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【断片】終幕

どうにも暑くて堪らなかったので近くの喫茶店に駆け込んで、とっととアイスコーヒーを注文した。見渡す限り、周囲の客も皆同じのを呑んでいるようだった。無理もない。店内の調度品はまだ真新しくて、どうも開店したてのカフェらしい。曇り一つない窓ガラスの向こう側にはアスファルトの遊歩道と行き交う人の群れがあった。時おり空気が震え、蜃気楼のように外界の景色を歪ませる。道路の向こうには小さな木立がある。まだ10もいかないような子供が冒険者気分で虫取り網を片手に乗り込みそうな木立だ。狭い土地の中に密集して木が生えているから陽の光がその地表を照らすことはなく、さらに奥へ行けば行くほど暗闇が濃くなっている。手入れのなっていない土地のようで、無造作に伸び放題になった雑草がその鬱蒼としたスペースを一層立ち入りがたいものにして、しかしそれがまた一層少年たちを惹き付けるのではないか、そういう風に礼太郎は考えていた。通りの往来も、喫茶店の人らも、この一隅には目もくれてやっている様子はない。まったく詰まらない空間、目の前のホイップクリームの添えられたカラメルプリンみたく「映え」もしない、鎌倉の海みたく騒めいて煌めかない、そういう空間だ。そういう宙ぶらりんの、持主ですら見放してしまうような空間に、忘れられたロマンスやら冒険心やら、そういう古めかしい感情ないし感傷、いわば現代人の幻覚、過去の亡霊が息づいていて、そうだ彼らは知らないのだ、彼らは自身の死を知らない、だから(人間の認知の枠の中においてそれらは)死ぬことがないので、虫取り網を携えてトウェインの小説に出てくる少年よろしく探検へ乗り出す子供らや、遺産整理の遺族らや、そして今の私や、その他の感じやすい性分の奴等、そういうのが一時的に眠り込んでいる彼らを呼び起こし、城の壁や夢枕、雑踏の中に彼らを召喚し、そして…。

礼太郎は夏蓮の話を聞きながら、聴こえない方の右耳を段々と彼女に向けた。それからしばらく顎に手をやり思い沈むような表情を浮かべながらその森の方を眺めていた。右耳には真っ黒いノイズが、左の耳には単調なソンクラーベのリズムが渦巻いている。そのうち闇の奥から誰か現れるような気がしていた。今やノイズは脳味噌の中枢までをも冒していた。頭が割れるように痛かった。よもやエモーショナルな歌声も、軽妙洒脱な旋律も、威風堂々としたオーケストレーションも、何もかも真っ黒いノイズに塗りつぶされた。何もかも気詰まりだ。何もかも焼けて落ちれば良いと思う。あの森へ走り出してしまいたい、走り出したくて居ても立ってもいられない。そんなとき急な雨でも降り出せば、さぞ気も晴れるだろう。僕が「さようなら」と言い外へ出て行って、そして彼女は別れを切り出すこともなく勘定を済ませて帰るのだ。これが恋愛映画だったらなんと退屈な幕切れだろう。

そうだ、なんと凡庸なエンディング!手垢に塗れたコーダ!だからこそ、いつだって物語の終わりに相応しい。詰まらない物語に力強いフィナーレなんぞ求めてはいけない。大団円で終わると思ってはいけない。現実という物語は常に退屈である。常に面白いあの暗がりへ目を遣りながらも、それは一定のスピードで光の中を進んでいく。この倦怠感こそが真理である。生活において、人との関わり合いにおいて、その身振りは大した意味を含むこともなく、吐き出されたフレーズは空を掴み、仄めかしは肩透かしに堕落し、そして呆気なく終わる。

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夏の思い出

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