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バルザック「ゴリオ爺さん」レビュー

フランス文学の名作、バルザックの「ゴリオ爺さん」を久々に読みました。

概要

作者:オノレ・ド・バルザック(1799~1850)
刊行:1835年(天保六年)
ゴリオ爺さん - Wikipedia

田舎から出てきた野心家の青年ラスティニャックが個性豊かな面々が集うヴォケー館に住み込み、上流階級の女性たちに取り入ろうとする物語。
実はお近づきになった貴族婦人の父親が同じヴォケー館の住人ゴリオ爺さんだった。
ゴリオ爺さんは娘たちを溺愛するあまり尽くしすぎ、だんだんと疎まれてしまう。
やがて体調を崩し瀕死の状態になるが娘たちは逢いに来ることはなく、ゴリオ爺さんは愛憎の中で死を迎える。
小説的には主人公はラスティニャックだが、タイトルや主題としてはゴリオ爺さんの物語、しかし読了してみると主人公はパリそのものであるということが分かるなんとも不思議な小説。

パンクバンドBALZACとは無関係

余談ですが、日本のホラーパンクバンド「BALZAC」と作家のバルザックは無関係ですw

人間喜劇と人物再登場

バルザックの最大の特徴は、膨大な作品群「人間喜劇」と、「人物再登場」という手法です。
漫画などで、ある作品の登場人物が別の作品で再登場することがありますよね?
あれを編み出したのがバルザックだと言われています。

感想

「ゴリオ爺さん」は実家にあった世界文学全集の中に収められており、最初は『変なタイトルの小説だな』と思っていました。
初めて読んだのは20歳前後ぐらいだったと思います。
その時は『これが有名なバルザックか…』ぐらいにしか思わなかった気がします。
今回再読して後半の記憶が全くなかったので、もしかしたら途中で断念したのかもしれません。
さて、45歳になって再読すると、まずはフランス文学特有の煌びやかな警句や箴言の応酬に『これこれw』となんか嬉しくなりました。
このうねうねしたまどろっこしい文章が苦手だという人は多いと思いますが僕は好きです。
ただ、しつこいっちゃしつこいですが。
ユルスナールよりはまだ読みやすいです。

そうしたまどろっこしい文体でいちいちあれもこれも描写していくので話が全然進まなくて疲れるんですが、ストーリーを追いかけるというよりは情景を浮かべて楽しむというスタンスで読むと楽しめました。
19世紀パリの庶民や貴族の風習に興味ある方は必読です(というか、本作はそういう人が一番先に読むべきとされる作品なんですが)。
プロットはさすがに200年前の作品なので冗長だしスローなのは否めません。
あと、場面が一瞬でいきなり切り替わるのでたまにおいてけぼりにされます。
それらを生き生きとした人間描写で補っている感じです。
特にラスティニャックはいつの時代にも存在する若者像で、今だと田舎から上京してきて必死に人脈作ろうとしてるちょっとイタいイケメンという感じです。
そんな田舎者をまんまとハメようとする悪人のヴォートランもこれまた都会にはわんさかいるタイプ。
タイトルにもなっているゴリオ爺さんについては、再読してやっとその存在意義が分かりました。
「無償の愛の先にある破滅」という主題は「美徳の果てに不幸がある」としたサドを踏襲しているかのようです。
ただ、バルザックが他の作家と違うのは、一作のうちに主題をドンピシャで描いていないことでしょうか(後述)。
同じ主題はモーパッサン「女の一生」にも見られますし、フランス文学に踏襲されてきた主題なのでしょう。
今回再読して、最後ゴリオ爺さんが床に伏せたあたりで『あそうか、ここから娘たちが改心して旦那に逆らって瀕死の父親に逢いにくるんだっけ…』と早合点していたのですが、そっちじゃなくて自分の記憶力のなさとバルザックの読者の期待を裏切るセンスに驚きました。
当時の読者はどう感じたんでしょうか?
このラストは普通に今やってもかなりのドラマになると思います。

で、結局ラスティニャックは借金してゴリオ爺さんの葬儀を行い、本書の紹介によくある<上京した若き野心家のサクセスストーリー>は一切回収されないまま「本当の敵はパリだ!」「俺の戦いはこれからだ!」と結ぶところもなんか今っぽかったです。
これもバルザックの発明なんでしょうか?
今では「俺たちの戦いは~」で終わるのは打ち切りや破綻した作品の常套手段になってしまっていますが、本作ではかなり鮮烈な印象があり、しっかり機能しています。
このラストも全然覚えていなかったのでやっぱり途中で投げ出したんでしょう。

主題

じゃあ「ゴリオ爺さん」の主題って何なの?
結局作者は何が言いたかったの?
と考えると、はっきりと説明出来る言葉が見つかりません。
筋としてはラスティニャックのサクセスストーリーと言ってもいいし(ぜんぜん途中で終わってるけど)、物語的にはゴリオ爺さんの行きすぎた愛情が破滅するところで結んでいるので、そっちに重点を置くのも正しい。
あるいはヴォケー館の人間模様を描いた群像劇としても間違いではない。
でもそれぞれに焦点を合わせると作品がどうしてもぼやける感じがする……ということはやはり本作の主題はパリそのものであり、また本作はそれ自体で完結していると考えるより、「人間喜劇」の作品群の一部として捉えるのが正しいのでしょう。
恐らく「ゴリオ爺さん」の本当の姿は、人間喜劇を読み尽くしたときに初めて見えてくるのだと思います。
……それはさすがにめんどくさいからいいです。
なので、本作は細かいことは気にせず『19世紀のパリってこんななんだ、ふーん』と読み流すのが現代的な読書ではないかと思います。
フランス文学に興味ある人はとっかかりとしてぜひおすすめします。
「ゴリオ爺さん」を読んでつまんないとか、文体が合わないと思う人はたぶんフランス文学は向いていません。

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