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[ちょっとしたエッセイ] 見るに耐えないとか、そんなこと

長らく自分のスケジュールは、大体頭の中で管理してきた。
メモを取るとしても、自分の手に直近の予定やToDoを書いて、忘れないようにと心算して、なんとかしのいできた。
最近は便利になったのもので、Googleカレンダーがあるので、もう書くことすら稀になってきた。
でも、今もこれまでも、いろいろな機会に「手帳」を用いる人が、様々なメリットやその想いを披露してくれて、僕も手帳をつけようとしたことが度々あった。

しかし、これが続かない。

どうしてだろう、なぜだろうと、過ぎ去った時間が空白となったページを見ながら、途切れた手帳をサワサワと撫でながら年の途中で立ち止まる。

ある時、とても仲の良かった友人の手帳を見せてもらった。
デイリーとマンスリーにきれいに並んだ時刻、書き込まれた仕事の予定や誰かの誕生日、レストランの名前などなど、几帳面な性格だなと思いながら、そして整った文字に少々羨ましい気持ちが芽生えた。
こんな経験からか、僕はたぶん自分の書く字が嫌いなのではないかという気持ちになった。別段書くことが嫌いなわけではない。なんとなく管理するための字面が嫌いなんだという意味だ。

書いても見直さない、仕事でメモを取ったとしても、すぐにパソコンやスマホに打ち直す、他人宛の電話のメモも何度か書き直す、とにかくサラッと書いたとしても、それを見過ごす器量がない。

なんでだろう。

子どもの頃は、書道の時間が好きだった。
筆を半紙に流す作業は、自分の姿を写すようで、気持ちも大きくなり、お手本よりも止めを強調的に、払いはのびやかに、それはそれは気持ちよく書いていた。おかげで、地域の金賞を取ったこともある。高校の時は、文科省の賞もいただいた。当時の先生に、その書を額に入れて学校に飾りたいという申し出もあったくらいだった。
でも、一旦ペン字になると、書道とは異なる表情をする自分の字に興味が失せていった。

なんでだろう。

単に愛着がわかない。ということなのかもしれない。
鉛筆やペンで書いた字は、自分じゃないような気が今でもしている。たまにピタッとハマ・・る単体の文字はあるけれど、文章として書いた字は、どこかいびつで、まっすぐに書き連ねることのできない、だから醜いと感じてしまう。
ある時、会社の同僚に、君の書く字は年寄りみたいだみたいなことを言われたことがある。どんな字だよと思ったが、よくよく見ていると、なんというか力強さはないし、細いし薄い。字から人相が想像できないなろうなという結論に至った。別に、そうなりたいわけではないけれど、自己評価と他己評価が絶妙に噛み合った瞬間だったわけだ。

とかく自分の書く字に魂が乗らない。
ほとんどを捨ててしまった手帳だが、古い段ボールをひっくり返したら、なぜか数冊だけ残っていた。
表紙は硬くなり、少しパリパリとページが圧着されてしまったQuo VADIS(クオバディス)の手帳。当時好んでいた手帳だ。

見返してみると、2003〜7年あたりのもので、僕が一番苦しんでいた20代半ば。ページをめくってみるとほとんがただの予定ばかりではあるが、節々に毒を吐いていた。
別に誰に対してなのか今ではわからないが、「バカ」とか「もういい」とか「無」(無はよくわからない)といった一言がページの片隅に殴り書かれていた。それを見て、自分にもそういう時期があったんだと気づいた。夜中まで、FAXを送り続けていたり、書類やチラシを作るために、朝までイラレやフォトショップを秋葉原で2万で買った型落ちのPowerMacでひたすら勉強していた頃だ。

あれだけ、血が出るような日々を送っていたにも関わらず、そんな感情をこの場所に吐露していたんだと気がついた。もう忘れてしまった、そんな小さな感情(主に怨念か)が、あの頃にはあったのだと思うと、少し手帳に感謝をせざるを得ない。

果たして、今はどうだろう。
こうやってnoteに文字を書き留めているが、何気ない言葉がちゃんと記されているのだろうか。頭を使って書いていても、突発的な、瞬間的な言葉は残っているのだろうか。そう思う。

見るに耐えないと言いつつも、手を指を動かして書くことへの羨望はどこかにあるのは間違えない。でも万年筆は好きで、たまに書いてはくしゃくしゃっと捨てることは度々。
これまで意図的に残さなかった自分の字は、例えば、じいちゃんやばあちゃんにもらったお年玉袋に書かれた宛名や一言、一人暮らしの時にもらった母の手紙や文通していた遠くの知らない女性の手紙、彼女に落書きされた手帳の1ページなどに比べると、ほとんど価値がないように思えたからだ。でもそれは、自分以外に対しての価値として評価していて、なんら意味がないのかなと思える。
そう考えると、そこにある本当の価値とは、「自分宛て」だったり、「自分遺産」みたいなことかもしれないなと、今更ながら思った。

40歳も過ぎて、なぜだろう。自分の字について思い至るのは。
変なこだわりは、現在のテクノロジーで隠し続けてきただけで、結局自分の字が好きではないことに何にも向き合ってこなかったわけで、これまでをなんとなく生きてしまった。
だから、少しだけ文字を残してもいいのかな、自分に許された気がした。でも別に手帳でなくもていい、ベタに日記でもいいのかもしれない。

毎日でなくてもいい、感情がペンに乗った時、その時にさっと書き込めるノートを探してみようと思う。

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