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秘めたる才能を開花させよ!

跳ばない僕は、ただの優等生だ。
──シベリアより愛をこめて

 凡人に天才の思考は理解出来ないと、昔から話ではよく聞くものの、実際に納得がいく形でそれを実感したのは、後にも先にもこれくらいだろうと思う。
 大学で知り合った葛西君、暇さえあれば図書館で小難しい文献を漁り、カフェブースの端に座って、なかなか減らないコーヒーを相手に首を傾げたり頷いたり。奇妙な奴だとさえ思う。彼が何の講義を取っていたのか、関係が希薄となった今では分からないものの、我々は図書館という共通の空間をもって互いの存在を認識していたのだ。

 十九歳の秋だった。挨拶くらいしか口を聞いた事のない私に、彼は分厚い本を脇に挟みながら、どこか冴えない面持ちで近寄ってきた。
「来月には僕、二十歳になるわ」
「うん」
「でもな、僕は自分の事がまだ分からんねん」
「ううむ」
「何かしら、隠れた能力がある気がするんや。ちょっと協力して欲しい」
「うん」

 果たして私が、葛西の言葉にどのような返答をしたのかは思い出せない。ただ、適当に相槌を打っていただけの気もするし、快く彼を受け入れた気もする。しかしながら、彼の言う意味はよく分かってはいなかった。
 数日後、図書館の本棚で目当ての雑誌を探していた私に、前日とは打って変わった表情の彼が話しかけてきた。中庭のベンチに座ると、脇に挟んだ薄い学習ノートを膝に広げて、嬉しそうな声で読み上げる男。それは、自らの能力についての自己分析表だった。

【秘めたる才能を開花させよ】
一、凡庸な能力を受け入れること
二、あらゆる可能性を追求する時間はない
三、決め打ちにて試すのが肝要

・視力と視覚
視力は悪く、眼鏡なしでは文献も読めない。又色弱の傾向があり、動体視力はなお良くない。

・聴力と聴覚
並である。が、三半規管は弱い。バスに揺られながら文字を見ると、胃液が上がってくる。

・味覚
不明、恐らく並である。色々な食材を買って、味覚を試そうにも金がない。レタスとキャベツの違いは分かる。恐らく並程度である。

・嗅覚
不明、恐らく並である。腐った食材であれば、匂いを嗅いで判別する事が出来る。

・触覚
特定の場所に限れば、酷く敏感である。

・内臓
とても健康である。タバコや酒を嗜まず、生活のリズムは安定している。しかし、食が細いために大食いには向かない。

・運動
並である。が、体幹には優れない。跳躍のみ、十代後半の平均値を超えている。ほんのわずかではあるものの、優秀である。

 蛇のような文字を声に出して読み上げた葛西君は、最後の項目を何度も繰り返した。
「跳躍のみ平均値を超えている。優秀だ......。と、ある」
「それで?」
「これから毎日、垂直跳びの練習をしようと思うんや。一人で結果を記録するのは手間やから協力してくれんかなァ」
 恥ずかしそうに頭を掻く彼。その隠れた能力や二十歳を前にした葛藤などに、微塵も共感を得ない私だったが、一人の男が本気で努力をした後に、どれほどの跳躍を見せてくれるのか。精神に、どれほどの成長を見せてくれるのか。彼の素質を見極めようとした訳ではないのだが少し気になってしまった。

 サークル仲間が奈良に出て紅葉を楽しむ中、私は大学のグラウンドにてひたすらにジャンプする葛西君の姿を眺めていた。彼は、跳躍力を増すために基礎体力を付けたり、脚まわりを鍛えたりという事を一切しなかった。ただ、疲労に顔を歪ませながら、ぴょんぴょんと跳んではふくらはぎを揉んで感触をたしかめていた。
 一度の跳躍で、葛西君の腕は脚以上に動く。脚を浮かそうとする心理によるものだろうか、必要以上に両腕を振り回し、勢いをつけるために躍起になっている。そんな事だから、わずか十分ほどで彼の身体は汗に塗れ、数日前に下ろした上下のジャージは舞い上がる砂ですす汚れていた。さらに、グラウンドで真面目に練習をする陸上部の連中は皆怪訝な目でこちらを見て「演劇か何かの練習ですか?」
 と、声をかけてくる。

