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プール・サイド・ストーリー 3

 起きがけの明瞭としない意識。乾燥した空気で喉が痛むために、少し小窓を開けようかとも思った。しかし、とある匂いがふと鼻をついたものだから、僕はそれをやめて、ふたたび布団のなかへと迷い込むことを決めたのだった。
 ──この部屋いっぱいに金木犀が薫る初秋、深々とした山系の落葉樹は、紅葉に至るまでの準備を終わらせてしまったに違いない。昔からこの空気感が嫌いであった僕は、さらに部屋中を侵すであろう秋の気配を恐れて、窓を開けることが出来ないでいた。ただそれさえも、だ。

 
 九月の下旬、ニュース番組は彼岸明けに関連する報道を扱っていた。さすがの僕でも、秋に適応する必要があった。周囲の環境は、やはり数百年、数千年前から続く変遷のなかで、その器用な態度を身につけたのだろうが、たかだか三十年の僕の生、そんな上手く生きられるはずもなく、ただ狼狽えていた。困惑していた。
 街がやけに静かだと思った。彼岸明けが関係するとは思わなかったが、もし仮に人がすべて死滅してしまったとして、街は果たしてどんな変貌を見せるのか、ただ気になってしまった。
 バスに乗って、馴染みのプールへと向かう。数日前に水を抜いてしまっているはずだが、運がよければ葛西君に、管理人のオヤジに会えるのではないかと、そんな希望が僕を動かした。
 相変わらず、街には誰もいなかった。バスは自動運転を完全なものとし、僕が関与するものを除いて、道路にはなに者も存在しなかった。歩く者、走る者、喋る者、聞く者、そのような一切の脇役は、僕の視界に、脳裏に、この街に存在することが許されなかった。
 プールの正面玄関──重たいガラス戸で、誰かが戸を引いた際、ギギギという耳障りな音が施設中に響く──を抜けて、談話室へと出る。窓から見るプールは既に水が引けており、底に積もった落葉は、管理人が汗を垂らして懸命に清掃した後、皮肉にもそんな行為を嘲笑うかのような、移りゆく季節の哀愁を感じるのだ。
 おぉい! 誰もいないのか。
 僕が放つ声、反響もわずかにして一帯はすぐ静寂に包まれてしまう。やけに薄暗い、そしてカビ臭い。自らの足音が、まったく聴こえないというところに違和感がある。何かおかしい。
 ……何時間が経ったのだろう。プールサイドに座って物思いに耽るうちに、僕は、この世界にて唯一残された人間であることを、悟った。すると、その思考が正しいと言わんばかりに、太陽の日差しは急激な気温上昇をもたらした。プールを囲むように立つ椰子の木から、蝉たちの苛烈な糾弾が始まった。首筋から流れる汗を拭くのも忘れて、僕は何故だか水を溜めなければならない、という強い考えに苛まれた。
 戻ってきたのだ、僕が主役となり得る夏が!
 見当たらない蛇口を探し、走り回っていた。映像は、自らが走り回っている姿を映し出していた。転けそうになった。立ち止まりそうにもなった。滑稽だった。酷く滑稽な生であった。カメラはフェードアウトを始める。どんどん、僕の姿が遠くなってゆく。
 待ってくれ、待ってくれ、夏よ、あと少しでいい。待ってくれ、置いていかないでくれ。住宅街、都心、関東圏、我らが島国、母なる海と宇宙──置いていかないでくれ、僕はいまだ夏の揺らめく陽炎に囚われているというのに。


 「夢というのは、お前の精神状態を表す」
 モップで身体を支える器用な管理人は、溜息をついた後にそう言った。美しくもない、ただの呼吸であった。僕は上着の袖を伸ばしながら頷きもせず、彼の話を聞いていた。深まる秋の紅葉が我々を包み込んでいた。夏の背中など、見えるはずがなかった。見える訳もなかった。
「先日、珍しく葛西が顔を出したよ。かわいい彼女をエスコートしていた。プールの水を抜く光景、そんなものに飽きもせず、二人でじっと俺の作業を見ていた。微笑ましいのなんの」
 羨ましそうに、管理人は語る。
 「そうか、葛西は上手くやったんだ」
 僕は言った。そして、笑った。揺れる肩に、わずかな感触を認めた僕は、恐らくそれが付近の落葉樹から降り頻る落葉であることを理解しつつも、敢えて手で払うことはしなかった。
 埋もれてしまおう。このまま秋に、埋もれてしまえばいい。──そして、僕は秋の主役に、自らの生を四季に順応させることで、より夏を愛すことが出来る自分に。
 「……王冠だ! その落葉のなかに、王冠が見える。ヒダを数えなくては。偶数か奇数か」
 飛び上がり、叫んだ僕を、管理人は心のない面持ちでただ見ていた。それは次第に悲哀なる視線へと変わっていったが、僕は気にすることなく夏を叫んでいた。秋の肌寒い空気のなかで自らの夏を叫んでいた。まるで、蝉のように。

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