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ラフマニノフと幽霊たち


1.さまよえるロシア人

渡米後のセルゲイ・ラフマニノフは新聞記者に対して自らを「まるで異質なものに変わり果てた世界を彷徨う幽霊のよう」と評した。新進気鋭の作曲家として、また優れたピアニストとして名を馳せた彼が、どのような理由で幽霊となりこの世を彷徨うのか。一つは彼の周囲を取り巻く芸術的な潮流の問題であったと言える。

ラフマニノフが作曲を本格的に開始したのは16歳のときで、18歳で最初のピアノ協奏曲を作曲した。学生時代に書かれた作品とはいえ、この『ピアノ協奏曲第1番』はこなれた様式と優れたメロディを有しており後の作品群を期待させる。また卒業制作として作曲した『アレコ』はプーシキンの叙情詩に基づく一幕オペラで、野趣に溢れたダンスやラフマニノフの代名詞とも言えるような件の美しい旋律線といった、見逃しがたい諸要素を備えていた。殺人の起こる血生臭い台本からは当時イタリアで勃興していたヴェリズモ・オペラの影響が見受けられるが、「男たちの踊り」に聴く地を蹴り宙を舞う男たちの姿や、憂いに満ちたコーラングレの主旋律が導く「間奏曲」など、これらはラフマニノフにとっての偉大な先達であるチャイコフスキーの作品を想起させる。

彼が音楽家としてのキャリアをスタートさせたこの世紀末は、ベルクやストラヴィンスキーといったモダニストたちの登場を準備した時期といえる。管弦楽法は日増しに複雑になり和声はどんどん分厚くなった。1899年にシェーンベルクは弦楽六重奏曲を書き、この破廉恥と宗教的な崇高さの同居した不思議な作品の中で和声は無効化の一歩手前まで迫っている。そしてその約10年後、シェーンベルクは『弦楽四重奏曲第2番』の第4楽章において無調音楽の世界に足を踏み入れる。ストラヴィンスキーの『春の祭典』は『第2番』から5年後、1913年の出来事である。先述した言葉に続いてラフマニノフは、「古い神を捨てて、新たな神を崇拝することは出来ない」と述べた。ラフマニノフの信条とは裏腹に、20世紀の音楽は急速に進歩し、音楽家と批評家たちは「古い神」を忘れ去ってしまったかのようにも見えた。

革命の10年前に書かれたチェーホフの戯曲『桜の園』はロシア帝国の未来を没落貴族の破滅の日々に託して描いたある種の予言として読み取ることも出来るが、ラフマニノフの置かれた状況はこの登場人物たちの陥った状況に似ている。劇中、没落した一家は避けることの出来ない自らの生活の破綻を前にして一者一様の態度をとる。夫人は過去の豪勢な暮らしを忘れることが出来ずにメランコリーに陥る。自身の眼前に洋々と広がる未来に若い娘のアーニャは胸を躍らせる。一方で元農奴の家庭に生まれた資本家の男は、新たな屋敷の主として一家を屋敷から追い出す。20世紀初頭の音楽界でも同様の構図を見出すことが出来る。あるものは旧習に固執し(サン=サーンスなど)あるものは「新たな神」を無邪気にも崇拝する(フランスのプーランクを代表とする作曲家たち「六人組」など)。そして流行に従い巨大な資本と市場の庇護のもと、「フォード式」とも呼べるアーティストの協業方式で作品を量産する職業作曲家たちが「ホンモノの芸術家」を追い出す(ガーシュウィンやティンパンアレーの偉大なメロディメーカーたちはこのようにして非難された)。ラフマニノフは目まぐるしい変動を迎える世界に忘れられてしまったかのようだった。取り壊しの決まった館に置き去りにされた、あの老執事のフィールスのように。

2.Angelus Novus

音楽家たちを強烈な進歩の風の中に等しく投じた時代に、叫びと共に死んでいったのがグスタフ・マーラーである。彼は保守派には堕落の象徴として罵倒され、革新派には偉大な導師として仰がれた。マーラーの作品は常にこの世の〈外側〉をめざして書かれ、その書法は旧来のそれとは違う、逸脱の性格を有したものである。それでも彼は根っからの保守派だったと言える。マーラーは自身の拠り所とするバッハやモーツァルトといった古典を愛し、その音楽における理念を極限まで推し進めた。特異なポリフォニーや、世界をそのテキストの中に包括しようとする小説のような交響曲。これらの革新的な書法などは身振りに過ぎない。マーラーの信念が彼にこのような身振りを強いた。彼のポリフォニーはバッハのそれを過激なまでに推し進めた結果の産物である。また滑稽なまでに巨大な交響曲群は、ワーグナーがベートーヴェンの『交響曲第9番』に幻視し楽劇の中で表現しようと試みた世界を圧倒的なサウンドスケープの中に併呑しようとする音楽の思想を、交響曲というフォームにおいて実践した、その軌跡である。

