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第七龍泉丸の素晴らしき航海

 その日、船内にて舵取りを任された三嶋某。彼が船舶免許を持ち合わせない、未熟船乗りだという事は皆が知るところであったものの、荒れゆく大波の中を物の見事に揺れ動かせてみせた若き船乗りに、批判的な声を上げる者は一人としていなかった。

 和歌山湾より東回り、三嶋にとっては初めての遠方航海となった。幼少期より学問の端から端までを忌み嫌っていた青年にとって、天職だろうと始める前から考えていた船乗りという仕事であったが、波を読む鍛錬、天気の見通し、そして舵を取るというその一つにあっても、底知れぬ知識や備え得る者にのみ与えられた天賦の才......多くの船乗りは、それらを「勘」という僅か一文字に任せつつ、しかしながら自らの多くは語らない傷まみれの背中にそんな絶対的な力を秘めているかの如く、寡黙に白々しい空と喧しい波を眺めるのだが、三嶋青年の若き自尊心に傷ばかり付けるこの不思議な力には、やはり学問の端から端に至るまでを習得しなければならないと見え、いわば練習生とも言える彼の期待は大いに外れたのであった。 
 しかし、その絶対的な力を備えた船長の狭き眼には、何かにつけて慎重の姿勢を貫いた三嶋の働きぶりがやけに珍しくも感じ、第七龍泉丸が太平洋沖に身を乗り出した頃、ニスの塗りたくられた舵を彼に任せたのである。


『遭難者について──。昨月未明、和歌山港を出た第七龍泉丸に関し、和歌山漁業組合からの通信に応答途絶えたるものとして、以下の五名を捜索するものとする。
Y崎 敏夫
K藤 義道
S伯 郁雄
O形 壮吾
三嶋 誠次
──和歌山漁業組合 一九七三年』


 荒波がついに彼等の強き信念を打ち砕いた時三嶋青年は、初めての死を目前に感じていた。いや、死とは我々の延長線上で常に待ち構えていながら、嫌らしくもその姿形を巧みに変化させていたのだろう。実際、彼が死を思った事は一度や二度ではない。だが、それでもなお目前に現れた死に馴染みを覚えなかったのは、まだ彼が若かったからに違いない。慌てふためく体格の良い男達を横目に、半ば諦めかけた生の実感を噛み締め、やがて感情を麻痺させた青年の得る事なき才というものが、皮肉にも遥か彼方、微かに見える灯台の淡き光を、彼にのみ届かせたのであった......。

 冷たい感覚が頬を襲った。海ではなかった。それよりもずっと無機質で、情緒たるを知らぬ恐ろしき感覚。やっと目を開いた三嶋青年は、横に寝そべる仲間たちの無残な姿を見て、死を許容する自らの弱き信念を呪った。カモメの鳴き声はない。波の騒がしさもない。そればかりか、潮の香りさえ一向に寄ってはこない。腕に力を入れて立ち上がってみれば、その一瞬の間に眩暈が彼を襲った。
「ちくしょう......。俺は船上の皆を死に追いやったばかりか、自分の死さえ望むような弱き心に蝕まれているようだ」
 頭痛を堪えながら、身体中を見渡した彼は、四肢に至るまで特に致命的な傷を負っていない事を密かに認めた。胸中に存在する罪悪感が、彼を安堵させるのを躊躇わせたのだった。
「しかし、一体ここは何処だというのだ。難破したにも関わらず、海の近くでも、また見知った建造物もない。足下に広がるのは、隙間なく敷き詰められた灰色の石畳だけだ......。仲間は皆天に召されておきながら、俺だけ責任を取るべく、混沌の世界に招かれたのだろうか」
 不安定な足取りで、行先も分からぬままに、延々と続く石畳の上を青年は歩き出した。重く踏み出す一歩、一歩毎に、背後で横たわる仲間の無念というものが身体の芯を揺るがしたのである。周囲には、土、草木、彼が毎日の様に見た世の理はなかなか存在せず、代わりにあるのは、奇妙なほどに晴れ渡った青空と無機質な石畳だけだった。雲もない。風もない。暑さも、僅かな寒さもない。我々が四季に委ねたる優美な儚さも一切ない。ただただ地平線まで敷かれた、四方何十キロに及ぶ石畳が彼を手招きしているのだった。

 三時間は動いただろうか。いや、一時間ほどかも知れぬ。かと思えば、実は三十分足らずの道程にも感じて、その内心、自分は五分やそこらで根を上げてしまったのではないか、と恐怖してしまう青年が、情けなくも地面に座り込んでいた。風を望んではいたが全くの無風。我関せずの世界は、生の源でありながらにして死神にも似た大海原を以って、ただただその非情な性格を彼に与え続けているのであった。
 耳を澄ませば、付近に幼い子供達の声が聴こえてきた。まぁ、こんな不気味な世界にあって住民がまともな筈があるまい。それでも青年は大きな声を上げて、唯一の希望に淡い期待を寄せた。
「こちらへ来て! どうか助けてくれ。こちらへ来てくれ! 俺は日本人だ!」
 遠くから、馴染みある四肢の生えた人間たちが、こちらを眺めていた。しばらくして、彼等はゆっくりと青年の近くへと寄り、そして驚く事に彼に馴染み深い言葉で──優しく喋りかけたのであった。
「へぇ、兄弟。運が良いや。世間に流されに流され、あんたユートピアに辿り着いたんだ」
 子供たちは、まだ語る。
「兄弟! あんた、実に運が良い。外の世界から救いを求めてやって来たんだろう? 排他的な世に嫌気が差して、このユートピアまでをやって来たんだろう」
 彼等は肩に灰色の塊を乗せながら、なおも軽口を叩くと見えた。青年は、その正気の沙汰ではない言葉、行為に、深い疑心感を抱かせた。
「お前ら、何を担いどる。ユートピアとはなんの事だ......。いや、ユートピアの意味くらいは知っとる。しかし、この見渡す限り石畳の世界の何処が理想郷なんだ──」
「いやぁ、兄弟。この国には優劣も、順位も、自信も個性も尊厳も、何も必要としないのさ。皆が平等に石畳を置いて、ただ世界の幅を広げる事で生の充実を得る国。ほら、感傷的になどなるものか。澄み切った青空、晴れ晴れとした僕たちの笑顔を見てごらんよ!」
 灰色の石畳を軽々と持ち直した少年たちは、三嶋に一抹の不安も見せず、彼方への......未だ石畳が敷かれていないだろう、遥か彼方への旅を続けるのであった。

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