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元ミュージシャンの40代リーマンが本当の自分と出会う旅

どうも、きいです。

今日は、自分のことを、語っていきたいと思います。
自分語りって苦手なんですよね〜汗

何をしてきたか
どんな人生を歩んで
どんなことを感じながら
今まで生きてきたか

まとまりのない感じになるかもしれないですが、
お時間がありましたらご覧いただけると幸いです😊


信州に生まれ、信州に育つ


私は長野に生まれました。
2つ上の姉と6つ下の妹の挟まれ、育ちました。

長野って雪国のイメージですが、盆地だったので、
夏は地味に暑く、冬は室内は暖房がガンガン効いているような環境なのですよね。
だから私的には寒さに強いわけではなく、逆に夏の暑い時期の方が好きだったりします。

でも、小学生のときはよくスキーに連れて行ってもらってたなとか、
長野オリンピックのときは中3で受験勉強やっていたな~とか、
雪や冬の寒さの想い出も多いですね。

海こそないけど山に囲まれているので、
春は山菜取り、夏はキャンプ、秋は紅葉、冬はスキーと
自然と親しんできた幼少期でした。

そうそう。信州人といえばご存じ、「信濃の国」ですよね。(知らんがな笑)
県歌として小学校とかで歌うので、信州人なら誰でも歌えるんです(笑)

「海こそなけれ物さわに、よろず足らわぬことぞなき」
って、いう歌詞にあるとおり、海がないけど、物が豊かにあって足りないということはない、って意味です。
今度、聴いてみてください(無駄な押し売り(笑))

そんな長野を高校卒業まで過ごして、大学入学とともに、県外へ飛び出しました。

大学生活、初めての一人暮らし


田舎育ちだったので、一抹の期待とともに、都会へ出たかったのですが、
向かったのは、北関東の栃木、宇都宮。
南東北とも言われています。

ぎりぎり関東だから都会だよね、
と自分を言い聞かせ、一人暮らしを開始しました。

一人暮らしでは、とにかく最初は淋しかったですね~

家族がいない、知り合いがいない環境のなか、
ホームシックになりながらも、
大学生生活を満喫していきました

ひと昔前のツッパリがいたり(ほんとに短ラン、ボンタンとか着てた)、
待ちゆく人、出会う人がみな、語尾が上がる感じのU字工事ばりになまっていたり(失礼(笑))、
カルチャーショックを受けながら、10代から成人へと成長していきました。

このときにドラムをやり始め、
音楽と触れ合うキッカケができたのも、このときでしたね。

たまたま友だちに連れられて向かったサークルの部室で、
たまたまドラムセットがあって、
たまたまドラムやる人がいなかった、

ってだけで始めたのですが、
ドラムやパーカッションは今でも続けているので、何が起こるか分からないものですね。しみじみ

あとはそう、栃木の人は海水浴とか、海に遊びに行くときって、
だいたい、茨城県の大洗なんですよね。

あれだけ、栃木vs茨城でいがみ合っているのに、不思議なものです。

そして、大学4年にあがる頃、

私は、卒業後の進路について悩みに悩み、
どこに就職すればいいのか、、決められないまま苦悩の日々を過ごしていました。

その当時は、どこかに就職して働くという姿が想像できなかった。

こんな気持ちのまま妥協して適当に働き始めてもどうせ長続きしないかもしれないし、つまらない人生になるだろうと思っていました。
その一方で、音楽活動、バンド活動、ドラム演奏は好きでやり続けたいと思っており、
仕事にできるかどうかなんてわからなくて不安ばかりでしたが、
悩んで、悩んで、悩みぬいて、最終的には「ミュージシャンになる!」と決意しました。

好きなことを仕事にしたい、
というのが率直な想いでした。

そして、就職活動というものを経験せずに大学を卒業したのでした。

ミュージシャンを目指し上京


大学を卒業し、活動の場所を移したのは花の都、東京

音楽を仕事にしたい、その夢を掲げ、新たな生活が始まりました。

親には成功するかどうなるか分からないけど、
とりあえずやりたいようにやらせて欲しいと伝え、
でも、ほぼ勘当状態となり帰る場所もなくなり、孤立無援な状態からの苦い幕開けでした。

