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オドラデクの墓

 5年前、私はフランクフルトの大学に通っていた。大学からの援助を得た形での留学だったから、世間体を酷く気にする両親や祖父母からは「よくよく勉強してくるように」と釘を刺されていた。私はそんなアドバイスなど気にすること無しに遊び呆けてやろうなどと目論んでいたが、この計画は無残に失敗した。フランクフルトの件の大学は、渡独するまでは知らなかったことだったのだが、とにかく学生に課すタスクの量がハンパではない。のちに聞いた話では、この大学に過去留学した日本人学生の殆どは精神を莫大な課題と悪辣な気候に蝕まれて帰国するそうである。もっとも、この課題の多さに代表されるような学生へのスパルタ教育というのは、ドイツひいては欧州の大学全てに見られる共通点なのかもしれない。何はともあれ、ドイツでは文字通り息も絶え絶えになりながら生活していた。第一私の英語力では通用しないケースがあまりにも多かった。学内では概ね問題なく過ごすことが出来ていた一方で、町中の小さなコンビニや交番、小さなレストランなどでは非常に難儀した。ドイツ訛りの英語はまだしも、トルコやシリアからの移民たちの話す英語は私の耳に大変奇異に響き、いちいち身振り手振りを交えて、脇に汗をかきながら必死に会話せねばならなかった。しかし、私の話す英語も随分不思議に聞こえただろうからあまり文句は言ってはいられなかった。

 留学開始から半年が経ってようやくまとまった休みが手に入った冬、私はパリ行の旅行を計画していた。折からの暴動は若干落ち着いてきていたから、恐らく問題ないだろうなどとタカを括っていると、TGVに乗車するその一週間前にパリ中心部での騒動が再開した。元より日本の両親からは行くなと忠告されていたパリ行きだったが、このニュースを見た彼らは即座に私に連絡し、頼むから今パリに行くのだけは止めてくれ、行くなら次の夏休みにしてくれ、そう言ってきた。アナタのことが心配なのよと、母は涙ながらに訴えてきた。私は弱ってしまった。そしてこれは懇願の形を取っていたが、その実ただの命令だった。渋々私は承諾して代わりにオーストリア・チェコを巡る旅程を組んだ。それでもやっぱりパリには行きたかったから、最後の最後までTGVの乗車券のキャンセルを躊躇っていた。

 情勢は結局最後まで好転しなかったので、私は泣く泣くTGVをキャンセルして、代わりにオーストリア行きの列車に乗り込んだ。オーストリアではウィーン歌劇場とシュトラウスの墓碑を観に行った。

 3日目の朝、私はプラハ駅にいた。早朝にウィーン中央駅を出て、4時間後にはチェコだった。ヨーロッパは国を跨いで移動するのが容易いから良い。チェコはドイツやオーストリアの隣国だから当然似たような雰囲気があるように思えたが、どこか得も言われぬ異国情緒もあった。

 チェコでは取り敢えずプラハ城に行こうとだけ考えていた。オーストリアにいたときと同じように他は特に計画することなくブラブラしようだなんて心づもりでいた。

 それにしてもあの時の私は疲れていた。フランクフルトを出た日からロクに寝ていなかった上におまけに今朝から動き回っていたので、プラハ城を目指すトラムに乗り込んで席へ着くとすぐに眠り込んでしまった。周囲にはハイキングに出かけるかのような格好に身を包んだご老人の集団がいて、ひっきりなしに喧しく雑談している。普段だったら気になって寝付けやしないところだったが、その日はあまりの疲れから、彼らの立てる雑音すら子守歌のように聴こえた。

 トラムの中では奇妙な夢を見た。寂れた町の、これまた寂しい一角にサーカスのテントがあって、そこに入ると冷蔵庫大ほどの檻が置かれている。牢獄の床には僅かに藁が敷かれている程度で、他には何も見当たらなかった。よくよく近づき目をこらして見るも、その檻のもう一方の果ては見えてこず、どうやら思ったよりも巨大な牢のようだった。照明一つも無いテントの中で辺りを見渡していると、牢の中から小さな呻き声を聞いた。確かに耳の中にその言葉の無い訴えは響いて、まるで一文字一音節すべてが明瞭に聞き取れるかのようだったが、それでも訴えは意味を孕むことを不可能にして、動物が絶命の際に上げる声のような、嘆願するような、それでいて諦めと絶望の淵に底にあるような、そういう呻き声だった。私は、逃げることも耳を塞ぐことも叶わずにそこに突っ立っていて、その不快極まりない声を浴びせかけられるがままだった。もう一度呻き声が響き、その方向に目を凝らすと、突如として藁の合間から細い腕がニュッと現れた。