未完成の『第10番』、唯一マーラーがオーケストレーションを完成させた第1楽章ではオーケストラが絶叫する。古い伝統の欠片すらも見いだすことの出来ない異様な叫び。ここには肺の焼けるような熱に侵された人間の断末魔がある。理念の追求はマーラーを孤独に導いた。最早あの甘やかな過去には戻れない。未来に居場所はない。人は現在に閉じ込められて、窒息寸前になる。

マーラーが自身の生きる道を世界に見出すことができなかった一方で、ラフマニノフは生き延びて自らの音楽の道を追求した。しかし時代は厳しく、彼は常に時代遅れな作曲家としての評価を受け続けた。それ故にあたかも幽霊のように現世へ残ることとなった彼が、その終局において、マーラーを襲ったのと同様のデッドロックの中で、あえて踊ることを選んだ。作品番号45、『交響的舞曲』。

3.「幽霊たち」

幽霊という語の有する本来的な意味とは別に批評のタームとしてこの語を用いることもある。イギリスの評論家マーク・フィッシャーはデリダの生みだした「憑在論(hauntology)」という概念を援用して、イギリスにおける80年代以降のポピュラー音楽を論じている。そもそも「憑在論」とは存在者やその存在性そのものについて論じる存在論と対を成す概念であり、「そこに存在するわけではないがその非ー存在性により影響を及ぼすもの」、まさに怪談話における幽霊のように物理的に存在することなくして生者に干渉する、そのような事物を取り扱う。フィッシャーは、ザ・ケアテイカーやベリアルのノイズに満ちたサウンドの中に、サッチャー以前のUK、新自由主義に支配される前のUKの幽霊を見ている。失われたユートピア、失われた未来を象徴する過去と未来の両方向に矢印の伸びた概念として幽霊という語をフィッシャーは用いる。例えばザ・ケアテイカーは過去のポピュラー音楽をサンプリングするが、その際に大きく音質を歪ませ、ピッチを変え、また遠景から響くような調整を施している。まるで歪みの向こう側から過去が染み出してきているようなこの音楽は、まさに過去の幽霊に取り憑かれていて、その幽霊によってこそ性格を規定されている。またベリアルの音楽を彼自身は過去ロンドンにおいて行われていたレイヴの印象と結びつけて語っている。レイヴに赴いた経験のない彼だが、その光景について自分の兄から聞き、そこからイマジネーションを膨らませた。フィッシャーは「ベリアルの熱望しているのは、じっさいには直接彼が経験していないなにかである」と解説する。その不確かな過去、そしてどこにも存在しない場所(ユートピア、未来)。これらが幽霊となって現在には取り憑いている。その存在は音楽やTV番組、映画に見て取ることが出来る。『わが人生の幽霊たち うつ病、憑在論、失われた未来』でフィッシャーはこの「幽霊」という単語を鍵に文化批評を行っており、その鋭い分析は私たちの社会にも向けられている。

このフィッシャーの用いる意味で、セルゲイ・ラフマニノフの音楽もまた無数の幽霊たちに取り憑かれていると言える。故郷へのノスタルジー、近親者の死、複数の挫折...。これらは彼自身、また時代の幽霊たちとなり作品に取り憑いている。『交響的舞曲』においてもまた、幽霊たちは譜面の中を彷徨い歩く。ときおり現れる優美なメロディや跳ねるようなリズムの合間から、彼彼女らが顔を覗かせる。その幽霊たちはラフマニノフとその世界のものでもあるし、私たちのものでもある。

4.エイリアンズ(異邦人たち)

渡米後のラフマニノフの音楽に対して、彼の故郷への郷愁は常に回帰している。しかし故郷とその音楽に対するノスタルジーにも関わらず、それらは変容を被って、幽霊となり再来することとなる。

ラフマニノフの主要な楽曲の大半が亡命以前に書かれたためあまり言及されることはないが、彼もまたシェーンベルクやクルト・ヴァイルといった同時代の作曲家たちと同じく亡命者として人生の後半を過ごしている。1917年、ボリシェヴィキの台頭による政情不安、内乱の予感などを理由に彼はロシアの地を旅立つことになり、そして翌年にはアメリカに移住した。当時アメリカは未曾有の好景気にあったが、一方のラフマニノフは不満であった。それは自由に創作を行うことが叶わなかったからである。現に彼はアメリカへ移住してからの8年間、オリジナルの作品を世に出すことが出来ていない。この期間ラフマニノフによって書かれたのは他の作曲家の編曲版ばかりで、例えばムソルグスキーやシューベルトの歌曲、またビゼーの『アルルの女』からのメヌエットをピアノ向けに編曲している。この間、日々の糧を得るため彼は専ら演奏家としての活動に従事しており、プログラムの練習に忙殺されていた。ラフマニノフは幾度とない演奏ツアーを経て世界的ピアニストとしての名声を高めるが、自身の創作意欲は募るばかりだった。