音楽やるなら、下北沢か吉祥寺でしょ!
ってことで(当時はあまり知識もなかったので・・)
吉祥寺の近く、といっても自転車で30分はかかる駅に引っ越しました。

家賃は都内では破格の2万8千円。
でもそれだけ安いと、当然、風呂なし、トイレ共同、玄関共同、4畳半といった具合です。

洗濯は近くのコインランドリーへ、お風呂は近所の銭湯へ、
という生活が始まりました。

とにかく日銭を稼がないと!
ってことで。チラシ配り、ポスティングのバイトも始めました。

事務所に出勤し、その日のスタッフ全員で社員さんの運転するバンに乗り、
指定されたエリアにチラシを配るというスタイルでした。

チラシの重さに辟易したり、
夏の暑さや雨の日のだるさに四苦八苦しながらも、
都内の色々な場所に行けることを楽しんだり、
漫画家の卵、俳優の卵、ミュージシャンの卵など同じように夢を追う若者がバイトに多数いたので、
刺激を受けたりしながら、フリーター生活を楽しんでいました。

でも意外に性に合っていたのか、
歩合制でもなく時給計算だったのに、
どれだけ早く、どれだけ多く配れるか!?
ということに挑戦したり、
なぜか真面目に仕事をこなしていました(意外な才能発揮?(笑))

音楽の方はというと、バンドを組みライブや音源制作に勤しんだり、
オーディションを受けたりしましたが、
結果は芳しくありませんでした。

でも、そのとき、いろいろとかけもちしたりサポートしたりしていた中で、当時は無名だった同年代の上京したてのミュージシャンに、
ドラマーとして関われたのは良い思い出です。

彼らは後に、
愛のこもった花束をおくったり、魂がレボリューションを起こすようなムーブメントを起こしました。

生活のために週に5日、1日8時間はアルバイトをして過ごし、
合間の時間で音楽活動をする日々

そしてあるときふと思いました。

「これって、普通に就職して働いているのと同じじゃね?」

そう、
形態はアルバイトか正社員か、という違いだけであって
やっていることは普通に就職して過ごしていることと同じだと気付いたんです。

そして意外にそれでも音楽活動ができている、ということ
もちろん、音楽で食っていけてるわけでも、生活の大半が音楽活動をやっているという状態なわけでもなかったのですが、

「音楽を一生続けていきたい!
そのためには音楽を仕事にする必要があるんだ!」

という想いもあって上京したのが発端だったところ、
発想の転換が起こり始めました。

「仕事として音楽に関わらなくても、やり続けることはできる」んだ、と。

そして、2年目の夏を迎えた頃、
それまで続けていたアルバイトを辞めました。

夏汗だくになりながら、熱中症に気を付けながら仕事をするのも大変だった、っていうのもあるのですが、
派遣社員として事務の仕事に就くことになりました。

派遣社員へ、埼玉への引っ越し


結果的に都内でのフリーター生活は1年ちょいだけでしたが、
埼玉に引っ越すことになります。

それまでの風呂なし・トイレ共同の生活や、
夏エアコンがなく外の方が涼しい(笑)という住まいを変えたいという背景もあり、
派遣会社が寮扱いとして契約しているアパートへ、
2DKの小っちゃい子供のいる家族が住めるようなアパートに引っ越しました。

感動したのは、
自分だけのトイレがあること、お風呂に入れること、そしてエアコンがあること(笑)

快適ったらありゃしない(笑)

けど、一つ難点があったのは、壁が薄いということでした。
隣の部屋に暮らしているのがブラジル人家族で、
壁が薄いので夜になると夫婦喧嘩が始まり、週末は大人数でどんちゃん騒ぎしている様子が筒抜けで、賑やかな暮らしぶりでした。

でも生活の質は前と比べたら雲泥の差
文句は言えません

吉祥寺までの移動距離は長くなりましたが、
音楽、バンド活動も続けており
平日は派遣の仕事、週末は音楽活動という日々を継続していました。

そして、また1年が経ち、
バイト感覚でフリーターの延長で始めた派遣社員としての仕事もさまになってきました。

音楽も相変わらずささやかながら続けており、
でも、プロとしてやっているわけではなく、
音楽で食っていきたい、という気持ちも小さくなっていました。

派遣の仕事の方は、バイト感覚でやっていましたが、
雨の日も暑い日も空調のきいた室内で快適に仕事ができるってのがありがたく、
周りの人の指導やフォローにも恵まれ、人事という仕事を、意外にも
「派遣でここまでやるか?」
くらいの勢いで楽しくこなしていきました。

そして、1年間の派遣期間の契約満了を迎える頃、
派遣先の会社からこう言われます。

「正社員にならないか?」

就職、そして、結婚


大学卒業する前に、さんざん悩みに悩んで、
就職するべきか決めあぐねていましたが、
正社員として就職する、というオファーを前に
このとき何も躊躇するものはありませんでした。