 そんな夢を見て、飛び上がるようにして目を覚ますと、そこはなんだか皆目見当もつかないような場所だった。いつの間にやらトラムは何も無いような路上に停車していて、乗車客は私とほんの少しだけしかいなかった。件のマダムたちもいない。偶然、残った乗客の中に一人見覚えのある相貌の持ち主を見つけた。黒い短髪、浅黒い肌。鼻筋は綺麗で眼は落ち窪んでいて、鋭い光を周囲に投げている。立ち上がり降車する彼を横目で見ながら、何処かで見たなという気がした。記憶を手繰っているうちに、運転手が何やら大声でこちらに向かって怒鳴ったので、いそいそと私はタラップを降りた。

 暖房の効いた車内から出ると外では冷たい北風がビュービューと吹いていて、剥き出しの頬を力任せに殴りつけていった。首元のマフラーをたくし上げると眼前に佇んでいる青年に向き合った。彼は大学の同級生で、いつも教室の後ろの端に腰掛けている男の子だった。私は取り敢えず、右手を挙げて「Guten Tag!」と挨拶した。こっちの精一杯の厚意に対してそっけなく彼は「こんにちは」と英語で返す。小さいが良く通る低い声だった。そういえば彼の声を聞いたのはあの日が初めてだった気がする。

 「この辺りに実家があるの?」
 「そんな感じだね。」
 「チェコの人だなんて知らなかった。」
 「まぁ、そうだろうね。」
 「アタシのこと、知ってる?」
 「あんまり。日本人だってことくらいだ。」

 互いに面識があるとも無いとも言い難い二人の会話は、実にぎこちなく展開した。このまま暗がりで手探りするようなお喋りを続けるのも悪くはなかったが、第一かなり気まずかったし、そしてここが何処なのか、またどうやったらプラハ城へと辿り着けるのかを聞く必要があったため、私は早々に無駄話を切り上げた。

 「ここはどこ?」と私は聞いた。彼はカクカクシカジカと答えた。聞いたこともない町で、今、これを書きながら必死に思い出そうとしても、その名前は記憶の引き出しの奥深くに仕舞われたままで、なかなか見つからない。

 「どうしてこんな田舎に?観るとこなんてどっこも無いよ。」
 「寝過ごしたの。ホントはプラハ城に行きたくて。」
 「そりゃあ災難だね。」

 相も変わらず素っ気ない彼(仮称:K)は、その「災難だね」という簡素な同情の言葉に加えて、如何にこの町がプラハの郊外の外れに位置しているか、また如何にここの交通インフラが整っていないかを説明してみせた。

 「要は、プラハ城行きのバスなんざ、滅多にここには来やしないってことさ。」

 夕方に一本だけバスが来るから、それに乗ると良い。でなきゃ3,4時間は歩き続けるハメになるよ。そうK君は告げた。加えて、こんな田舎には何も観るものなんか無いよ、と彼は言う。じゃあ何故ここにいるんだと聞けば、「祖母の家が近くにある」のだそうだ。 

 K君の話をよく聞くと、実は彼はチェコ出身ではなく、ベルリン生まれベルリン育ちなのだということだった。ではドイツ人なのかと尋ねると、僕はユダヤ人の家系に生まれたから、とだけ答えた。

この辺りを案内してはくれないかとK君に尋ねると、怪訝な面持ちで彼は「ホントに何も無いけど良い?」と言って背後の石畳の路地を指した。構わないと私は返した。

 「出来ればレストランか何かあったら紹介してほしいのだけれども。お腹が減っちゃって。」
 「分かったよ。」

 こういう行き当たりばったりな旅も良いのではないかとその頃は思うようになっていた。またヨーロッパの町というのは往々にして教会を中心として形成されており、教会を懐に抱いた広場には多かれ少なかれ小料理屋や靴屋や絵描きの店があって、そこらを歩いていれば何か面白いモノやらヒトやらにぶち当たるのが常だった。

 そうタカを括っていたのだが、この町は私の予想を遙かに超えた田舎町であって、石畳の道を幾ら行けどもカフェのウィンドウ一つ目に入らなかった。玄関を固く閉ざしたアパートメントが軒を連ねており、どれも同じような簡素なファサードを共有していて、何度路地を曲がれども、何度坂を上ろうとも、先ほど過ぎた通りを堂々巡りしているようで、まるで町一つが大きなラビリンスを形成しているかのようにも思え、しかしここで踵を返して停車場まで戻るのも億劫だし、そしてK君の厚意を踏みにじることはしたくなかったから、渋々ながら彼の後をついて歩き、ひたすらに続く寂しげな街路を、言葉を尽くして散々に賞賛してみせた。彼は私の精一杯の気遣いを無視するかのように、これらの讃辞を鼻で笑った。

