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さらば、名も無き群青たち(6)

 通りを歩く人々は、次第にその身から厚い上着を剥がしていくものの、未だ冷気を感じる盆地に残った空気、新年明けて早二ヶ月が経過したにも関わらず、年始の余韻からなかなか抜け出せぬ街並み。そんな要素が僕の腰を重くさせるのは当然の事だった。

 生駒山から煙のように巻き上がる花粉は目と鼻を執拗に刺激する。マスクをして頻繁に目薬を差すこの姿を見た斉藤君が「なんか俺まで目が痒くなってくるなァ」と文句を言うのも、確かに肯ける話である。
 また、冬を越したせいもあってか、バイト先の蕎麦屋に入ってくる注文というのもめっきり落ち込んでしまい、再び週に二回という理想のシフト形態を取り戻した。しかし、配達はおろか来店する客もまばらである為、厨房に立って洗い物をしながら女将さんの世間話に付き合うというのが僕の業務内容の大半を占めていた。
そんな、なんとも輪郭の見えない春の日和。


 大学までの移動中、電車内にて悪寒をおぼえた僕は、途中の駅から引き返して、大和西大寺よりバスに乗った。平日の昼、揺れる車内には僕以外の乗客はおらず、運転手のアナウンスもどこか気の抜けた声。それを以て、力が入らぬ自らの身体は、更にくたびれていく様だった。
 下宿先にて、念の為にと体温計を手に取る。
三十八度六分––。
その表示を見るだけで、視覚から呼び覚まされた頭痛、筋の痛み、骨の軋み、将来への不安などが一気に姿を現し、僕は一人で呻きながら布団に包まるしか術がなかったのである。明日のシフト予定だったバイト先への電話を手短に済ませ、「ゆっくりしなあかんよ」と大袈裟な口調で心配を伝える女将さんに、軽い感謝の気持ちを抱きながら、僕は静かに目を閉じた。

「おかしいと思わへんか?俺が悪いんか?」
時計を見れば、午後八時をまわったところ。開いた窓から、夜の冷めた風が入り込んできた。
 電話口の向こうからは騒々しい叫び声や、ジョッキを机に叩きつける音。大衆居酒屋の角で斉藤君が寄越した連絡というのは、発熱した身体で受け止めるには少し難しいものだった。

「毎回笑顔で飯食べてるのに、感謝してくれる事がなくなった、美味しいよって言ってくれなくなったと言われても、どうしたらええねん」

「美味しいって、言ったら?」

「そんな毎回な、コメントなんて出てこないねんて。こんな奴と同棲してみ?毎晩、料理について感想言わなあかんのちゃうか?」

「......」

「さっきからカナに連絡も付かへんし。俺が悪いんかなァ、これ?」

そんな言葉を並べる奴だが、週に数回自宅に彼女が来ては、手料理を作ってくれているという事を、ただ自慢したいだけなのではないか。
 居酒屋の喧騒に負けじと、大声を発する彼の悲痛な感情は、高熱に参った僕の聴覚に当てられていた。ついには辛抱出来なくなって、「ちょっと今日調子が悪いから、また今度な」と呟くこちらに対し、彼は飲み物や熱冷ましシートを持って来るのだという。それは確かにありがたいが、決して土産話は持って来てくれるな。首筋を流れる汗をタオルで拭きながら、僕はそんな事を考えていた。


 ターミナル駅のホーム、端から端までが見渡せない程の薄暗さの中に立っていた。列車は一台も止まってはおらず、ただ一人残された沈黙が生み出す静寂。恐る恐るに歩きだせば、その足音が不気味に構内を駆け回る。
 幼い頃に幾度となく見た夢、それがこんな時に蘇って来るのは、何かの啓示なのだろうか。或いは、ただ熱が呼び覚ました幼少期の記憶に過ぎないのかもしれない。手探りになって進む僕は、孤独、先の見えぬ無機質な空間に怯えている。客観的な視線を持ちながらも、確かに僕は恐怖している。怯えている。外と内の自らの感情を併せ持っている。
 ホームの先から、仄かな灯が見えたと思えば遠くから鳴る汽笛の音が耳を刺激し、盛大に煙を吐きながら近づいてくる蒸気機関車が一台。どこから来たかは分からない、またどこへ行くのかも不明である。幼い頃の僕はこの夢を見る度に、異質な物への恐怖を拭う事が出来ず、ただそれを横で眺めるだけであった。

「でも、そろそろ考えなあかんのやろなぁ」
冬の興福寺、五重塔を見上げながら、彼が神妙な面持ちで呟いた言葉。

「探そうよ。私たちが何で生きているのか」
無邪気な笑み、頬に紅潮を浮かべながら、その小さな手に握った雪玉を放る為、大きく大きく振り被る彼女。雪の積もる平城宮跡だった。

そして今、幼い頃の様に明瞭としない『何か』に怯えながら身体を硬直させている僕は......。


 インターフォンの音で、その夢は後味が良くないままに醒めてしまった。時計を確認する余裕もなく、だるい身体を起こしてみれば、汗で湿る寝間着の感覚が妙に心地良い。
斉藤君には悪いが、すぐにお引き取り願おう。
そんな考えでドアを開いたその先には、いつもの様に腕組みをして立つ女の姿。
「しんどそうね」
困惑した僕は口を開く事が出来ず、ただ間抜けな面で彼女を見るしかなかった。

「母さんから風邪の話を聞いたから、前のフルーツの御礼を持って来ただけよ」

「......あ、そう。ありがとう」

こちらが言い終える間もなく部屋に上がって来た彼女は、手に持ったビニール袋を床に置くと
「相変わらず殺風景な部屋。寂しくない?」などと一人で––つまり、こちらの返答を求めていない様な口振りで––言ってみては、本棚に打たれた釘の群れを奇妙な面持ちで見ていた。
 もうすぐここへ来るはずの斉藤君に、明日にしてくれと電話をかけた僕は、頭痛に抗いながらも、状況の整理をする。しかし、整理しなければならないモノが見つからないのだ。

「斉藤君、来てくれる予定だったの?」

「まぁね。でも、今断ったから」

「......なんで?」

「......なんでだろう」

「なにかやましい事でもあるの?」

確かに、僕は何の思考もなしに斉藤君の好意を裏切っていた事になる。ただ、感覚的に彼女が作る静かな空間の中に、喧しい彼の雰囲気は合わないのではないかと悟ったのかもしれない。

「やましい事?ないよそんなの」

「ふうん、そっか」

「......」

「ねぇ」

一息置いて、彼女はゆっくりと僕の側へと寄って来た。瞳は深く濁っていて、首筋辺りに感じる彼女の小さな呼吸は少しこそばゆく、高熱の中に見るその頬は、やはりあの時のように赤く染まっている。

「ねぇ、散っちゃうよ?のんびりしてると」

「......散る?」

「桜、一緒に見にいこうよ」

自然と出た、ありのままの言葉。触れてしまうほど近くで見えるその表情は、そんな彼女の本心を垣間見せた気がした。
仰反る様な姿勢で座っていた僕は、この汗、激しい鼓動を悟られない様、なおも口を噤んで、彼女の瞳の奥にある群青を眺めている。

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