この演奏家としての多忙さに加えて、故郷であり唯一の愛する土地だったロシアの風土から離れてしまい、作曲のための霊感が失われてしまったというのが不作の一因だったと指摘することが出来る。自身のルーツと芸術性を巧妙に組み合わせ、それを高度に練り上げた作曲家はラフマニノフを除けば数えるほどしかいないだろう。ラフマニノフの故郷はノヴゴロドというロシアの一地方であり、そこにはノヴゴロド公国というロシア帝国以前の都市国家が存在していた。長い歴史とそれに伴う文化の蓄積のある土地が彼の故郷であり、またラフマニノフの幼少期過ごした屋敷のそばには雄大な自然が横たわっていた。彼は当地にて芸術的な精神を涵養した。ロシアの地を離れることで彼はルーツから隔絶され、インスピレーションを失う。

ラフマニノフと同じく亡命者として作家人生を送っていたミラン・クンデラは、移住生活においては郷愁の苦しみよりも疎外のそれの方が遙かに苦しいと述べる。疎外とは、クンデラ曰く「私たちにとって異郷のものであったものが、徐々に親しく、そして近しくな」った状態のことである。ラフマニノフは渡米後の作品において同時代の前衛作曲家たちの音楽的な性質を取り入れ始めているが、移住先の文化に慣れ親しみ適応するほど故郷の文化に対して異郷感を覚え、その故郷の音楽は変容を被る。この疎外のプロセスにおいて、郷愁は逆説的に最も高まる。

彼の郷愁の対象であるロシアの音楽について、そもそも「ロシア特有の音楽とは何か」という問いに明確な答えを与えることは「ロシア文化とは何か」という問いに正解を出してやることくらいに難しいし、ともすれば政治的な色を帯びてくる。しかし、ラフマニノフの音楽における息の長い旋律やその「ブルー」な和声には、ロシア小説にでも登場しそうな雄大な自然や人々の素朴な感傷といったものを感じ取ることができるだろう。例えば『交響曲第2番』の第1楽章冒頭における、流々と展開する音楽。チェーホフの『谷間』にて描かれる自然の「不変性」と「私たち一人一人の生や死」の対比と同様の二項対立をこの冒頭部分には見いだすことができる。呻くようにして開始されるチェロのメロディは、木管楽器によるヴェールのような素朴な和声とヴァイオリンの端麗な対旋律に抗うようであるが、この静かな抗弁と「無関心」は互いに継ぎ目なく結びつけられている。このラフマニノフの連綿たる音楽は、善悪をテキストの中に呑み込み無感情な自然の中にドラマを配置してみせるチェーホフの物語とよく似ている。この叙情的な連続性こそ、ラフマニノフ音楽におけるロシア的要素と呼ぶにふさわしいだろう。

しかし『交響的舞曲』において、もはや連続性は失われている。第2楽章においてラフマニノフは小さな舞踏会の様子を描いている。シュトラウス一家の陽気なワルツとは異なる、チャイコフスキーの描いてきたようなある種の物憂げな雰囲気を湛えたワルツは、その優美だが素朴さのある旋律を有している。この旋律は様々な楽器によって奏され、またソロヴァイオリンによって熱っぽく演奏されるも、これらはすぐに金管楽器によるファンファーレによって妨げられる。舞踏会においてワルツは延々と、終わりが無いかのように演奏され続けるのが定例である。この回帰する不気味なファンファーレはその連綿と続くはずであったメロディの連続性を毀損する役割を果たしている。ファンファーレは音楽を断ち切り、宙空に現れるその虚しい像を掻き消す。

また第1楽章の冒頭部分、木管楽器によってモチーフが導かれたのちに現れる弦楽器の一連のパッセージは、ダウンボウで弾くようにとの指示がなされ、その地面を踏みつけるようなリズムが示される。弦楽器においては通常、ダウンボウ(弓を持つ手を楽器から引き離す動き)の後にはアップボウ(楽器に寄せる動き)が伴い、これによって切れ目のないサウンドが生みだされる。しかしこの冒頭部分ではダウンボウの連続によって音同士が明確に区切られている。この音自体は重厚な和音であり繋げて書くのならば、まるで彼の『第2番』のそれのように、立派な序奏として響くだろう。しかしここでラフマニノフはそれぞれの音を執拗に区切ってやることで、従来の叙情性や連続性を捨てて、鋭く動的なリズムの側面を強調している。

渡米後のラフマニノフ音楽を語るとき、この「叙情からリズムへ」という変化はことさらに強調される傾向にある。移住してから作曲された主たる作品には『パガニーニの主題による狂詩曲』、『ピアノ協奏曲第4番』、そして『交響的舞曲』があり、そしてこれらの作品では極めて動的な音楽が展開される。渡米以前の作品に比べて、ラフマニノフ音楽のイメージの大部分を占めるその「叙情的連続性」という要素は鳴りを潜めている。メロディはこれら作品において短く切り詰められており、まるで跳ね回るかのようなリズムが代わりに押し出されている。