「はい、よろこんで!」

フリーターを経験し、派遣社員を経験し、
それまでの仕事観も変わっていたと思います。

「就職したら墓場まで」とか
「天職を仕事にしなければいけない」とか
就職に対して、何かこう、高尚なものを思い抱いていましたが、
そんな思い込みも消え、
正社員になったところで今と大きくは変わらないし、
むしろ待遇が良くなるし、むしろありがとう、という気持ちで就職することになりました。

結局、就職活動も、ちゃんとした面接も経験することなく
正規雇用となりました。

当時、ハケンの品格というドラマがやっていたのが印象的だったし、
そのすぐ後にリーマンショックで派遣切りが話題になってたりしていましたが、
タイミングの良さもあってか上場企業に入社できたことになります。

25歳で就職、
そしてその後、ご縁があり28歳で結婚することになりました。

会社員としての活躍、それでも満たされぬ想い

会社員として仕事をこなしつつ、
東日本大震災が起こった年に子供が生まれました。

一層、仕事も家庭も充実していきました。

人事の仕事から経営企画の仕事に移り、
経営トップからダイレクトに仕事を任されるという経営参謀役として、職務をまっとうするようになりました。

会社のなかでは歴代最年少で管理職にもなりました。

わざわざ自分のために抜擢昇格の制度を作ってもらい、
派遣社員の頃からみると異例の昇進を遂げました。

2人目の子どもが生まれ、マイホームを購入し、
4人家族を養えるほどに年収も上がりました。

気付けば16年も同じ会社に就き、仕事をこなし、
うち10年以上は経営参謀として職務を全うしました。

2,3年に一度は経営トップが変わるのですが、
合計6人の経営者の参謀役を務めました。

羨望の視線を浴びました。やっかみの声も聞きました。

周りからみたらサクセスストーリーを歩んでいるように見えたかと思いますが、
心の声がこう囁きました

「自分の人生、歩んでる?」

40代で転職

経営層や上司からは、
「おまえは将来の幹部クラスだ」
と言われ、色々経験させてもらいましたし、

M&Aだとか経営戦略だとか
何やら難しそうなものに携わらせてもらいましたが、
これが本当に自分がやりたいことなのだろうか、
と思っていました。

この先の未来が想像できないし、
役員になるような未来だったとしても
ワクワクするものはありませんでした。

そして、また、悩みに悩んだ結果、

新しい可能性を模索して、転職活動をすることになりました。

これがちょうど1年前のことです。

気づいたらもう40歳になっていました。

それまで、自動車業界、製造業で、
男性が9割以上のバリバリの体育会系の会社だったので、
全く別の環境に経験したい、
と思い仕事探しを始めました。

まともな就職活動をしてこなかったのですが、
初めてちゃんとした面接を受けたりして、

何とか内定をもらいました。

結局、転職が決まったのは、
東京都千代田区丸の内という都内でも一等地にあり、
コンサルティングや監査法人などで世界4大ファームの一つとも言われているような大きな会社でした。

周りはみなハイスペックで仕事の鬼って感じだし、
初めての都内勤務、初めての電車通勤、

丸の内OLが闊歩していたり
キラキラ系に囲まれ、
望み通り、全く新しい環境でのチャレンジが始まりました。

当然ながら、
それまでの会社の常識が通用することはなく、
必死にもがきながら、悪戦苦闘しながら、
仕事をキャッチアップする毎日でした。

そして、ようやく新しい仕事にも慣れ始め、
会社の人たちにも認められるようになってきたとき、
人生初めての入院を経験することになります。

厄年、人生初の入院

ちょうど厄年

やっぱ、そういうタイミングってあるんですね。

きっかけはトレイルランニングの大会。
炎天下のなか、熱中症気味になり、
それでも無理して走っていたら、食事を摂れなくなり、
水分すら摂れなくなり、途中でリタイヤ。

