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大背徳時代

 兄の義之とは、長らく疎遠であった。彼が兼ねてより心の拠り所としていた相馬先生の娘、雪子との交際を終えた後、私がその可憐な少女をもてあそぶが如くの扱いをしたことも、原因の一つだと思う。
 決して名前負けをしていないあの色白の肌、声を噛み殺していながら、時折耳に触れる生暖かい吐息、振動に合わせて感じる背中に立てられた爪の痛み......男の独占欲とはいつの世も争いの源となり得るが、それを以てでしか彼女の身体や心が満たされぬことを知っていた私にしてみれば、兄と雪子の狭間に立たされた複雑な心境を表情に出すのはやはり躊躇われた。

 地元にて道場を開いた相馬先生は、身寄りのない子、裕福な家庭に生まれた子を選り好みせずに引き取った。休日に散歩がてら朽ちた道場の脇を歩けば、寝泊りする悪童たちの甲高い声が聴こえたものだが、それでも自らの息子を預けようとする親が絶えなかったのは、相馬氏の人徳が為せる技であった。

 兄と私がまだ十歳にもならない頃、一人の男勝りな少女が道場へと捨てられた。門下生十五人のうち、初めてその敷居を跨いだ女である。最初の数日間は他の寝泊り組と同様、朝早くからの稽古と夜遅くまでの遊びをこなしていた彼女であったが、一ヶ月もしない内にその姿を見なくなった。
「先生ェ、あの娘はもう抜けてもうたんか?」兄は頻りにそんなことを聞いて、キョロキョロと辺りを見渡しては稽古にも身が入らない様子である。しかし、相馬氏からの明瞭な返事はなし、唯一身近に感じることが出来た娘が消えてしまったのは、私にとっても残念に思えた。

 あくる日、道場の庭先で小綺麗な格好をして土遊びをしている少女を見つけた。一目では気がつかなかったが、特徴的な三白眼から、例の娘であることが分かった。
「あれ、お前そないな格好して、どこぞの家にでも拾ってもろうたんか?」
私がそう話しかければ、
「うん......。ウチ、相馬先生の子になったん」
顔を下にしてそう答えるのである。

「ほんまか、でもなんでまた先生はそんな気になったんやろうなぁ。しかし、例え土遊びをしていても服が良ければ、娘は変わるもんやの」

「......あたし、なんか変わった?」

以前の汚れた服では認識出来なかった発育の良い身体、土に映える雪のような肌は小綺麗な服によく合っていて、そんな頬を紅く染める彼女の感情が、私の心を少し傾けたようであった。
 後にその名を知ることとなる雪子は、私よりも三つ年上とのことだった。兄から見ても一つ上である。相馬氏が何故、この娘を引き取ったのかは、結局語られず終いであったが、五十をこえてなお子宝に恵まれない彼の家系を考えれば、その答えは考えるまでもなかった。


 私が中学へ通うようになった後、二人寄り添って歩く兄と雪子の姿を幾度となく見かけた。微笑みかける男とそれに応える娘、繋いだ手は柔らかな十代の春を思わせた。時折、兄は彼女を自宅へ連れてきた。気を利かせて玄関から外へ出る私に、雪子の眼差しが追ってきたのを、よく覚えている。二時間ほど近くの図書館で暇をつぶし、帰った頃には既に事は終えているようだった。仲良くソファーに座る二人であるが、部屋に転がった靴下やあからさまな熱気を感じれば、その行為は手に取るように分かる。
「なぁ、相馬先生はこのこと、知っとるん?」
そう呟けば、二人は黙ってこちらの方を見た。そんな冷めた表情を以て、その関係性は行き過ぎるということはなかった。私の発言はいつでも、二人の若者が持つ欲の抑制となっていた。

 いつもと同じようにして、中学から自宅へ帰ってきた私は、玄関に立つ雪子の姿を認めた。兄はまだ家に帰っておらず、彼女はまちぼうけを食らったようである。

「兄さんなら、まだ帰ってこんよ。部活が終わって......そうなぁ、あと三時間ばかりかかる」

「あら、今日は遊ぶ約束をしてたのに。家で待たせて貰ってもいい?」

玄関にて靴を脱ぐ彼女から、仄かな香水の匂いがした。甘くも品の良い香りが、私の鼻元を軽くくすぐった。

「良い匂いなんかさせて......道場に通ってた頃は、じゃじゃ馬としか思わんかったがなぁ」

「あたしな、義之君には感謝しとるのよ。男を教えてくれたのも、女を教えてくれたのも彼。でも、まだまだ知りたいことがあるの」

「ふうん、なにを知りたい?」

そう言ったところで、ふいに雪子は私の頬に手をやった。歳下の男をいたぶる、強い女の瞳であった。あぁ、兄はいつもこんな眼差しに心を揺さぶられていたのだな。そんな思考が浮かんでは、徐々に身体へと降りてくる彼女の指先が頭の中を掻き乱してきた。
──背徳感。
感ずるままに湧き出たそれは、心拍数に伴って強い熱を上げる。雪子の首筋より漂う女の匂いが、私の顔を、腕を、指先を操るかのように動かして......。気がつけば、我々の触れ合いはやけに濃くなっていた。まとまることなき思考の影、そんな闇が私と彼女の行為を覆っていた。廊下に手をつく雪子の表情、はだけたシャツから滑らかな右肩を出して、そんな身体の凹凸に指を掛けた私の身体が、言うことを聞くはずもなかった。

「ねぇ、お兄さんの彼女って、どう思う?」

「......どうも思わん。今日で終いや」

「あたしは、抜け出せんと思う。何か強い力で惹かれ合ってるんよ。義之君のことは好きやけど、だからこそ貴方を求めてしまうの」

「もう止そう。これ以上、後ろめたい気分になりたないわ」

「それでも、あたし......抜け出せんと思う」

雪子は、自ら出した言葉に酔いしれ、更にその溶けた瞳をこちらに向けるのであった。
 我々のこうした行為は、すぐに兄の知るところとなる。私が彼らの情事を勘づいた容易さを思えば、それも当然のことだった。彼はすぐに彼女との付き合いを止め、高校を出た後に就職予定であった地元企業の内定を蹴り、名も聞いたことのない遠くの街へと出ていった。


 背徳感をもたらす要素を失った二人の関係はあっけなく終わりを迎えた。彼女の思考や性癖についての手紙を兄に出した後、彼から返ってきたのは私に対する批判的な文面であった。
「兄の女をもてあそんだ挙句、更に彼女の悪口を書き並べる性根。お前が社会の癌とならないことをただ祈っている」

だが、雪子にて味わうこととなった歪んだ肉欲というのは未だ私の身体を蝕んでいて、それはどんなに美しい娘を抱くに勝る。甘美な蜜に群がる昆虫のごとく、この汚れた心を欲情させるのだ。そんな人の尊厳の狭間に存在した背徳感は、いつも言い知れぬ香りを漂わせている。

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