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ぼくたちを取り巻く、3つの「幻想」

自己幻想の肥大化した人間はFacebookに依存し、対幻想に依存する人間はその対象となる人物とのLINEに執着し、そして共同幻想に同化する人々はTwitterに執着する。
(『遅いインターネット』より引用)


評論家・宇野さんの著書「遅いインターネット」を読みました。


きょうはそのまとめ、第4回です。

第1回 「民主主義」の限界
第2回 民主主義を「守る」ため、民主主義を「半分諦める」
第3回 いまの「メディア」に求められていること


きょうは、どうして宇野さんが「遅いインターネット」というwebメディアを立ち上げようと思ったかについての話を書く前に(これは明日以降)、

20世紀にすでに、実は宇野さんと同じ試みをしていた人を先行事例として振り返ります。

それが誰なのかというと、「戦後最大の思想家」とも呼ばれている吉本隆明さんです。

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画像:https://books.bunshun.jp/articles/-/3558


きょうはまず、吉本さんの思想を整理して、これから宇野さんがやろうとしていることへの解像度を上げたり、吉本さんの完全にはうまくいかなかった点についての考察をしたりします。


宇野さんが今後「遅いインターネット」の運営を通じてやっていきたいことと重なるのですが、吉本さんの思想の最大のキーワードは「自立」でした。

そして、「何からの自立なのか?」というと、あらゆる「共同幻想」からの自立でした。

というのも、これはいろんなところで言われていることではありますが、ぼくたち人類が繁栄した最大の要因は、「幻想」にあるからです。

「お金」にしても、「会社」にしても、「宗教」にしても、それらはすべて、実態を伴わない「幻想」です。

しかし、そういった幻想を信じることができるからこそ、人類は力を合わせてここまで繁栄することができました。

そして具体的には、ぼくたちはどういった幻想を通して世界を認識しているのかというと、吉本さんはその幻想を3種類に分けたのです。

その3種類とは、「自己幻想」「対幻想」「共同幻想」。

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しかし、幻想は諸刃の剣というか、ときにはその幻想が、ぼくたちの「思考停止」や「極端な発想」につながってしまい、人類を繁栄させたはずの幻想が、逆に人類を破滅に導くきっかけになってしまうこともあります。

特に吉本さんが生きた20世紀は、ナチスのホロコーストや旧日本軍の南京事件、スターリンの粛清、そして2度にわたる世界大戦の勃発など、「幻想」が裏目に出た時代でした。

そのため、吉本さんは「幻想からの自立」の重要性を訴え続けたのです。

しかし、2020年の現在に、宇野さんが同じ目的を達成するために、新しいメディアを立ち上げようとしているということは、まだぼくたちは幻想からの自立ができていないということ。

具体的に、3つの幻想は、ぼくたちの生活のなかで、以下のように根付いています。

※以下、この囲いがある箇所は「遅いインターネット」からの引用です


そう、自己幻想とはプロフィールのことであり、対幻想とはメッセンジャーのことであり、そして共同幻想とはタイムラインのことに他ならない。
卑近な例を挙げるのなら、自己幻想の肥大化した人間はFacebookに依存し、対幻想に依存する人間はその対象となる人物とのLINEに執着し、そして共同幻想に同化する人々はTwitterに執着する。


イメージしやすいように、図にもまとめてみました。

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当時、吉本さんは特に3番目の「共同幻想」の肥大化を問題視していたので、「いかに我々は共同幻想からの自立を果たすことができるのか」を考えていました。

そして、そこで吉本さんが示した指針は、「対幻想に少し比重を移すことで、共同幻想からの自立を果たす」というものでした。

では、この(メディアと)イデオロギーによってかつてなく強化された共同幻想からいかにして「自立」するのか。
夫婦親子的な、つまり性愛的な対幻想アイデンティティを置くことで共同幻想から自立できる、というのが吉本が当時示した指針だ。


