プール・サイド・ストーリー 2
その日、久しぶりに雨が降った。山の手から遠く見える夕焼けは、そんなことなど素知らぬ態度で、ただ積乱雲の成れの果てを茜色に染めているのだった。馴染みのプールからの帰り、タイミング良くバスに乗り込んだ僕は、冷えた身体をどうする訳でもなく、ただ呆然と窓傍の席に座っていた。
バスが停車のために速度を落とす際、わずかに開いた窓から、大粒の雨が車内に入り込んできて僕の肩を濡らした。ただ、濡らしていた。
「今日、プールを覗いて来たよ。君が言う通りもう店じまいの雰囲気だった。数日の間にも、水を抜いてしまうということだった。管理人のオヤジは、ロッカールームの掃除で眩暈を起こしたが、僕は敢えてそれを手伝わなかった」
自宅の風呂に湯船を溜めているとき、葛西君に今日の出来事を連絡すべきだと考えた僕は、メールに様々な視点で文字を打ち込んでみた。
僕の視点──暇な僕が馴染みのプールを訪れるという、まさしく暇人による記録であった。
管理人の視点──ただ掃除中に常連客が来たという迷惑千万な出来事、疲労疲弊の一日だ。
他には、どのような視点が挙げられるのか。たとえば、プールに浮かんだ枯葉のもの。それこそ、もうじき水を抜かれるプールの視点などはどうだろう。……どうでも良いな。
結局、僕は打ち込んだ文字を下書きにもせずすべて消去して、熱過ぎる湯船へと身体を沈ませたのだった。確かに、夏は過ぎ去っていた。夏の視点が表せないほどに、過ぎ去っていた。
遠い記憶となりつつある学生時代。葛西君と僕は、地方から上京したこともあって、互いに話し相手すらいない状態だった。いや、我々と似た境遇の者など掃いて捨てるほどいる現代において、それは言い訳にもならないか。
サークル活動、アルバイト、どこに所属していても我々は中心メンバーになれず、いわゆる脇役としての振る舞いをせざるを得なかった。悲しいほどに、僕等は主役ならざる者だった。
ある夏、プール清掃のアルバイトをきっかけとして、我々は互いの似た部分を認識することとなった。或いは、互いに「こいつよりかは、マシな人生を送っている」とでも考えていたのかもしれない。当時の管理人は、まだ三十代で体力もあり、プール清掃が終わったバイトたちに瓶ビールを振る舞って深酒をしたり、酔った状態で着衣水泳をするなど、あまり褒められた大人ではなかったが、それでも立派にプールの運営を任されていると考えれば一端の人間には違いないのだろう。
「故郷に帰りたいと思ったことはある?」
騒ぐ管理人を眺めながら、葛西が僕に問う。
「一度じゃない。とくに、騒がしい夜にはね」
「俺もそうだ。……つまり、九州の静かな街に戻りたいと、いまでも思っている」
「なにか、帰省する機会があるのか?」
「いや、ないよ。そんなものは後にも先にも、あるはずがない。上京するとき、周りに大口を叩き過ぎてしまったからなぁ」
葛西はそう言ってから、瓶ビールの王冠を手に取り、そのヒダを声に出して数え始めた。
「もしこのヒダの数が偶数だったら、俺は大学を辞めて九州に帰るよ。いまの時代、大学など出てなくとも、就職には困らんと言うしな」
──結論から言えば、彼は大学を卒業した。留年もせずに、危なげない大学生活を送った。しかし、王冠のヒダは本当に奇数であったか、いまとなっては確かめるすべもないことだ。
彼は、まもなく一周分のヒダを数え終わるというところで、声に出すのをやめてしまった。「残念、奇数だ」とだけ呟き、王冠はプールの底へと、彼の剛腕によって沈んでいった。
「残念、残念だった」
素直に笑った僕は、いまにも吹き出しそうな彼の表情に、確かな夏の視点を見出していた。
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