様子がおかしくなる手前の生活(家族)6/6
うつ病になる前の働き方は別で記載しましたが、同時進行での同じく家庭内での出来事も下記に残します。今回は6回目。最終回です。
※【注意】結構センシティブな内容になり、暴力やアルコール依存に関する表記が出ますので好まない場合はここで閉じてください。
連日連夜の飲酒
は過去と変わらないがそこに子供が居る。子育ての事を終えたら晩酌が始まる訳でなく、ずっと晩酌をしている。休みの日は昼から晩酌開始をする。自分はお茶か水。そこに口撃と攻撃が加わる。「もう限界」。ある日、もう見せるしか正す方法はないと思いカメラを設置して晩酌開始から記憶喪失の開始、終了まで全て撮影した。翌朝忘れている彼女にそれを見せた。当人ながらも映像を客観的に冷めた目で見てしまい、「明らかに自分はイジメられている」と思った。映像を見た彼女はシラフで激怒した。アルコール依存症でいう状況の否認である。
入院する事故が起きた
偶然が重なった事故が起きた。詳細は個人の特定になるので控える。手術を行い2週間入院した。この辺りは別に記事にしたいと思う。完治はしたが不自由が残った。病人である自分の心の受け入れはすぐには出来ず、納得し受け入れるまでには相当な年数を必要としたた。
不自由さを訴えて彼女に相談した所「あなたの業」と笑って言われた。
全く納得出来なかった。
適応障害が発生した
仕事も多忙で家庭もそのような状態で心も体も休められなかった。1つの原因で物事の発生はしにくいと思うが、複合的な要因でなるものだと思う。
当初は献身的な対応や心配してくれ、助かったが、アルコールが入った時に
「ふらふら病」と茶化され歌のようなものを歌われた。
回転性の目眩がひどかった時期で、「心の扉が閉じた」
離婚したい
と申し出した。「なんで?」という彼女。納得が行ってない顔をし、「色々な提案をしてくれた」自分も好きでこんな嫌な事を言うものでもなく、断行すべく心を横に置いて、自分の新しい家、自分の新しい生活、自分の新しくい世界を見るけるため。うつ病の薬を飲んで無理やり色々片付けを始めた。
一緒に役所に届けを出しに行った
が窓口まで一度目は役所の目の前まで入り口で引き返した。怖気付いた。彼女は安心した様子であったが、再度行くよと言い、その日を迎え離婚届を提出した。非常に疲れたのと自分が何をして居るのか半分理解が出来ていない感覚だった。1つ区切りが付いた。
子供には暴力はしていなかったので、母子ともに彼女の実家の近くにアパートを私の費用で借り引越ししてもらった。
最初、養育費を5-6ヶ月、月々15万円支払い半年後に止めた。
うつ病の時に重大な決断をしない方が良いという話がしますが、重大な決断をこの時にしました。他に道もあったのでしょうが、当時の自分は先に消えてしまいそうで、不感症になって居るからこそ手続きが進められたのだとも思えます。
(終わり→振り返って)