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井伊直弼が自分に付けた戒名【歴史から見る生前整理】

『宗観院殿柳暁覚翁大居士』

これは、井伊直弼が生前、自分自身に付けた戒名です。

井伊直弼は、
幕末から明治維新にかけて登場した重要人物の一人です。
徳川譜代筆頭である井伊家の彦根藩主として幕府の大老となり、
天皇の許しを得ずにアメリカと日米修好通商条約を締結。
また、跡継ぎ問題で揉めていた時の14代将軍を強権で徳川家茂に決定。
その後、自分への反対派を安政の大獄で弾圧し、
最後は桜田門外の変で暗殺されました。

その強引なやり方から、時代劇などでは悪人として扱われることが多い井伊直弼。
しかし、実際のところは、当時の幕府の政治が複数の「老中」という役職者たちの合議制により決められており、直弼は大老という立場上、その大きな責任を一身に背負わされてしまったと言われています。
なお、地元の滋賀県彦根では、鎖国していた日本を開国に導いた偉人として高く評価されているとのこと。
また、反対派への弾圧も、日本が外国からの強烈な圧力にさらされている状況下では、内乱を起こさないようするためにやむを得なかったことかもしれません。
直弼が残した手紙などには、その振舞いからは想像できない迷いや悩みなどが綴られています。

こうして、善悪わかれて評価されている井伊直弼。
その直弼が、心の礎としていたのが「柳」でした。

そもそも、直弼は十四男であり、跡継ぎとして藩主の座に就くことなど到底あり得ないはずでした。
そして、直弼は、世の中の出世や競争とは離れて、文武の道に励もうという気持ちを込め、自分の屋敷を「埋木舎(うもれぎのや)」と命名し、禅や茶道などの諸芸に打ち込みました。
その中で、強くしなやかな柳の木のようでありたいと思うようになっていきました。

直弼は、後に「埋木舎」を「柳和舎(やぎわのや)」や「柳王舎(やぎわのや)」へと改めたり、文芸では花押(かおう)を柳の字形をもとにするなど、自分の身近なものに「柳」の文字を用いていきました。

そして、戒名にも、
『宗観院殿柳暁覚翁大居士』
と「柳」の一字を加えたのでした。

その後、井伊家の男子が次々に早逝するなどしたことで、
直弼は35歳で彦根藩主に就くこととなり、
43歳の時には、幕府の大老に就任し、歴史の表舞台に登場しました。

幕末から明治にかけての激動の時代に苦闘した井伊直弼。
1860年、桜田門外の変の当日、直弼は自分を襲撃する情報を得ていたとも言われていますが、大老が登城しないわけにはいかないという責任感で予定通り登城の途についたところ、待ち伏せていた浪士たちに襲撃され、命を落としたのでした。

戒名というと、
葬式の前にお坊さんに決められるものというイメージですが、
生前に自分で決めることもできるものなのです。
直弼のように、自分が望み、その思いを込めた戒名を
自分自身のために付けてみてはいかがでしょうか?

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