中村文則「掏摸」レビュー
前回読んだ「銃」がとても良かったのでもう一冊読もうと思い、大江健三郎賞受賞作のこちらを選びました。
結論から言うと、がっかりしました。
前半は中村氏らしい(といっても二作しか読んでませんが)鬱々とした雰囲気の中、異常にリアルなスリ描写が続き、ワクワクしながら読み進めました。
特に行間から漂ってくる悪の空気感はこの作者独特のものです。
エンタメ寄りの文体やプロットもスピード感があって読みやすい。
が、1/3ぐらいでなんだか興が削がれていく感じがしました。
まず、作品の構造が「銃」とほとんど一緒です。
悪を手にした男性主人公(「銃」は武器、「掏摸」では技術)が街を徘徊しながらその悪に引きずりこまれるように破滅に向かっていく。
ニワトリが先か卵が先か、悪を手にしたから悪に染まったのか、元々悪人が悪を手にして覚醒したのか……。
これも「銃」と同じで後者。
そして子供にDVをする若い母親もまた同じ。
煙草や安アパート、本能のままに女を抱く主人公も同じ。
そして主人公を苦しめる敵の存在(「銃」では警官、「掏摸」ではヤクザの元締めみたいなの)、エンタメ的なラストのどんでん返し、そこに純文学的な余韻を持たせる……というのも同じ。
本作で8作目だそうですが、成長してないのかな?とすら思いました。
「銃」は処女作の熱量を感じたのですが、本作はそれもなく、なんか自分で作った型を守っている感じがしてつまらなかったです。
あと、改めて考えるとエンタメ性と文学性ってやっぱり水と油でまざらないということがよく分かりました。
本作に挿入しようとした文学性は、エンタメ性に喰われてほとんど無意味になってしまっています。
「塔」の存在も取って付けたようで陳腐に感じました。
あと細かいところを言うと、後半8割ぐらいのところで「ーーーと、ーーーた」という形の文章が連続するところがあって、『あ、書き疲れしてる…』と萎えました。
中編~長編を書いていると表現に疲れてこんな風に同じ形の文章が続くことがあるんですよね。
普通は後で見直して潰していくんですが、残ってる箇所があって驚きました。
急いで書いた作品なのかなあ……
わざわざその形の文章を残す意味は見つけられませんでした。
DVを受けている子供との交流も心が通っている感じはまったくせず、何だったんだろうと謎に思いました。
死を予感した主人公の希望って感じにも読めなかったです。
読了語、主題を固定することの是非について考えていました。
中村氏は悪を書く作家だということは有名です(僕も読む前からなぜか知っていた)。
確かに、悪は人間の根源的な感情であり、人間を古代から苦しめてきたものでもあり、現代においても形を変え人の心や世の中にはびこっている魅力的な主題です。
ですが、純文学という媒体の広さから考えると小さすぎる感じがするし、実際二冊読んでみてここまで類似性が出るんだったら素直に主題を変えればいいのにと思ってしまいました。
また、純文学は作家の人間的な成長も作品に強く出るので、その都度主題が変わっていくことで「○○さんは今こんなことを考えているのか」「前作でこれを書いたからこの主題に到達したのか…」と作者の成長や苦しみを共有することも読書の楽しみのひとつとなっています。
中村氏のように悪を描くことに徹した作家さんだと、その楽しみが阻害されます。
まあ「今回はどんな悪を描いてくれるんだろう」という楽しみ方もあるのでしょうが。
実際中村氏はキャリアが長いのでいろんな小説を書いているんだろうとは思いますが、僕はもういいかなと思いました。
主題もそうだけど、それ以上に氏のエンタメ性が合わないことがわかったので。