これだけ読むと、「あんまり本質的な解決策ではなくね!?」と思うのですが(対幻想からの自立はできていないため)、たぶん宇野さんも同じことを(言葉の選び方的に)思っているし、そして何より、吉本さんも自身もそれを受け入れたうえで、そういった指針を示したのだろうなと思います。

ささやかな家庭を築き、守るための選択ことが革命による社会変革よりも本質的な人間の解放(自立)であるという理論武装を吉本は当時の若者たちに与えたのだ。
それは前章までの議論に照らし合わせるのなら、革命という非日常(共同幻想)から、生活という日常(対幻想)へ、アイデンティティの置き場を移行するという処方箋だった。


この「共同幻想」から「対幻想」、そして「非日常」から「日常」への重心の移動は、宇野さんがアプローチしていこうとしている「自分の物語×日常」の領域と、重なります。

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(※この図に関する詳細はきのうのnoteに書いてます!)


だからこそ、本書、というか宇野さんは吉本さんに注目しているのです。

しかし、結果的に、吉本さんの試みは失敗しました。

なぜなら、「国家」や「前衛党」といったトップダウンの共同幻想からは自立できたのですが、今度は「企業」や「学校」などのボトムアップの共同幻想へと埋没するようになったからです。

戦後の日本人たちはたしかに国家や前衛党のトップダウンによるイデオロギーからは自由になった。
しかしボトムアップで作り上げられる企業や学校などの空気の支配には無防備に埋没していったのだ。


というかむしろ、家庭で自立した「ふり」をするために、家庭の外、つまり会社では、これまで以上に自立からは遠ざかりました。

吉本さんがこの変化を見誤った原因を、宇野さんは「人間の前提を見誤っていたから」と指摘します。

具体的には「本当は人間は分人的存在なのに、吉本は人間を画一視しすぎた」ということです。

(「分人」という概念については、小説家・平野さんの『私とは何か』という本に詳しく書かれています!一言で言うと、人間には場所や相手によって、それぞれ違うキャラクターが登場するという考え方です)


吉本はある共同幻想から自立するために、別の共同幻想には埋没するという現象が、分人的なアイデンティティを常態化し得る社会ではむしろ支配的なスタイルになることを理解していなかった。
強い父であるために矮小な組織人であり、サードプレイスでは良き友人であることが、近代社会においては成立する。


ここで、少しきのうのnoteとつながるところが出てくるのですが、「ポケモンGO」を通じて「自分の物語」を見つけられる人が、結局一部のエリート層だけだったのと同じように、吉本さんの主張も、結局は一部のエリート層にしか当てはまっていなかったのかもしれません。

それ以外の大多数の人たち(本中では「大衆の原像」という言葉で表現されています)にとっては、トップダウンの共同幻想からの自立を果たした次に向かう先は、ボトムアップの共同幻想への埋没でした。


しかし、そういった状況を受けて、吉本さんが次に行なったのは「消費を通じた"個"への評価」でした。

戦後の高度経済成長に伴ってあらわれた「大量生産・大量消費」という慣習。

いまは何かと風当たりの強い「大量消費・大量消費」ですが、吉本さんは当時その慣習にポジティブな態度を(あえて)示すことによって、改めて共同幻想からの自立を促そうとしたのです。

ただ、それは当時の消費行動自体に肯定的な見方をしていたわけではなく、空疎なものであるが故に、そんな空疎なことができるだけの余裕が生まれたって良いことだねという意味での、ポジティブな態度でした。

消費による自己表現が空疎であることなど、当時から自明だった。
だが、空疎であるがゆえにそれはある程度の経済的な安定があれば誰でも買うことのできる自由として、社会の個人化の、都市化の、象徴になった。


そして、この(良い意味での)無駄な消費を通じて、人々の自立を進めようとする行為に関して、吉本さんの思想を引き継いで、そしてアップデートしているのが、宇野さん、の前に、実はまだ間にもう1人いました。

それは、糸井重里さんです。

糸井さんが何をしようとしていて(何をしてきて)、宇野さんはその活動をどのようにアップデートしていくのかについては、明日以降のnoteで書きます!

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