しかし、このように様変わりしたラフマニノフの音楽においても、例えば先述したような『舞曲』の第1楽章冒頭部分のような箇所にも彼の音楽のロシア的性格の幽霊を見ることが出来る。この楽章の中間部においてはラフマニノフお得意の甘美なメロディが展開されるが、ここではアルト・サックスにメロディを担わせることで音楽に若干の違和感を差し込んでいる。彼のノスタルジーが、結局帰ることの出来なかった故郷への想いが、ここでは音楽に取り憑き、変容された形で現れている。

「祖国を失って、私自身も喪失してしまった」と述べるラフマニノフはいわゆる「対象喪失」の状態にあった。対象喪失とは元来の精神分析学において「愛着や依存の対象を失うこと」とされていたが、精神分析家の小此木敬吾は移住に伴う環境の喪失も含めてこれを定義する。喪失への心的な適応には悲哀と向き合い徐々に現状を受け入れていくというプロセスが必要不可欠である。フロイトはこのプロセスを「喪の作業」と呼ぶ。小此木は、過剰なまでの労働を要求する社会の中において、現代人が対象喪失に対して充分に向き合うことが出来ずに喪の作業が不可能となっていることを指摘する。また、失敗した喪の作業は人々をメランコリーへと陥れ、それが深刻な症状を引き起こしていると指摘していた。フィッシャーの言うところの幽霊たちとは、言い換えるならば喪の作業が失敗し現世に留まり続けている欲望たちのことである。故郷への愛着、帰郷することへの欲望はラフマニノフの中から退却することを拒み、彼の作品へ取り憑いた。

5.鐘の音

ラフマニノフは取り立てて熱心な宗教家というわけでもなかったが、彼の音楽と教会音楽との間には親密な結びつきがある。ラフマニノフは実際の聖歌の直接的な引用を自作品中にて殆ど行わなかったが、その和声には聖歌の重厚な響きが木霊している。彼の音楽においてロシア正教の要素は鐘の音を象徴として現れている。

20世紀はロシア正教にとって苦難の世紀であった。1918年、皇帝一家の処刑に続き同年には教会領を国有化するソヴィエト政府による布告が発され、政府の「戦闘的な」反宗教体制が決定づけられる。それから修道士や僧侶に対する拷問や処刑が開始された。宗教への迫害自体は革命の開始から第二次世界大戦、ほとんど70年代まで続いた。

ボリシェヴィキによる宗教弾圧は凄惨を極め、1918年6月から1919年1月までの間に聖職者の300人以上が処刑、200人以上が投獄、100を超える宗教施設が閉鎖に追い込まれたとの報告がされている。数々の修道院にて鐘は潰され公園のベンチに変えられ、イコンは破壊された。1914年時点で、ロシア帝国の総人口の約70%(約1億人)が正教徒であったとの報告がある。弾圧の末、彼らから祈りの場は奪われた。そして鐘の音がその耳を癒やすことは二度と無かった。心の支えとしての宗教、そして何より音楽は人々の生活より喪失されたのである。

正教音楽の要素は頻繁にラフマニノフの作品の中に登場している。初期の代表作の一つである『幻想的小品集』より「前奏曲(嬰ハ短調)」では主なモチーフとしてクレムリンの鐘の音を模した音列が登場する。『ピアノ協奏曲第2番』の第1楽章冒頭の厳かな和音の連続も、鐘の音を思わせる。また彼の作曲した合唱交響曲は『鐘』との題を与えられており、人生を象徴する4つの鐘(若さ、愛、騒乱、弔い)についての音楽が展開される。

『交響的舞曲』においてもこの象徴が登場しており、第3楽章ではチャイムの音が挿入されている。第3楽章において現れる鐘の音は、広場に響く教会の鐘を想起させる。この鐘は周辺のエネルギッシュな楽器たちの動きに対して異様な雰囲気を帯びている。ベルリオーズの『幻想交響曲』第5楽章では「怒りの日」に伴って鐘が鳴る。この楽章ではサバトの場面を描いた音楽が展開されるが、ここで響く鐘の音は、『交響的舞曲』におけるそれと同じようにどこかアイロニックな響きを有している。

苦しい生活を送る人々に慰めを与えてきた正教会とその音楽の存在はロシアの地から消し去られて、それは幽霊として、鐘の音を模してラフマニノフの音楽に憑りついている。さらにセルゲイ・ラフマニノフを宗教音楽に導いたのは祖母のマリーヤであったため、聖歌の響きはラフマニノフの生きた時代だけでなく彼自身のパーソナルな人生とも直接的にリンクしているとも言える。

6.「怒りの日」、または死の舞踏

ラフマニノフの音楽へ絶えず再帰する幽霊、それは「怒りの日」である。ラフマニノフの聖歌との深い繋がりについては先述したが、実際の聖歌を自作にて引用するのはこの歌を除きほとんど無かった。

