見出し画像

「民主主義」の限界

あたらしい世界のアイデンティティは最初から政治を、民主主義を必要としていないからだ。
現代の世界の構造上では、民主主義はこのあたらしい「境界のない世界」を原理的に肯定できないのだ。
(『遅いインターネット』より引用)


評論家の宇野さんによる著書『遅いインターネット』を読みました。


この本に関しては、構造が複雑になってるので、ぼくの考察とか感想とかってよりは、本中の内容をまとめていくってことをベースに書いていきます。(というか、まとめていくのだけでわりと精一杯)


きょうは冒頭5分の1くらいまでに書かれていた「現代における民主主義の限界」について。

(※宇野さんの主張をまとめるというよりは、あくまでもぼくの解釈という大前提でまとめます!=ぼくの解釈がズレて宇野さんが本中で伝えたかったメッセージとズレる可能性があります)

※以後この囲いが入った箇所は、すべて『遅いインターネット』からの引用です


宇野さん曰く、民主主義の大きな利点のひとつは、「世界に素手で触れている」という感覚を、国民全員が持てることでした。

世界に素手で触れているという実感はむしろ政治的なアプローチの専売特許だった。
だからこそ、20世紀の若者たちは革命に、反戦運動に、あるいはナショナリズムに夢中になったのだ。
民主主義とは、このあいだ少なくともこれまで試みられてきたあらゆる制度よりも確実に、誰にでも世界に素手で触れられる実家を与えてくれるものだった。


「世界に素手で触れている感覚」というのは、言い換えると「自分も世界に対して影響力を持てる感覚」です。

民主主義って、所得や性別、住んでいる地域など、ありとあらゆる条件を無視して、(近代の国家は基本的には)全員が「1人1票」を持っているじゃないですか。

そのため、本中では宇野さんが世の中の人を大きく2種類(「Anywhere」と「Somewhere」)に分けているんですけど、その両方が民主主義においては、同じ土俵に立つことができます。

「Anywhere」と「Somewhere」というのは、これだけ経済がグローバル化して、テクノロジーが発達した現代において、場所を問わずどこでも働ける、暮らせる人々を「Anywhere」、逆に他国の安価な労働力に代替されてしまう可能性のある人々を「Somewhere」と分ける考え方です。

「Anywhere」な人々は、投票行動以外の場面、具体的に言うと仕事の場面で、自分のサービスが世界とつながっている感覚を得られる(=世界に素手で触れている感覚を得られる)のですが、「Somewhere」な人々はそれが難しいです。

だから、「Somewhere」な人々ににとっては、世界に素手で触れられる感覚を得られる機会が、(平たく言うと)「選挙」のときしかありません。


そしてその結果起こったのが、「ブレクジット」であり、「トランプ大統領の当選」でした。

別にブレクジットとかトランプさんとか自体が悪いってことでは全くなく、問題なのは、ブレクジットやトランプさんに賛成した人たちが、冷静になってそれらの施策を判断したうえで投票したのではなく、感情的だったり、物事のすごく表層的な部分しか捉えていなかったりする状態で、投票をしていることです。

彼らはトランプが真実を語るから支持をしているのではなく、魅力的な嘘を語るからこそ支持しているのだ。


ぼく、別にブレクジットとかトランプさんとかにめちゃくちゃ反対!みたいな政治的意見を持ち合わせている訳ではないし、自分が「Anywhere」な人だとも思わないのですが、宇野さんの「いま投票行動に熱心になっている人はSomewhereな人が主だ」という話は、なんとなく自分のなかにもそれに近い感覚がありました。

いま、民主主義にコミットするインセンティブがあるのは主に時代に取り残された「Somewhere」な人々であり、より排外的でナショナリズムな人であるほど、その動機は強くなってしまうのだ。


下記は、ぼくが去年の参院選があった時期に、会社へ提出した日報なのですが、最後の「誰に投票するかよりどんな言葉を紡ぐか考えてるほうが自分の人生が好転する気がして、イマイチ乗り気になれません」って言葉は、まさに本中の言葉を借りるなら、ぼくはビジネスを通して「世界への手触り」を得ようとしていたのだなと思いました。

スクリーンショット 2020-05-02 23.03.58-min


ということで、ここまでで「現代における民主主義の限界」を語ってきたわけなのですが、ではここから、そういった状況を踏まえたうえで、どうしていくべきなのか。

詳しくは明日以降のnoteで書いていこうと思っているのですが、発想の出発点としては、「いまの民主主義とは違うアプローチで、Somewhereな人々にも、どうやって世界への手触りを感じてもらうのか」ということです。

今日の世界において残念ながら民主主義という名の宗教は、人々に世界に素手で触れているという実感を与える装置は、新旧の世界の分断を加速する装置にしかなっていない。
この現実を受け入れた上で、どこの暗礁から脱出するのか。
それがいま問われていることなのだ。


この問題に対する新しいアプローチについて、明日以降のnoteで書いていきます!



この記事が参加している募集

読書感想文

最後まで読んでいただいて、ありがとうございます!!!すこしでも面白いなと思っていただければ「スキ」を押していただけると、よりうれしいです・・・!