 歩き続けるうちに私たちは広場に出た。広場と言っても猫の額ほどの面積で、靴屋も絵描きの店も無く、大道芸人たちや彼らを見詰める子供ら、肩を抱き合う恋人たち、パブの軒先で悠々とビールを啜る老人たち、広場には欠かせぬそういった群衆のたちの、その気配すらも感じられなかった。そのスペースの隅には小さなチャペルがあって、今にも腐り落ちそうなボロボロの扉には固く錠前が掛けてある。K君はチャペルの反対側に位置している建物を指さした。貧相な看板が掲げてある。近づいてみてみるとそこにはパンとワインの絵が描かれてあって、どうやらレストランらしかった。密かに胸が躍った。ウィンドウ越しに数人の客とレジ、そしてレジの隣にはケーキ類が収まっているらしきキャビネットが確認できる。

 私たちは窓際のテーブルに陣取った。ここからだと往来がよく観察できる(観察中、誰一人として広場を横切らなかった)。キャビネットに収まっている何かしらのパイを2切れ、そして彼はカプチーノ、私はアールグレイを頼んだ。レジの向こうに座っている老婆はパイをレンジに放り込んで、それから私に何やらチェコ語で言った。K君が翻訳してくれた。

 「アールグレイなんて無いんだとさ。」
 「無いことは無いでしょう。メニュー表には在るんだから、在るんでしょう。」
 「無いんだとさ、諦めな。」

 老婆は憤然と首を横に振っていたからチェコ語が分からずとも大方意味は通じた。諦めてカプチーノを頼んだ。パイはパサついていてカプチーノはお湯っぽかった。それでも私は美味しく食べた。

 レジの老婆以外にこのレストラン(というよりカフェテリア)には老人が3人いて、みな同じように小さなグラスから酒のようなものをチビチビと飲んでいた。緑色した液体を興味深く眺めていると老人の1人が親切に、これはベヘロフカというんだよ、と英語で教えてくれた。見るからに彼は酔っ払っていて、鼻の頭を真っ赤にして話しかけてきた。もう1人はテーブルに突っ伏して眠りこけており、最後の1人はとろんとした目つきで私の頭の先からネイルまでを舐めるように睨め回した。オシャベリの件の老人は段々と私の手首に指を這わせてきたり品のないことを言ったりしてきた。気味が悪くなったので、K君を促して早々に会計を済ませ出て行こうとした。

 「またおいで!」

 起きている2人の老人がそう私に言葉を投げたような気がした。今の私が日本で自分の上司にするような、ぎこちなくも愛想のある笑みを浮かべて私は手を振った。

 また歩き出してしばらくすると、町の外れの荒野へと辿り着いた。そこに先程の石畳やチャペルといった文明の存在を示すしるしは最早なく、そこには背の高い草叢と千切れた雲と、それから素寒貧の太陽とだけがあった。自らの胸を撫でてK君は少し息を吐き、それから根気よく歩き出した。そして丘を登ると墓場に出た。

 墓場は荒れ放題で、ここもまた雑草だらけだった。裸の地面が所々剥き出しになっていて、墓の合間を北風が吹き荒ぶたび濛々と土煙が立ちこめた。墓石の表面は風化して判読しがたいものばかりだ。

 「町の中心はここだね、もし気になってるなら。」

 今まで歩いてきた道の反対側を指さして彼は言う。確かに向こうにもさっきと同様の町の光景が広がっている。

 「教会が町の中心にある訳じゃないのね。」
 「むかしはそうだったんだろうね。でもこの墓場を中心に新しく市が形成されたんだ。最近ね。区画整理というヤツだ。」

 また黙々と2人は歩き始めた。墓場を突っ切るとそこには一軒の家が建っていた。私にはここが彼の祖母の家だと直感で分かった。K君は私を外にほったらかして無言で中に入っていった。

 それにしてもなんと古めかしい家屋だろうか。苔むした茅葺き屋根は今にも崩れ落ちそうだ。玄関にも蜘蛛の巣が張っている。そして窓ガラスにはテーピングがしてあった。きっと割れた箇所を保全しているのだろう。そう考えた。しばらくしてK君は出てきた。

 手伝ってくれるかなと彼はそう言いながら私にタオルを数種類渡した。どれも端の方がほつれていて真っ黒に汚れている。私は生返事をした。彼の背後に背の曲がった老婆を見たからである。

 彼女の背中は異様に曲がっていて、その巨大な鉤鼻は自身の爪先に付かんばかりだった。何やらブツブツと呟いて、それにK君は答えた。口も鼻も下を向いているが、両の目玉だけが私を見詰めて放さず、その眼光は鋭く、まるで獲物を見定めたネコ科の生き物みたいだった。彼女は翼のような真っ黒いカーディガンの裾を広げて、私たちに命令を下した。四の五の言わず私は従った。K君は水で一杯になったバケツと、それから石鹸とスポンジを携えている。