多くの作品において隠蔽されたかたちで遍在する一つの主題。その旋律はモチーフとして彼の作品中に用いられ、初期の大作である『交響曲第1番』でもこの主題は引用されている。元はローマ・カトリック教会の聖歌である「怒りの日」はロシア正教の典礼において用いられることはない。しかしラフマニノフの先達であるチャイコフスキーは『マンフレッド交響曲』でこの主題を引いている。

直接的にラフマニノフとこの主題を引き合わせたのは実はリストだった。ラフマニノフと同じくヴィルトゥオーゾかつ作曲家だった彼は1865年に『死の舞踏』という独奏ピアノ付き管弦楽曲を作曲している。指揮者としてのキャリアを積みつつあった1902年、「怒りの日」をパラフレーズしたこの作品をラフマニノフは指揮している(ソリストは従兄のアレクサンドル・ジロティ)。

ところでハンス・ホルバインは『死の舞踏』の題で一連の版画を発表している。このシリーズでは聖職者から王侯貴族、貧者まで全ての生者たちに襲い来る死を諷刺的に描いている。一般的に「死の舞踏」とはこの一つのアイデア、死が生に勝利し命を刈り取っていくという考えを指すが、一方で、極めて身体的な「死の舞踏」が中世ヨーロッパには存在した。ひとつは集団ヒステリーとしての舞踏である。11世紀と13世紀に散発的に報告されたが、14世紀以降、あたかもパンデミックのような規模でこの症状が現れた。主に若者が罹患したこの病は時に一千人以上を巻き込んだ。もうひとつは呪術的な踊りであり、舞踊の最中にはあらゆる災厄から身を守ることが出来るという迷信から夜通し人々は踊り続けた。これらの舞踏はペストが猛威を振るい国家が戦争に明け暮れる中で人々の身体に現れた「症状」であり、また絶対的な権威とそれに隷属する精神に対する「反逆の身振り」でもあった。

『魂と舞踏』の中で、ポール・ヴァレリーは動き(=舞踏)の中に自らを溶かしてやることによる忘我の境地を、実証主義的な、科学者のような視点で人生を眺める人間の、生にまつわる倦怠感と対比してみせた。絶望的なデッドロックの中で人間は言い難い倦怠感にとらわれるが、ヴァレリーはこれに対し「行為に由来する酔い」を処方してみせる。「行為」とは他ならぬ舞踏である。彼はソクラテスの名を借りて言う。「大いなる〈舞踏〉とは、(中略)わたしたちの身体全体からの解放ではないだろうか?」と。またヴァレリーは踊る肉体を「魂の普遍性を演じようと望んでいる」と言う。「怒りの日」が象徴するとされる死とは、それに宗教の与える厳かな装いとは裏腹に、極めて物理的な、極めて身体的な現象であり、身体の運命づけられた一つの帰着点である。この永遠の凪ともいえる死に臨む存在である我々にとって、身体的な酔いである舞踏は一種のドラッグとして、鎮静剤として、そして〈外部〉へ繋がるトンネルとして作用する。

ラフマニノフにとって死とは常に人生へと回帰するひとつの幽霊だった。彼は幼少期に立て続けに姉二人と祖母を失っている。彼女たちは彼に音楽的な導きを与えた本当の「ミューズたち」であり、彼女たちを通じてラフマニノフは、シューベルトの叙情的な歌曲やジプシー音楽、宗教音楽に触れている。そして1893年、『交響曲第1番』の作曲に着手する前年には自身の良き助言者であり偉大な先達であるチャイコフスキーを失っている。彼はラフマニノフのオペラ『アレコ』やピアノ曲集の『幻想的小品集』、また管弦楽曲『岩』の出来を賞賛して、若き作曲家を大いに勇気づけた。ラフマニノフのピアノ三重奏曲のうち『第2番』は彼の死に際して書かれた作品だ。同年には自身の長きに渡る師であったズヴェーレフを亡くしている。

また『交響的舞曲』の書かれた当時は戦争の時代であった。ソヴィエトのフィンランド侵攻、盧溝橋事件を始めとした日本による浸透作戦など、既に戦乱の嵐は東アジア、そして東欧で吹き荒れていた。同年、ついに嵐は西ヨーロッパへと到達する。ナチスは電撃戦を開始しデンマーク、ノルウェー、オランダ、ベルギーを次々に併呑、そして来たる6月、ついにパリ占領を果たしたナチスはその矛先を英国本土へと向けた。ナチスのロシア侵攻に心を痛めたラフマニノフはコンサートによって得た報酬をソヴィエト政府に寄付し、また在米亡命ロシア人とアメリカ人に対してロシアへの支援を訴えた。死の淵にあっても、彼は赤軍の戦況を知るためにラジオに耳を傾けていた。人類史上類を見ないこの大戦争は数百万という夥しい数の死者を生み出した。