何とか死に物狂いで家まで這って帰れたのですが、
それでも体調が良くならず救急搬送。

結果は急性腎不全。
腎臓にダメージを負っており、
あわや人工透析の一歩手前という状態でした。

きっかけとしては趣味の活動の中での出来事でしたが、
仕事で無理をしていたことや心の状態も関係していたのかな~
と思っています。

人生初めての入院も大変でしたが、
このタイミングで自分の心と体の状態に気づけたのは良かったな
と思います。

1週間で退院できましたが、
しばらくは経過観察となりました。

ふと立ち止まってみると、

今までと同じように、踏ん張って頑張るのは無理だな、
と思いました。

そしてこうも気づくのです。
「今までずっともやもやを抱えて生きてきたんだな、」と。

転職の動機は新しい環境へのチャレンジ、そしてキャリアアップでした。

前職の会社の中でもそう説明してきたし、
家族にもそう伝えていました。

そして、新しい門出を応援してもらっていました。

でも、心の声がこう囁くのです。

「お前、逃げたんだろ?
そのモヤモヤから逃れたかったんだろ?」

と。

そうなんです。

自分自身に対しても、
新しいチャレンジをするためなんだ、
これは正しいことなんだ、
と正当化して錦の御旗を掲げてきたんですが、

実はずっとモヤモヤしていたんです。

そうであるから、マインドフルネス瞑想をやっていたし、
そうだからこそ、
「ここではないどこか」
へ逃げてきたんです。

でも、
逃げたところで、環境を変えたところで、何も変わらなかった。

そして、自分では分かっていたんです。
心の声はすべて知っていたんですね。

コーチングとの出会い、そして本来の自分へ


心の声に正直になろう

ごまかしたり、
逃げだしたり、
分かってないふりをしたりするのは

もう辞めよう

自分らしく、ありのままになりたい

心底そう思い、
コーチングを学び始めることになりました。

これまで、自然の中で五感を感じることや、
瞑想して自分の心と体の状態を観察することなど、

マインドフルに過ごす習慣はあったのですが、
より内観・内省といった観点や聴く力・問いかける力が重要だと思い、

コーチングをやり始めることになりました。

実践を通じて「内を見つめること」
これは他人に対してもそうですが、
自分自身に対しても大いに効いてくるのですが、

そのやり方と効果を身に染みて実感することになりました。

コーチングで見えてきたのはこんなこと

  • 感情を潜め自分を押し殺しているけど、本当は泣き虫だし感情豊か

  • 自分に自信がなく自分の価値を認められないけど、本当は自分を活き活きと表現したい

  • 人それぞれの個性の違いを尊重しあい、認め合い、補い合う多様性を大事にしたい

人はみな、成長するに伴い、
痛みと向き合い、
痛みと対処して大きくなっていきます

その過程の中で、
その痛みを受け止め、
あるいは拒絶し、あるいは無視したりし、
自分の中の信念を形成していきます

  • 男なら泣いちゃいけない、我慢しないといけない

  • 弱みをみせてはいけない

  • 大人なんだから、ちゃんとしてないといけない

  • ふざけちゃいけない、まじめにやらないといけない

  • 自分のことよりも他人を優先しないといけない

  • 他人様に迷惑をかけちゃいけない

  • 失敗してはならない、不様な姿を見せてはいけない

  • 他人の期待に応えないといけない


こんな考えや想いをお持ちではないでしょうか。

実はこれ、全部、私が持っていた信念(ビリーフ)なんです。


この制限があるからこそ、
そのような行動となり、
外側の結果(出来事・事実)が起こっている、
という原理

この世はシンプルかつ良く出来ていますよね。
引き寄せの法則とも共通するかと思います。

この三段論法は色んな場面で見えてきます。

1)信念:世界はきびしいものだ

2)行動:だから通用するように耐え忍んでいる

3)結果:厳しく過酷で大変な状況が訪れる

とか、

1)信念:世界はやりたい事が叶わない

2)行動:だから一生懸命努力している

3)結果:いくら努力しても報われない

とか。

全て信念、制限から現実が作られているんですね。

この制限、心のブロックは本当ですか?
それが起こるとどうなりますか?
本当の本音は何ですか?

その心の声、想いをつぶさに見つめ、丁寧に問いかけていくと、
ぼろぼろと殻が崩れていくことがあります

そして本音、本心、本当の自分が現れます

でもその殻、鎧、覆いは、
いままで自分を守ってくれていたものなんですね。

この制限があったからこそ、努力できた。
我慢できた。精進できた。

そして、その結果、得られたものがあった。

それ自身、素晴らしいことだし、
決して悪いことではありません。

でも、「他の可能性もある」ということなんですね。


つまり、

「本当の自分に正直になる生き方がある」
ということ

私の場合、
心の制限に気づき、本音に気づけた結果、

我慢することはもう辞めよう、
自分に正直になろう、

と思いました。

そして、
転職してわずか1年ですが、
会社を辞めることを決意しました。

会社にも伝えたところ、驚かれましたが、
最後は分かってもらえ応援してもらえました。

いきなり辞められても困るから、業務委託のような形で形態を変え、週に2,3日でもいいので続けてもらえないかという言葉ももらえました。

私自身、何も先立つものがなく、少し不安に感じていたので、
これは渡りに船でした。

会社の人には本当にお世話になっており、それまで、都内の超一流企業のプロフェッショナルな人って、ドライで冷淡だと思っていたんですが、
そんなことはなく、人間味があり温かい人たちでした。本当に感謝です。

