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うみがめ荘にて

 我々が特に優れたアイデアもなく、また何につけても機転を利かせる事が出来るような、そんな器用な頭を持ち合わせていない事は、互いに口に出さずとも理解していた。
街角の隅に至るまで足を棒にして歩けば、街灯に照らされた正面の疲れ果てた表情を見て、どちらともなく吹き出してしまう。そんな頃の私達の事務所に立て掛けられたホワイトボード、一つの線が緩やかに右上の角を狙っていた。
街が寝静まった頃、今となっては何の感情すら抱かなくなった小さな数字の羅列に一喜一憂して、百均で買ったグラスに冷えたビールを注ぎ一気に飲み干す。ささやかな幸せだったのだ。

 いつからだろう。彼はホワイトボードを後ろ向きに隠して、今や右下に伸びる線を見ようとはしなくなった。数字は、我々の未来を暗示するかのように日々落ち込んでいき、グラスに注がれるのはビールではなく、胃薬を飲む為の水道水だけとなっていた。部屋の隅から聞こえる溜息。やめろよ、と思って私も溜息をつけば、彼と目が合うのが無性に腹立たしかった。
「俺達は、よくやったんじゃないだろうか。恐らく自分で思う以上に、よく頑張ったんだ」
最近の彼の口癖である。よく頑張った、とは言うものの、これからどうして巻き返しを図るのか、という思考が欠如しているその口振りは、闘わずして白旗を上げるのと同じだった。降伏だった。
「そして今からも同様に、頑張るんだよ」
そう言う私に、彼は「どうやって?」と強い意志を持った目でこちらに問えば、もう出て来る言葉はなかった。
どうやって? こっちが聞きたい。

 自らの妻が出産の為に田舎へ帰省した事を受け、彼の諦めは更に顕著となっていった。確かに、今まで培ってきたツテを探れば、今のような沈みかけた船からなどいつでも脱出する事が出来るだろう。それは、私にとっても同じ事だった。しかし、今部屋の隅でまた溜息をつく男は、私への一言を言い渋っている様子である。

「徳島の法人からメールが入っている」
「どこ?」
「......K観光販売と書いてあるな」

「思い出せない。以前取引があっただろうか」
どれだけ帳簿をひっくり返してみても、取引に関する履歴は見つからず、恐らく手当たり次第にこちらから流したDMに反応したのだろうという結論に落ち着いた。
叩くキーボードは、以前のような軽快ななりを潜めて、数分ごとに長い沈黙を挟みながら、なんとかデスクトップに文字の羅列を打ち込んでいった。
病人が這う姿を想像すれば、今の私は確かに少しヤケになっているのだろうな、と納得さえしてしまうその空気の重さに、彼は再びその口を閉ざしてしまった。

「一度、嫁の顔でも覗いて来いよ。徳島の件は、こっちで上手くやっておくから」
一回、二回、三回と男は頷いて、こちらへ視線を寄せる。その頷きはこちらへの配慮ではなく、自身を納得させる為の運動だった。
「お前には悪いけど、そうするよ」
「また、ここへ戻って来るんだろ?」

そんな私の本質を衝いた言葉に、帰って来るモノは何もなかった。その問いに口を開かぬ彼の表情は、深夜に紙コップでビールを酌み交わした、あの顔ではなかった。


「ウミガメが、あそこから這い出て来る姿を、記事に起こして欲しいんです」
「ウミガメですか......。この時期は結構見られるモノなんでしょうね」
「あなたが、どれくらいの運を使うかですな」
生まれてこの方、ウミガメの産卵シーンなど、テレビの中でしか見た事はなかった。
K観光販売と古くから繋がりがあるという民宿にて、いつ姿を見せるかも分からないウミガメに想いを馳せながら、ただ海を眺めていた。
四国特有の暑さは私の想像を超えるもので、窓の向こうにうねるどす黒い波が砂浜を湿らせたと思えば、たちまち熱気によって蒸発してしまう水分。

 薄暗い廊下の先に、実物大のウミガメの模型が置かれていた。案内版には、産卵期に見せる特徴や、実際に浜に上がって来た姿を捉えた写真が貼られている。
「今夜、もし産卵となりましたら、お声掛け致しますからね」
背後から宿の主人の声が......しかし、その頼りない声を聴くに、もしの可能性は限りなく低そうである。
「ウミガメは、産卵時に涙を流すそうですね」
「そりゃ、子供産む時に涙くらいは流すでしょう。奥様はそうでもなかったですかな?」
「いや、私は独り身なので––」
実際に、子が産まれる瞬間というのは、誰しもが涙を流すのだろうか。少なくとも、幼い頃に飼っていたヤモリは涙を流してはいなかった。

 たった一人で浸かる大浴場は、何故だか心細いものがある。奴からの連絡はなかったし、私は今一度、我々の手で興したビジネスについて深く考える必要があった。
才能も実績もない二人が、何をもってこの小さな会社を押し進めてきたのか。私にとっては、ビジネスは出来の悪い子供のような物だった。なかなか思うようにいかない。努力した分だけその見返りがあった。それが、最近はどうだ––

 蒸し暑い部屋で、一人炭酸を飲んでいる時、ふすまが音もなく開いたかと思えば、主人がそこに立っていた。
「今夜は、お見えにならんようで」
「随分と仰々しい言い方をするんですね。たかがウミガメでしょう?」
「この宿にいる連中は、そのウミガメに食わして貰ってますからね」

彼はそう言って、また音を立てずにふすまを閉めたと思えば、歪な足音を残し去っていった 。

今夜は、お見えにならんようで。

何度か反芻していると、今まさに大きな音で鳴っている携帯に気が付かなかった私である。
掛け直すと、向こうから奴の声が聞こえた。
「遅くに悪いな......。今、産まれた。元気な男の子だと、病院の連中も嫁を褒めてたな」
「おめでとう。そのまま側にいてあげろよ」
「あの、徳島の仕事はどんな具合?」
「気にしなくていい。しょっぱい仕事だから」
「......落ち着いたら、また連絡をする」
「もうこの仕事を続ける気はないんだろ?」
「ああ、そうだな」

沈黙、とはならなかった。ウミガメも、子を産んだ彼の嫁も、そして父となった彼自身も、中途半端な生き方はもう出来ないらしい。
「最後に聞きたい事があるんだけど良いかな」
「退職金でも出してくれるのかい」
「君の嫁は、子供を産む時に涙を流したか?」
「......見てる余裕なんてないさ。男には」

 世間話もろくにせずに、我々の会話は終わった。それと同時に、小さな会社の規模は更に縮小してしまった気がした。でも良いんだ。それこそ、生きとし生ける者にとっては、文字通り小さな事なのだ。
窓から、満月に照らされた浜辺をゆっくり移動する、一匹のウミガメの姿が見えた。
横に旦那はついていないらしい。だが、そんな静かに泣くウミガメを遠くから眺めていると、彼女を仕事の材料にしてしまうのをためらってしまう自分がいた。少なくとも、それで飯を食うのは、違うような気がしたのだ。
原点回帰。自らの誇れる仕事をする事......。

 鞄からノートパソコンを取り出した私は、原稿に「ウミガメの姿、ついぞ見る事なく」と打ち込んで、その後は彼女が涙する姿を、遠い民宿の窓越しにただ見つめるだけだった。

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