ラフマニノフが青年期までに経験した対象喪失は、常に抑圧の中で変容を被りながら、自らの人生に再帰していた。そして戦争の時代、名も無い夥しい死者たちは現世より消え去ること無く宙空に漂っている。生きた者たちを見守るため、あるいは罰するために死者たちは幽霊として留まり、音楽に、そして世界に取り憑いている。ここでは梶井基次郎の有名な文句がぴったりくる。「桜の樹の下には屍体が埋まっている!これは信じていいことなんだよ」。

『交響曲第2番』第2楽章においてラフマニノフは、疾走するトロイカを思わせるヴァイオリンのパッセージにホルンによる「怒りの日」のパラフレーズを付している。また合唱交響曲『鐘』において、生誕の喜びを表す第1楽章でも彼はこのパラフレーズを潜ませている。これらのイデーの対置は有名なラテン語の成句を思い出させると同時に、あの「死の舞踏」のアイデア、ホルベルクの版画に描かれた、貴賤を問わずしてその人の生命を刈り取る死の姿を想起させる。

『交響的舞曲』ではその最終楽章で「怒りの日」が現れる。中間部においてチェロがこのテーマを仄めかし、第三部ではトランペットが全容を開示する。死がその威容を誇示するかのように、トランペットは高らかにテーマを吹き鳴らす。しかし本作においてラフマニノフはこのテーマの後に自作品である『徹夜禱』より第9曲のアレルヤを引用している。この祈りは軍楽隊の音楽を思わせるスネアに導かれている。戦時中に構想が練られたこの作品がこういった勇壮なモチーフを含んでいることに何ら不思議はない。しかし主を讃えるこのフレーズを過ぎて音楽は再びダンスへとなだれ込む。このダンスにおいて、ラフマニノフは死と対峙する。祈りに勇気づけられるようにして、勇敢な兵士たちの行進ではなく民衆のダンスを以て、ラフマニノフは死と対峙するのだ。

7.踊りの音楽

本作品は、楽章間のモチーフにおける関連性の緊密さを以て、まさに交響曲的な性格を有している。この冒頭オーボエによって奏でられる軽妙なモチーフ(リズムモチーフ)は、同楽章の中間部では引き延ばされ、弦楽器によって歌われる甘やかなメロディに変貌する。第2楽章におけるホルンの不吉なファンファーレはこの特徴的なモチーフから生まれており、ここでもまたそのリズム的な側面は強調される。第3楽章でチェロによって奏でられるフレーズもまた同様である。リズムモチーフはまるで一つの細胞のように働き全体である音楽を構成しており、それぞれが様々な形で結びつくことで、多種多様なフレーズへとつながっている。ベートーヴェンの交響曲が如く一つのモチーフから全体が生まれるこの構成は、まさに本作が「交響的」である所以である。

それでもこの作品の本質は「舞曲」なのである。バレエ・リュスの振付師だったミハイル・フォーキンが鋭く見抜いたように、『交響的舞曲』の核にはれっきとした舞踏のイデーがある(フォーキンは『パガニーニ』に続いて本作のバレエ化も画策していた)。権威への恭順さと乱れぬ行進の求められたこの時代、ラフマニノフの選んだのは他ならぬ肉体の跳躍を要求する音楽だった。

8.『春興鏡獅子』

幽霊とはメランコリーの言い換えであるが、そのメランコリーは私たちの人生に回帰して、私たちの心に取り憑き、また肉体にも強く作用する。気分障害はセロトニンの分泌が上手く行われていない状況によって引き起こされ、それが交感神経に作用することで、四肢の倦怠感や消化器官の不調、食欲不振や睡眠障害といった様々な症状をもたらす。メランコリーは心を捉え、あたかも蝶々を捕まえてピンで串刺しにするようにして、その肉体を一つのポイントへと打ち据える。舞踏においては肉体が空間的に拡張されるようにして躍動するが、憂鬱はそれを固定し、硬直させる。

舞踏とは指摘されるように空間芸術であり、舞踏を通じて人間は自らの肉体を空間に広げる。例えば『春興鏡獅子』では小姓の娘が獅子の精に取り憑かれるが、前半では可憐で淑やかな動きをする一方で、後半では同一の踊り手が獅子の精として荒々しい舞を披露する。獅子は(またはその踊り手は)、たてがみを振り回し檜舞台を踏み鳴らして力一杯に跳ねる。娘は獅子に取り憑かれて本来の人間たる精神を喪失し、彼女の肉体性が精神性を優越している。このとき肉体は飾り立てられ複製されるのではなく拡張され、茫漠たる一つの空間を一つの肉体が侵犯する。そして暴力的なまでに激しい肉体の動きを通じて、瞬間、人間は空間に対する一つの申し立てを行う。

9.空間と肉体

空間には必ず意図が潜んでいる。為政者たちは大衆に対する自らの立場を表明するかのようにして宮殿や議会を設計する。薄暗く狭いバーは、あたかも子どもの頃にこしらえた秘密基地のように人々をリラックスした気分にさせる意図を持っている。オフィスの構造は労働者たちに相互の監視を強いて、また誰がボスで誰がそうでないのかを、ひとたびそこに腰掛ければたちまち理解できるようになっている。

