楫枕

小説を書いています。

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最近の記事

ラフマニノフと幽霊たち

1.さまよえるロシア人 渡米後のセルゲイ・ラフマニノフは新聞記者に対して自らを「まるで異質なものに変わり果てた世界を彷徨う幽霊のよう」と評した。新進気鋭の作曲家として、また優れたピアニストとして名を馳せた彼が、どのような理由で幽霊となりこの世を彷徨うのか。一つは彼の周囲を取り巻く芸術的な潮流の問題であったと言える。 ラフマニノフが作曲を本格的に開始したのは16歳のときで、18歳で最初のピアノ協奏曲を作曲した。学生時代に書かれた作品とはいえ、この『ピアノ協奏曲第1番』はこ

    • 【断片】終幕

      どうにも暑くて堪らなかったので近くの喫茶店に駆け込んで、とっととアイスコーヒーを注文した。見渡す限り、周囲の客も皆同じのを呑んでいるようだった。無理もない。店内の調度品はまだ真新しくて、どうも開店したてのカフェらしい。曇り一つない窓ガラスの向こう側にはアスファルトの遊歩道と行き交う人の群れがあった。時おり空気が震え、蜃気楼のように外界の景色を歪ませる。道路の向こうには小さな木立がある。まだ10もいかないような子供が冒険者気分で虫取り網を片手に乗り込みそうな木立だ。狭い土地の中

      • オドラデクの墓

         5年前、私はフランクフルトの大学に通っていた。大学からの援助を得た形での留学だったから、世間体を酷く気にする両親や祖父母からは「よくよく勉強してくるように」と釘を刺されていた。私はそんなアドバイスなど気にすること無しに遊び呆けてやろうなどと目論んでいたが、この計画は無残に失敗した。フランクフルトの件の大学は、渡独するまでは知らなかったことだったのだが、とにかく学生に課すタスクの量がハンパではない。のちに聞いた話では、この大学に過去留学した日本人学生の殆どは精神を莫大な課題と

        • グスタフ・マーラーについて、または交響曲第5番よりアダージェットについての短いレビュー

           1860年、オーストリア=ハンガリー帝国のカリシュト(現在のチェコ共和国に位置している)という小さな村にグスタフ・マーラーは産声を上げた。両親はドイツ人に同化したユダヤ人であり、居酒屋を営む醸造業者であった。彼は幼少期から音楽的な才能を示し、モラヴィア人の召使が歌う民謡や、広場で軍楽隊によって奏でられる行進曲、また両親の営む居酒屋でバンドが演奏する流行歌などを吸収した。正統な音楽教育由来ではない、極めて雑多なこれらの要素は、後の彼の作品に頻繁に顔を出す。その最も顕著な例が彼

        ラフマニノフと幽霊たち

          恋は駆け足

           息を切らし、人気のない境内を駆けても駆けても追いつけず、その艶やかな後ろ髪と踵の擦り減ったローファーを視界の奥に捉えては、敬太は痛む胸を労わりつつ悪態を吐いた。中学の頃、帆波は陸上部のエースで他校の生徒からも羨望の眼差しを集めていたという。卒業と同時にキッパリと体育会系の団体からは足を洗ったから本格的に走り込むということはもはや無かったとはいえ、高3の春、今になってもその健脚っぷりは衰えていないのだった。一方の敬太は肺を患っている。専ら中学の記憶といえば保健室の斑点模様の天

          恋は駆け足

          朝日は今あなたを待って

           「話せば長いことだが、僕は21歳になる。まだ充分に若くはあるが、以前ほど若くはない。もしそれが気に入らなければ、日曜の朝にエンパイア・ステート・ビルの屋上から飛び下りる以外に手はない。」  「何?」  「何でもない。」  「それに君は24でしょう、今。アレ、そうだっけ?」  「そうね。そうかもね。」  「何の小説?」  カナタはベッドサイドのスイッチを入れると手を目の前にかざして眩しがった。彼女は小さく唸り声を上げ、それから自分のバッグから薄い文庫本を取り出して僕に見せた。

          朝日は今あなたを待って

          ロンドンに住んでいた頃。夜中に2階の自室から外の通りを眺めてたら、OLっぽい黒人の女性がスキップしながらマイケル・ジャクソンの”Black or White”を熱唱してたのを見かけたことがある。自由について考えるとき僕はいつもあのお姉さんのことを思い出すのです。

          ロンドンに住んでいた頃。夜中に2階の自室から外の通りを眺めてたら、OLっぽい黒人の女性がスキップしながらマイケル・ジャクソンの”Black or White”を熱唱してたのを見かけたことがある。自由について考えるとき僕はいつもあのお姉さんのことを思い出すのです。

          クリスマス協奏曲

          Ⅰ.”I don’t want a lot for Christmas.”(昔の話)「メリークリスマス」 そう言ってジャケットを羽織った中年の男が、赤と緑のリボンをあしらった小包を手渡してくる。泣いていた子どもたちの顔に笑みが浮かぶのを見て彼は、本物のサンタクロースみたいに温かく笑った。屈み込み目線を合わせて男は「家では良い子にしてるんだぞ」と言う。中年はバイクに跨って、そうして長い長い道路の果てまで駆け去っていった。一度たりとも振り返ることはなかった。子どもたちはプレゼン

