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最後の蝉が落ちるとき

 気分展開も兼ねてベランダにビニールチェアを置いた。未だ残る湿気が少し鬱陶しいものの前のめりで座る癖に気を付けて、もたれてみれば視界は秋空。決して晴天とは言えない空を眺めていると、庭先に立つケヤキから聴こえた、夏の残党。まだ居たか。
 昼飯のサンドイッチを頬張りながら、孤独に鳴く蝉の姿を眺めていると、外の気温はやけに肌寒く感じるのだから不思議だ。少し短い袖を伸ばしてみれば、弛んだ布は情けなくなびく。
「おぉい、蝉殿。君の仲間は、既に土へと陣を引いたとのこと。なぜ単騎で以ってそうも粘るのだ。なぜ強情に鳴けるのだ」
そう問えば、彼はより一層その濁声を荒げるようにして喚いた。

「......悔しい、口惜しいのである。生まれた時期が遅かった為、夏の陣へ遅参となり申した。輝ける場を求め、恥をかくのも承知で、鳴いておる」

「悔いが残るほど、良い血筋とも思えんが」

「笑止......! 何を隠そう我が父は、さきの戦にて第一声を放った《薩摩守 蝉忠》であるぞ」

「なるほど、卑しくも名のある弓取りの血筋であったとは。よろしい、公共の庭ではあるが、心行くまで鳴きたまえ」

「有り難き候。この庭先、我が死に場所と心得たり......」

と、このような妄想をする内に段々と陽が落ちて来た。ただでさえ薄暗い空に、幕が張ったようなさっぱりとしない天気。蝉もなにかを悟ったような声色で鳴いていた。

 気温の低下に伴い冷えた身体。私がトイレに立って戻ってくるその五分の間で、外は夜と静寂に包まれていた。暗がりの庭先を覗き込んで見ると、何やら小さい物が落ちていた。
 夜が明けなければ、それが一体なになのかは分からない。ただ、一匹の哀れな蝉の慣れ果てであると言うのであれば──。
神様、どうか夏と共に散った彼の同胞と同じく秋を知らぬ蝉のままで弔って頂けないものか。

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