おはよう、こんにちは、こんばんは、おやすみ前の方も。共に在ってくれて、ありがとう。otoki(おとき)です。
【誰もが、あるがまま、輝き生きる場を創る】と言い続けているのに、(あるがまま)という概念が深すぎて、あまり解像度が高くない感覚がありました。
最近、いくつかの書籍や記事と出逢い、毎週3日a.m.5:30からマインドフネス瞑想をしていく中で、現時点の私の(あるがまま)に対する想い、見解を綴りたいなと思ったので、こちらに置いておきたいと思います。
🌒とある朝の瞑想で。(気づき①)
とある朝、(できないじぶんを認めてゆく)というお話をしました。
私は、(優秀)であることを求め続けて、生きてきたと、自覚しています。幼少期からオール5の通信簿を目指していましたし、中学高校でも悪い点数がじぶんの不足、欠点のように思えて。
高校1年か、2年に数学の確率のテストで、初めて赤点をとったときはテスト用紙を燃やそうとしていました(笑)(いやあ、数学全般大の苦手ですが確率はどう頑張ってもよくわかりません笑今でもセール品の%計算とかよくわからないまま生きています笑)
社会人になって働くようになっても未だに(優秀)のラベルを剥がされまいと右往左往し続けていることに気づいていて。
なぜ(優秀)にこだわるかというと、そのほうが(旨味)があると感じてきたからだと思います。
(優秀)というのは、わたしが掲げる(あるがまま)とはほど遠いもの。なぜなら、(できないじぶん)が嫌だから、すべてできるようにする、という行為だから。まさに(あるがまま)の否定。
(優秀)とは、すべてが満遍なくできる世の中にとって都合のいい人。ぜんぶできるわけないし、人には個性があって、何かが抜きん出ていることが面白味になるんだから、オール5なんて、ほんとうは要らないんです。
けれど、「学校や社会で(優秀)でないわたしは、ここに存在する価値はない」、「価値のない(優秀)でないわたしは、生きている価値さえない」、という考えを植えつけ続けて、育ててきてしまったわたしは、未だに(できないじぶん)との折り合いがつけられていないようです。
そして、「価値のないわたし」というスタートラインに立った結果、相手を尊重しすぎる傾向があることにも気がつきました。(マイコーチとのコーチングにて)
ちょっとだけ、マイコーチとのコーチングを振り返ってみます。
(とても大切な私の”価値なし”の価値観に触れています)
この対話の後に、この”価値なし”モデルがいつから存在するか、深掘りする対話に入っていきます。幼少期から(優秀)で在り続けないと、わたしに存在価値はない、という感覚で、その感覚がボトルネックであることに気づいていきました。
このように私にとって(優秀)でなければならない、この枠の外にはみ出ている(あるがまま)の私は価値がない、という価値観は根深いもので、今少しずつその事実に気づき、治癒していこうとしている段階な感覚。
メンタルダウンもして (できない)ことが増えたから、今ここに(ほんとうにやりたいこと)(等身大のわたしでやり続けられること)と向き合う時間が必要だと言われているように感じます。
この、足かせになっている(優秀でないといけない)という感覚と、これからどう折り合いをつけ、(できないことを認めて、等身大のわたしで心地よく生きてゆけるか)また探究していきたいと思い、この日は終了しました。
🌒とある朝の瞑想で(気づき②)
とある朝、(あるがまま)の解像度が上がる気づきがありました。
今朝は(あるがまま)の解像度を上げる、(あるがまま)の深淵を探究するための一歩を踏み出せた回になりました。
(あるがまま)とは、無条件に(ここに居ていいよ)って言える状態であると、感じます。
そして、(いのちの声、いのちの願い)に沿って生きている、生かされている状態。
思考や感情、思いは、じぶんの一部ではあるかもしれないけど、それがすべてではないと感じます。
例えば、(じぶんなんてこの世に要らない)(じぶんなんてだめだ)(苦しい)(怒りが収まらない)こういう苦しい思いや思考がほんとうの自分自身だと感じることはありますか?
わたしも、こういう苦しさと共に在った時期がありますが、これがほんとうのじぶんだと信じ込むと、(つらい)と感じるし実際つらかった。
(いのちの願いを聴き入れる,いのちの願いとつながる=あるがままの自己、等身大のじぶんを認め、ただ共に在る)ことは、心地よさの発見でもあると感じます。
なので、(つらい)と感じること自体が、(いのちの願い)を受け入れ、聴き入れていないから起こることだと思うのです。
あなたがやっていて心から(心地よい)と感じることはなんですか?(いのちの願い)とつながっていると感じている場面はありますか?
わたしにとって、(いのちの願い)とつながっているのは、瞑想の場であり、ただ共に在ることができる場。
つまりは、(あるがままで居られる場)です。
大切なわたしを、大切のあなたを
(あるがまま)生かしきるために、
(あるがまま)生ききるために、
今できることを少しずつやってみようかなと思わせてくれた、大切な場になりました。
🌒マイコーチとのセッションでの気づき
マイコーチとのセッションが非常に心地よくて、愉しく、そして(あるがまま)の解像度が深化した時間だったので、だいぶ長いこと引用してしまいましたが、対話の流れの中で、(あるがまま)の解像度が上がっていく感じを共有したくて、引用させていただきました。
🌒現在の(あるがまま)に対する見解
今ここに在るわたしにとっての(あるがまま)はこんな感じな気がします。
(あるがまま)とは、無条件に(ここに居ていいよ)って言える状態
そして、(いのちの声、いのちの願い)に沿って生きている、生かされている状態。
(あるがまま)でいるために今ここに(ほんとうにやりたいこと)(等身大のわたしでやり続けられること)と向き合う時間が必要
(いのちの願いを聴き入れる,いのちの願いとつながる=あるがままの自己、等身大のじぶんを認め、ただ共に在る)ことは、心地よさの発見でもある
わたしにとって、(いのちの願い)とつながっているのは、瞑想の場であり、ただ共に在ることができる場。つまりは、(あるがままで居られる場)。
仏教の文脈や、さまざまな本や記事から得たものも全て繋がって、上の見解に辿り着いている感じがします。ここから、またいろんな体験をしたり、(あるがまま)の場を共にすることで、見解がより深まっていく感じがしているので、大切なあなたと共に在りながら、少しずつ探究していくのを愉しみにしています。