外側を変えるのではなく内側を変える
そうすると外側が勝手に変わってくる

これは身をもって体験したことです。
そして現在進行形の話です。

そんなことを自ら体験しながらも、
同じようにモヤモヤを抱えている人の
助けになるんじゃないかと思っています。

そんな思いで価値提供していけたらなと思っています。

これから

そして今こんなことを思っています

世の中、こうなって欲しい

自然を大切にする持続可能な社会
誰もが自分らしく活き活きとしている社会

届けたいメッセージ

自分を一番に大切にして一番やりたいことをやる!
そうすると周りの世界も良くなるんだよ~!!

Myミッション

自由で豊かな生き方を社会に示す

自分の存在意義

自由で豊かな生き方を自ら体現し、
誰もが自分らしくありのままでいられる世界をつくる


今から約半年後、

11月に会社を辞め、独立します。

そして、上に挙げたような価値を届けるようになります

まずはマインドフルネス瞑想とコーチングを軸に、
価値提供を行っていきながら、
同じような志の人、同志、仲間を集め、
新しいことにも挑戦したいと思っています。

例えばこんなこと

  • カフェをオープンして地産地消のものを提供する

  • 無農薬、オーガニックな食料を生産する

  • サウナができる拠点をオープンする

  • 森のなかで心と体をととのえられる場所を提供する

  • 森のなかでフェスをやっちゃう

  • 瞑想、ヨガ、リトリート、音楽とかイベントばんばんやる

  • 海の家、山の家、ゲストハウス、シェアハウスオープン

  • 日帰り滞在も宿泊も長期滞在もOKなコミュニティをつくる

  • 日本中に拠点がある、所有じゃなく共有

  • 徒歩で日本1周する

  • 修験者になり日本全国の山々を歩き回る

  • 猟師になり山の恵みをいただく

  • 地域の良さ、自然を生かした衣・食・住を創る

  • 自分のブランドをつくる、何ならモデルもこなしちゃう

  • 竹細工とか草木染めとか山の恵みを生かした昔ながらのものづくり

  • 古き良き技と伝統の伝承、世代のつなぎ役、橋渡し役になる

  • 空き家や耕作放棄地を再生する

  • アートと農と心のテーマパーク・遊び場をつくる

  • 作家、画家、アーティストになる

などなど。

荒唐無稽、ツッコミどころ満載でもいいんです。

理屈じゃなく、自分の心から湧いてきたことだから。

さいごに

とにかくやってみたら、
案外すんなりいくかもしれないし、
全く違う展開が訪れるかもしれません。

自分の人生を舞台に、
壮大な実証実験が始まります

この曲好きなんですよね、

ディズニーシーで
シンドバッドの船に乗り
世界をめぐる旅に出るアトラクションで流れているやつ

青い空高く帆を上げて
水平線のかなたを目指せ

夢のように光きらめく
宝物が君を待つ

荒波が船をゆさぶり
嵐が行く手阻んでも

怖れず進めば友だちが
手を差し伸べてくれるさ

風に吹かれ旅はつづく
舵をとれ希望を胸に

進めみんなを助けながら
優しさと勇気忘れず

人生は冒険だ
地図はないけれど
宝物探そう
信じて
Compass of your heart

宝石や黄金より
大事なものがある
何よりも大切な

心の贈り物

Disneyシンドバッド・ストーリーブック・ヴォヤッジ『コンパス・オブ・ユア・ハート』

そんな素晴らしい冒険の旅を歩みながら、
同じ船に乗りたい人、大歓迎!

あなたの旅のナビゲートをします😊

なんかこいつ面白いな、と思ってくれた人、
ちょっと今の生活にモヤモヤを感じている人、

ちょっとした雑談、相談も大歓迎

お気軽にお声がけください✨

泣き虫で
感情豊かで
馬鹿なことや
ふざけたことが好きで、
でも
素晴らしいセンスと感性を持ってる
愛すべき人
(自分で言っちゃう(笑))

こんな私ですが、よろしくお願いします😊✨

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