだろうか。
「帰りたい」と口にしてしまうこと、そこには諦めといった、ある種の救いが残されている。
問題なのは「帰りたい」と口にできていない状態の方ではないだろうか。心のどこかで「帰りたい」と願ってしまっている自分に気づいたその時、その感情は初めて、ホームシックになるのかもしれない。
私はいま、帰りたいのだろうか?
小学3年生の誕生日に、兄から文庫本をもらった。梨木香歩さんの『西の魔女が死んだ』というもので、幼い私は、その中に描かれている世界に強く惹きつけられた。
以来、何度も読み返していて「あなたにとってのバイブルは?」と訊かれれば、迷うことなく『西の魔女が死んだ』と答えている。
カバーはすっかりぼろぼろで外れてしまったけれど、お守りのような存在で、どこかへ旅する時は必ず持ち歩くようにしている。
新潮社のホームページよりあらすじを引用すると、以下の通り。
これだけ読んでも涙が溢れてくる。物語のあらすじを描く文章の中にさえ、私の好きなものがたくさん詰まっていて、私はこのお話が本当に好きだな、と改めて誇らしく思う。
そんな主人公まいが、田舎のおばあちゃん家に向かう準備をしている最中、こんな描写が出てくる。
この一節を読むたびに「ああ、わかるなあ」と強く共感する。だから私も旅に出る時(それも1ヶ月以上の長い旅に)は、マグカップを持っていくようにしている。
そのマグカップは中学生の冬休み、家族みんなで訪れた「陶芸で有名な町」で買ったもの。
あまり名の知れた窯元ではなかったようで、お客さんはほとんどいなく、蔵の中はガランとしていたけれど、その静かさが冬の空気を際立たせていて、私はとても好きだった。
何気なくのぞいたカゴの中に、そのマグカップはあった。丸くて、ころんとしていて、そっけなさと温もりのどちらも持っている、素朴で、まじめなマグカップ。遠慮がちに描かれた淡いピンクの水玉に、私は釘付けになった。
それからもう何年も経ったけれど、いまだに愛用している。割れないよう慎重に使うし、使うのは冬だけと決めている。コーンスープを飲むときだけ、ココアを飲むときだけ、カフェオレを飲むときだけ。ガランとしていた蔵元の、あの清らかな空気を思い出せるように、冬の季節にしか使わない。
悔しくて泣きながら勉強していた受験シーズン。焦りから何も手につかなくなった卒業論文。ひとりで恋人の帰りを待つ寂しい夜。たくさんの長い夜を、指先がかじかむ冬の夜を、いっしょに乗り越えてきた。
海を渡り、半球を超えてニュージーランドにやってきた。スーツケースに入れて割れてしまったら嫌なので、まるい水玉のマグカップは食器棚の奥の方に置いてきた。
ニュージーランドの12月は夏だけれど、朝と夜はかなり冷え込む。スキニーパンツの下にレギンスも重ねるし、ヒートテックだって着るし、もこもこのアウターまで引っ張り出してしまう。
日中は暖かくなるから「やっぱり夏だったんだ」と気づかずにはいられないけれど、起きてすぐ、夢から覚めたばかりの頭ではどうしても、冬の気配をそこらじゅうに感じてしまう。私にとっての12月はやっぱり、冬なのだ。
意を決して、お布団から抜け出す。かじかむ指先をさすりながら、電気ケトルでお湯を沸かす。
やっぱり持ってきておけばよかったな、と思いながら、部屋に備え付けてあるマグカップにお湯を注ぐ。家主が用意してくれた、異国の地を思わせるマグカップ。
知らないマグカップで飲む温かい水が、胃の底からじんわりと体内に染み込み、頭のてっぺんからつま先まで巡って、身体中が温まっていくと、涙になって少しこぼれた。
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