          クリスマス協奏曲

          Cheap Tricks(よもやま話 その一)

          「クソくらえ…」 永久に火のつかない百円ライターを眼前のテーブルに投げ出して百合子は呟いた。目頭を指で強めに抑えると、もう一度「クソ…」と悪態を吐いた。私は静かに自分のライターを差し出してやる。横目でチラリと此方を見遣ると気だるげにタバコを口先で咥えなおし、何も言わずに百合子はライターをひったくって自分で火を灯した。ゆっくりと息を吸い、ゆっくりと吐く。薄い唇から煙(けむ)が漏れる。タバコを人差し指と中指の間で挟み込むと、右手でライターを静かに置いた。やはり無言である。「どう

          Cheap Tricks(よもやま話 その一)

          誰も誰をも殺さないし誰も駆け落ちしたりしないような、謎もクソもない平板で面白くない小説が好きなんだよな、と最近思ってるしそういう物を書こうとしてる。ただ実際そんな物を読む人がいるのかというのはかなり疑わしくなっている。

          誰も誰をも殺さないし誰も駆け落ちしたりしないような、謎もクソもない平板で面白くない小説が好きなんだよな、と最近思ってるしそういう物を書こうとしてる。ただ実際そんな物を読む人がいるのかというのはかなり疑わしくなっている。

          中央線のドッペルゲンガー

          中央線の車両に俺のドッペルゲンガーが乗っているらしい。中央線はずっと通学に用いていたのもあって、馴染みがある。 一番最初に目撃情報が出たのが2年ほど前。大学の同期から「いま青梅行き乗ってる?」というLINEが来た。ちょうど家で授業を受けていたので、俺はいやいや家だしと返事をした。その時は特に何も考えやしなかった。自分みたいな背格好の男なんか何処にだっているだろう。しかも今じゃ皆マスクをしている。見間違えることなんぞ容易いでしょう。そう言った。 2人目の目撃者は叔母だった。

          中央線のドッペルゲンガー

          【断片】Shapes

          小雨降るその晩、昌が突然家に転がり込んできた。いつも働いている居酒屋でのシフトを終えた後、帰り支度をしていた最中にお客の一人から西部多摩川線が止まってしまったことを聞いた彼女は、どうやら家まで帰り着く方法がないようなことに気づいた。駅前を少しウロウロして必死に帰り方を考えて、それから途方に暮れた挙句、連絡も寄こさずひょっこりやって来たというわけだった。 「なんか暑くない、ここ?雨降ってるぶん外の方がよっぽど涼しいかもね。冷房代でもケチってるの?」 雨の臭いを連れ込んだ昌は

          【断片】Shapes

          ジム通う人

           家の近くにジムができた。我が家の面している街道を沿って少し行くと、5分も経たないうちに辿り着く。あまり大きな施設ではないが適当に設備は揃っているように見えた。流行病のこともあって外に出る機会がめっきりなくなってしまったこの頃、机の前に座り込んで頭でっかちに考え事をすることが格段に増えた。こんな生活をしていると人間は気詰まりを起こす。私も例外ではない。そんな折、ジムが近所に誕生した。ハッとした。これはまさに天からの啓示か何かのようであった。無い貯金を切り崩して入会する。ウェア

          ジム通う人

          梱包された劇(ドラマ)

           今年の夏、私の父が死んだ。米寿の誕生日を過ぎて幾日か経ったある午後に彼は自室でポックリ逝った。体だけは丈夫な男だったから、彼が危篤であるという知らせは寝耳に水であった。妹からの電話を受けて私はすぐさま故郷へ赴いたが、時すでに遅し。着いて和室を覗いてみれば父の顔に白い布が被せてあった。妹は同じく純白のハンカチーフを片手にすすり泣いている。私より先に妻がその場で泣き崩れた。閉め切られたカーテンの隙間から光の帯が垂れてきているのを、私はただ茫然と眺めていた。額を熱い汗が滑り落ちて

          梱包された劇(ドラマ)

          冬の小品

          窓から外の街道を見下ろすとベージュのコートの裾を揺らして髪の長い女が歩いて行くのが目に入った。つい先週まではもっと薄着だったのに。11月も既に半ばを過ぎた。まさに光陰矢の如しだ。額の汗を拭いながら新宿でコローと印象派たちの絵画を観たあの日が、僕には先週くらいのことに感じる。コローの描く突風は、僕の頭上に垂れ込んでいる大いなる暗雲、色のない明日への不安を吹き飛ばしてくれた。もっともあれは何か月も前のことである。頭上には、いま再び灰色の雲が覆いかぶさってきているのが分かる。どうも

          冬の小品

          Parlez-moi d’amour

          断片2  向こう側の小径から二つの影が歩いてくる。辺りは真っ暗で月も無く、遠くでフクロウがホウホウ鳴いている。闇夜を手探りで進んでいる。ようやくボンヤリと見えるような距離まで影が近づいてきた。一対の男女であるようだ。彼らは身体を寄せ合っている。男は前方に長い右腕を伸ばしながら、また左手で横の女の腰を引き寄せている。女の方は、ときおり怯えたように声を上げるものの、実のところは微塵も動揺していないようであって、慣れた様で藪を踏み分けていく。    「ホントだったらあそこに引き

          Parlez-moi d’amour