 一週間が過ぎた。彼の垂直跳びを計測した私は、その結果に驚愕した。当初、たしかに十代後半の平均以上を叩き出した葛西君は、筋肉痛や腕の疲労、数日前に参加したバーベキューで焼肉を頬張り過ぎた挙句、目標値を遥かに下回る跳躍を見せたのだった。
 記録を伝える私に、彼は気丈な態度を保つ。「なるほど、たしかに悪い記録かもしれんな。でも、一週間で結果が出るとは僕も思わんよ。そこまで甘い世界とは違うよ」
 謎の世界観を享受した男は、その後も諦める事なく、懲りる事なく、跳ね続ける。空に向かって大きく腕を振り回し、口を歪ませながら、ぴょんぴょんと跳び続ける。それは、どの様な文献で読む運動方法より効率の悪いものに見えたが、彼はたしかに自らの手によって、自らの未来を掴もうとしていた。

 秋もふけ、肌寒い空気が溢れてきた頃、葛西君が定める二十歳の壁が迫りつつあった。努力の集大成として、その壁を飛び越える力を示す時が来た事を、彼は心から喜んだ。
 私の提案により、垂直跳びの測定は陸上部の連中に任せる手筈となった。何かにつけて興味が湧かなかった私よりも、少なからず競技知識を持った連中に任せたかったのだ。
 冷気が触れる十一月の午後、葛西君は手足を軽く振って身体をほぐしていた。額を流れる一筋の汗、どれだけ目を閉じても落ち着きを見せない彼の身体は、その日のためだけに稼働してきた揺るぎない信念を、私に思わせた。
「身体は暖まったな」
 こちらに一瞥もくれず、ただ頷く男。息は上がっていたが、瞳は強い輝きを放つ。ゆっくり歩いてグラウンドの中心に向かいながら、男は今までの十九年に及ぶ自らの人生に、何かしらの意味を与えようとしている。脇に座って楽器を鳴らす軽音サークルの連中、喫煙所でタバコを吹かしながら笑う者たち。そして、ただ跳躍をする事に取り憑かれた彼に、いまだ興味など示せない私......。
「葛西、やってやれ!」
 ──思わず声が出た。歩く男は、空に向かい高々と右腕を伸ばした。

 強い風が吹いていた。先日の雨でグラウンドの状態が芳しくなかった。朝に乗車したバスで軽い酔いを覚えた。昨晩の夕食で調子に乗ってしまった......。理由は無数に考えられるものの彼が大きく腕を振った跳躍は、目標値を大きく下回る結果となった。跳び終えた葛西君の表情は、見た事がないほどに澄み切っており、後悔など微塵も感じさせないその姿は、十代の壁を跳び越えた二十歳の世界感を振り撒いていた。
「葛西、結果がすべてではない。この一ヶ月でお前が頑張った努力というものは、必ず今後に活きてくると思うよ」
 座り込む男に、私は年甲斐もなく駆け寄る。
「うん」
 葛西はそう言って、右腕をぐるんと回した。
 以降、何かに醒めてしまった私は、葛西君に声をかける事はなかった。一体彼は十代の最期で何を得たというのだろう。何に気付かされたというのだろう。分からない、分からないな。


 五年が経過した。意外なところで葛西君の名を目にした私は、やっと彼の不明瞭な努力を、文章に起こそうという気になった。誰もが知っているであろう、夕刻の報道番組を観てから。

【葛西氏 露アニメ番組の監修に抜擢】
「シベリア旅行記」
著者、葛西氏。ロシア国民的アニメである「ヌー、パガジン!」の監修役として抜粋された事が分かった。同番組に登場する兎のキャラクターに対して、生物学的な観点から動作確認を行う予定。なお、邦人が同国の番組制作に関わった例は、他になく......

・葛西氏の経歴
生物学を専攻。兎の跳躍力に着目し、日本陸上界においての画期的な練習方を確立。

露北部に広く生息する、ユキウサギの生態圏について論文を発表。次いで、その厳しい環境下での生活を纏めた「シベリア旅行記」を発表。

露著名作家、ニキータ・ルイジコフとの交流を経て、「第四インターナショナル」残活動家(トロツキー派)への単独会談を実現。後に、対話内容を「シベリアン・ハスキーヴォイス」の名で発表。露国内より、評価と批判の声が上がる。

大陸横断鉄道についての論文「酔うのは食堂車で飲むウォッカだけにしておけ」を発表。斬新なアプローチは、同国内にて絶賛を受ける。

国民的アニメ「ヌー、パガジン!」のキツネ役として、声優を担当する。登場数は少ないものの、独特の言い回しにより人気を博す。彼が呟いた「キャベツとレタスが違うように」というアドリブの台詞が、若者の間で流行する。

この様な経緯により、彼は同番組の人気キャラクターの声優兼 監修役の地位を与えられ......


 葛西、やはり努力はしてみるものらしいな。

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