空間の意図の形成において人間の果たす役割は限りなく小さい。建築家ないしデザイナーは建物を設計する。しかしその設計はある他者の要請に常に基づいたものだ。他者とは権力そのものであり、システムである。空間は彼らの代弁者としてそこに在る。この中で人間の肉体は留め置かれ、労働者ないし消費者として、無名の一つの行動主体、一つの「商品」として、それと分からない形で固定されてしまう。意図からの逸脱が容認されることはない。例えばデモ行為は日本ではまるで恥ずべき行為のようにして絶えざる非難に晒されるが、それはひとえにこの行進が空間の「悪用」であるからである。通行に用いるために設計されたストリートや美術品の展示のためにデザインされた美術館、こういった空間を自らの主張のために使用する。デモの現場では空間の意図が転倒される。同様に舞踏とは、権威の代弁者としての空間に対する、肉体の行うことの出来る抗弁の一つの形である。他者の意図を宿した空間を舞踏のかたちで肉体が侵犯するとき、動きにはその動き以上の意味が付与される。ニジンスキーはそのダンサーとしてのキャリアの終わりにスイスのホテルでパフォーマンスを行った。それは他ならぬ戦争への反対声明だった。もしこのダンスが劇場で行われていたとすれば、これほどまでの逸話として残らなかっただろう。ニジンスキーはホテルというラグジュアリーの場を転倒させることで自身の主張を効果的に知らしめた。

空間に従属する肉体から反抗する肉体へと転向することで、私たちは生まれて初めて己の肉体に目覚めることができる。もはや個々人の肉体すらも市場のコモディティと化した現代で、自由な肉体に再度立ち戻るには暴力的な処置が必要である。そして音楽はその処置の一助となり得るだろう。

10.人新世の幽霊たち

原初の時代から音楽は舞踏から切り離せ得ぬ存在だった。舞踏のあるところに音楽はあった。また両者は決して時間的ないし空間的に固定されうるものではない。音楽という存在の核には常に人間の肉体性がある。たとえそれがドラムマシーンやMPCによって生成された音楽であっても、そのグルーヴの核は肉体に根を張っている。空前絶後の不景気の中、サッチャー政権下の鬱屈したロンドン市民はドラムマシーンで生成された音楽に踊った。薬物の煙に慰撫されながら薄暗く狭苦しい廃工場に集まって、轟音と地響きの中、レイバー(レイヴに参加し踊る人々のこと)たちは日中の鬱憤を晴らすようにして踊り狂った。J DillaはMPC3000で数多の魅力的なトラックを作成した。彼の音楽には特異な「リズムの縒れ」があり、この絶妙な縒れがグルーヴを生む。端的に言えばグルーヴとは体がきもちよくノレるリズム感のことだから、彼の音楽にもやはり肉体性が刻印されている。

コンサートホールにおける演奏はこの音楽の肉体性を明らかにする。実際のホールでは、音の合間にオーボエ奏者の息遣いやヴァイオリニストの流麗な衣装が立てる微かな衣擦れを聴き取ることが出来る。若い奏者の演奏は早くなり、老いた奏者のそれは遅くなる。これは各人の体内にあるリズム感の変化によるものだ。個々に異なる肉体は個々の演奏に微妙な相違を与え、それは音楽における絶えざる変化をもたらす。

確かに音楽に存在する肉体性は、その音楽が拠って立つ伝統と慣習に対峙して在る。伝統と慣習は畢竟過去の音楽家たちの軌跡に過ぎないのであって、それはあたかも幽霊のような性格を帯びている。ラフマニノフは自身の人生に回帰する幽霊たちと作品の中で対決してきたが、去らない彼らは生者をやつれさせ、生きたままに殺してしまう。そうしてラフマニノフ自身もまた幽霊のようにして、砂漠のように茫漠たる新世界を彷徨うことになる。

ラフマニノフは自らの「白鳥の歌」として舞曲を選んだ。そして音楽の核に刻印された肉体性を解き放つことで幽霊たちを凌駕しようとした。しかしこの「除霊」は失敗し、幽霊たちは私たちの人生に再来する。フィッシャーは、「欲望を手放すことではなく、放棄することを拒否することからなる」メランコリーについて語る。憂鬱の中でフィッシャーは、「いまだないもの」を希求する。それは失敗した過去ではなく、望まれつつも未だかつて到達しえなかったあるユートピアである。

幽霊たちは憑りつき、私たちが欲望を放棄し現在に適応してしまうことを拒む。回帰する彼らの相貌は潰れ、もはやその原型を留めていない。ザ・ケアテイカーの『Everywhere at the End of Time』に収録された「It’s Just a Burning Memory」ではサンプル元となった楽曲(Al Bowllyの「Heartaches」)のメロディだけが残り、テンポを変えた状態で用いられている。歌詞や歌い手のソフトな歌声が無くてはそれと判別できないようなかたちで現れるそのメロディは、ホワイトノイズの中に埋没している。度重なる複製の果てに画質の荒くなった画像のようにして元来の相貌を失った幽霊たちが音楽には取り憑いている。オーケストラは、音楽という場において幽霊たちとの邂逅と対決を繰り返すひとつの機関として、市場や資本から限りなく遠く切り離されたひとつの空間において、私たちと幽霊たちとの関係性を明らかに描いてみせる。