 それから私たちは墓地の外れ、一際荒れ果てた野っ原の端にいた。そこには小さな墓石がある。いや、墓石と呼ぶにはそれは小さすぎた。そしてあまりにも素っ気なかった。その石はちょうど赤ん坊くらいのサイズをしていて、丸っこかった。

 「これを掃除するのね?」
 「そうだ、まさしく。」

 私たちはスポンジに水と石鹸を含ませて墓石に擦りつけ、そしてバケツの水で濯いでやった。それからタオルで水気を取ってやると、まるでそれは新品のように煌めいてみせた。墓石の表面を凝視する。そうすると何やら記号が浮かび上がった。それは星形と十字を組み合わせたような奇妙なもので、まるで人間の墓に書き記すものではないように思えた。

 「オドラデクだ。ここにはオドラデクが埋まっている。」
 「オドラデク?」

 彼はオドラデクについて説明を試みた。曰く、その人間でも動物でもない謎めいた生き物は、祖母である老婆の幼少の頃には既に年老いていたらしい。ただ彼女はその姿形や生態についてあまり多くを語らずに生きてきた。K君には、自身の祖母がどうしてこんな不可思議な生物のことを語ってこなかったのか意味不明だった。そして今や彼女は半ば呆けている。だから、もはや詳しく聞き出すことも不可能に近かったし、第一こんな片田舎の墓に何が埋まっているかなどK君の知ったことではなかったので、そもそも尋ねることもなかった。そういうわけで、彼自身オドラデクについては何にも知らないのだ。

 「あと婆ちゃんはオレが墓の掃除を忘れるとメチャクチャにキレるんだ。」
 「大事なペットだったのかも。オドラデク。」
 「かもね。」

 ほんの10年ほど前まで彼女は町に降りていっては暇そうな少年少女を1人ずつ借りてきて、この不格好な墓の掃除をさせていたのだという。そして5年前、膝を悪くしたので坂を下るのが難しくなった彼女は時折家を出ては掃除をし、そして今ではベッドを抜け出すのすら難儀しているので、こうして孫を呼びつけては駄賃で仕事を任せていた。

 「この前まではウチの姉ちゃんが来て掃除してたんだ。産休中の女性をだよ、呼び出してさ。全くイカれてしまってるとしか言い様がないね。」とK君は言う。それから墓石から顔を背けて「マッタク、クソクラエダヨ」と日本語で小さく言い添えた。

 2年もせずに老婆は死ぬだろう。そのとき彼女の親族は心から悲しんで、手厚く葬るだろう。だがオドラデクはどうだ。老婆亡き後、彼(ないし彼女?)は今と同じように気を配ってもらえるだろうか。とにかくK君は絶対にここへは戻らないだろう。では他の家族は?そう思うと私はこの無様な墓の持ち主であるオドラデクのことをどうにも哀れに感じた。

 町には既に夕暮れが迫っていて、じきにここも真っ暗の陰に呑まれてしまうだろう。私たちは同じ順路を辿って駅へと戻った。そうして私は彼と小さな町に別れを告げる。

 「厭な場所だっただろう。もう二度と戻ってきてはいけないよ」。彼はそう言う。私はそれに答えることなく手を振った。

 「Auf Wiedersehen!」
 「サヨナラ!」
 「Au revoir!」

 プラハ城の近くの安いInnに部屋を取っていた。バスを降りてチェックインを済ませ、そこのスタッフにリュックとケースを任せて、身軽になった私は随分と気楽な気分で街を散歩していた。近辺には居酒屋なんかが多くあったが、あまり気分ではなかったので、コンビニの隣にあった小さな中華料理屋に入って晩ご飯にした。経験則上、どこに行っても中華料理は同じ味がする。中国人は逞しい人たちだから、何処に行ったって何とかして故郷の味を再現してしまうのかもしれない。その店には幾人かの客がいて、いずれも中華系のように見えた。私は上海焼きそばを食べた。脂っこい麺を冷えたジャスミン茶で流し込む。この上ない幸福を感じた。私は朗らかに店を出て部屋へと戻った。部屋に入るやいなや旅の疲れからか、私はメイクも落とさずにシーツに潜り込み、そして朝を迎えた。

(終)

〈参照〉

カフカ短編集より「父の気がかり」
https://www.iwanami.co.jp/smp/book/b607489.html

ベンヤミン著作集7より「フランツ・カフカ」
https://www.amazon.co.jp/%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%B3%E3%83%A4%E3%83%9F%E3%83%B3%E8%91%97%E4%BD%9C%E9%9B%86-7-%E6%96%87%E5%AD%A6%E3%81%AE%E5%8D%B1%E6%A9%9F-%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%B3%E3%83%A4%E3%83%9F%E3%83%B3/dp/4794910673


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