「メタ・廃墟」。失われた過去を現在へ呼び起こす「廃墟」としての書物を集めた書棚を、著述家の木澤佐登志はそう表現した。オーケストラは喪失された事物の収集された倉庫そして再生装置のようなもので、そういった意味で「メタ・廃墟」的である。オーケストラにおいて保管される作品たちは全て解体と再構築の最中にあって、オリジナルを完全に復元するという再生装置としての機能も疑わしい。全ては微細な変容を蒙りながら奏される。ラフマニノフの作品たちが彼の人生の軌跡であるのと同じく、演奏とは人生へと回帰する幽霊たちと肉体の闘争の軌跡である。

実は、私たちがやって来た時点で既に、全ては完全な形では無く所々が喪失されていたのである。これは抗いようのない事実であって、その夥しい欠片と死体たちが私たちの立つ地面の下に埋まっている。それでも無意味とも思われる挑戦の末に見出せるであろう深く静かな悦びを、夥しい数の闘争の果てに行き着く未来を私は想起したい。斜陽差す新しい庭園には、常に音楽が在るだろう。

桜の園は売られました、もうなくなってしまいました。それは本当よ、本当よ。でも泣かないでね、ママ、あなたには、まだ先の生活があるわ。そのやさしい、清らかな心もあるわ。……さ、一緒に行きましょう、出て行きましょうよ、ねえ、ママ、ここから! ……わたしたち、新しい庭を作りましょう、これよりずっと立派なのをね。それをご覧になったら、ああそうかと、おわかりになるわ。

桜の園

アントン・チェーホフ

神西清訳
青空文庫より抜粋

〈参照文献〉

邦正美著『舞踊の文化史』岩波書店, 1968
→舞踊(舞踏)の歴史をまとめている。死の舞踏については本書に拠っている。

廣岡正久著『ロシア正教の千年』講談社学術文庫, 2020
→ロシア正教の弾圧については本書に詳しく書いてあるため、宗教史を勉強する際は必須だろう。弾圧の際の細かい殉教者の数などは本書に拠っている。

ソコロワ著 佐藤靖彦訳『ラフマニノフ―その作品と生涯―』新読書社, 2009
→伝記的な事実を引用する際は役に立つ。

ポール・ヴァレリー著 清水徹訳『エウパリノス・魂と舞踏・樹についての対話』より「魂と舞踏」岩波書店, 2008
→ソクラテスと友人たちの会話が展開される。ソクラテス(ヴァレリー)のダンスについての分析・表現は、確認できていないがコンテンポラリーダンスにおいて多少なりとも影響を及ぼしたのではないだろうか。

・マックス・ハリソン著 森松晧子訳『ラフマニノフ 生涯、作品、録音』音楽之友社, 2016
→大変詳しい作品解説や伝記的事実の検討がなされている。今後ラフマニノフについて書く人は必見。

小此木啓吾著『対象喪失 悲しむということ』中公新書, 1979
→「適切に悲しむこと」の大切さ、困難さ。高度経済成長期のあとに書かれた本だが、過剰な労働時間が「喪の作業」を妨げるとの指摘はフィッシャーの鬱病についての主張にも通ずるものがある。

・ミラン・クンデラ著 西永良成訳『裏切られた遺言』集英社, 1994
→軽妙だが精緻な作品を残したクンデラは、音楽にも造詣が深く、本書でストラヴィンスキーやヤナーチェクの批評を行っている。

‣アントン・チェーホフ著 神西清訳『桜の園・三人姉妹』新潮出版, 2020
→ラフマニノフとも繋がりがあったチェーホフ。自然主義的だが暖かな筆致の小品が多い。ラフマニノフはチェーホフの作品に感銘を受け管弦楽曲の『岩』を作曲している。

(青空文庫のリンクは以下。訳は同じく神西さん。)

‣マーク・フィッシャー著 五井健太郎訳『わが人生の幽霊たち――うつ病、憑在論、失われた未来』ele-king books, 2019
→本稿の半分は本書に拠る。別の著書『資本主義リアリズム』にて彼は鬱病の政治化を提唱している。高度に資本主義の発達した現代ではあたかもそこに代替案は無い("There is no alternative"とはマーガレット・サッチャーの言)かのように思わされている。環境問題や個人のメンタルヘルス問題を政治化することで、資本主義というシステムには綻びがあり、そこには代替となるシステムの必要性と可能性があると示すことが出来る。この『資本主義リアリズム』で提示された絶望的デッドロックを文化批評のかたちで、TVドラマや映画、アーティストたちを題材にして解体していくのが本書である。

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