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『本当』よりも『嘘』が優先される時代のなかで

極論すれば、もうすでに「ニュースが真実かどうか判断する」ことはたいていの人にとって重要ではなくなっている。
※『ユーチュバーが消滅する未来』より引用

昨日から『ユーチュバーが消滅する未来』という本の感想を書き始めました。

第1回 スマホ入力によって漢字が書けなくなることは『退化』なのだろうか?

今日のテーマは『フェイクニュース』です。

最近いろんなところで、この言葉を聞くようになりました。

あと関連する言葉で言えば『ポスト・トゥルース』なんてのもあります。

これはざっくり言うと『その情報が本当かどうかよりも、たとえ嘘であっても人々の感情に訴えるもの(フェイクニュース)の方が優先して流通してしまう』現象を指します。

世界中で問題になってるんですが、『ユーチュバーが消滅する未来』著者の岡田斗司夫さんは、冒頭で引用したように『それって別にもう、大半の人にとって実はどうでもいいことなんじゃないの?』といった旨の指摘をしています。

この風潮が良いか悪いかは置いておいて(悲しい感情はありますが)、ぼくも岡田さんの意見に同意です。


ファクトチェックはコストが見合わなさ過ぎる

『フェイクニュース』に対して、『ファクトチェック』という言葉もあります。

これは、その情報が本当かどうかをいろんな角度から検証する行為です。

メディアやプラットフォームが単独で行ってることもあるし、各メディアや研究者らが集って団体を作っていることもあります。

日本だと、2年前に『ファクトチェック・イニシアティブ・ジャパン(FIJ)』という団体が設立されました。

ポスト・トゥルースの風潮に対してこういった動きも活発化しているんですが、ここには根本的な問題があって、それは『フェイクニュースを流すコストに比べて、ファクトチェックをするコストが高すぎる』ということです。

フェイクニュースは、言ってしまえば『なんでもアリ』なので、イチイチ下調べなどをする手間がありません。

そしてそれがぼくたちの感情を刺激するものであればあるほど、どんどん勝手に広まっていきます。

それに対して、ファクトチェックはすごく手間がかかります。

いろんな資料を見ないといけないし、大抵の場合、ファクトチェックは地味で複雑な結論であることが多いので、そんなに広まりません。

すごいバズったツイートが実は間違った情報だったときに、連続ツイートする形で『スイマセン!さっきのツイートは間違ってました!こっちのツイートも拡散してほしいです!』とつぶやいても、1発目のバズったツイートよりも圧倒的にシェア数が少ない光景は、見たことがある人も多いと思います。

なので構造的にそもそも『ファクトチェックするほうが”不利”』という事情があります。


ファクトチェックは大して面白くない

さっきもチラッと言いましたが、ファクトチェックした結果、大抵の場合、真実はガセネタよりも地味で複雑で面白くありません。

『ローマ法王がトランプを”批判した”』よりも、『ローマ法王がトランプを”支持した”』というニュースのほうが、タイムラインに流れてきたときのインパクトは大きいはずです。

そして岡田斗司夫さんは、この現象をもう少し抽象化して『すでにこの世界は、現実よりも「盛った」ものというのを優先するようになっている。』と本中で言っていました。

こうすると、フェイクニュースとかファクトチェックとかそういう固い話じゃなくて、もう少し身近なところにも対象が及びます。

例えば『インスタグラム』。

みんながみんな、毎日おしゃれなカフェに行ったり、旅行したりしてるわけじゃないですよね。

でもタイムラインをスクロールしていると、ぼくたちの友だちは全員毎日のようにどこかへ出かけているかのような錯覚に陥ります。

これだって、立派な『盛り』のうちに入ります。

大事なのは『みんなタイムラインに投稿する機会よりも、タイムラインを眺めている機会のほうが圧倒的に多い』という真実ではなくて、『繰り返される日常のなかに訪れる、稀有なイベント』というある種の”フェイクニュース”なんです。


もうすでに世界はVR化している

『真実』よりも『盛り』が勝る時代の行き着く先は、『みんながみんな自分の見たい景色で暮らす世界』です。

最近いろんなところで体験会をやっているVRですが、あんな仰々しいゴーグルをつけなくても将来はみんなが『それぞれの世界に没入する』世界がやってくるかもしれません。

現実はうまくいかないことも多いし、ちょっと努力したくらいでは状況は簡単には好転しません。

それだったら、みんな自分が見たい世界を見て、自分にとって都合のよい世界で暮らせるほうが、幸福度は高いはずです。

そして実際、そういった世界はすでにぼくたちの日常に溶け込んでいます。

例えばTwitterやFacebookなどのアルゴリズムは、基本的に自分と仲のよい人の投稿が上にきやすくなっています。

これだってもう、『自分とあまり関わりのない人の投稿(見たくない世界)よりも仲のよい人の投稿(見たい世界)が優先される』、立派な『自分にとって都合のよい世界』です。

ただもしかしたら、こういった話に対して『自分はそんな偽りの世界じゃなくて、本当の世界で暮らしたい!』という人も出てくるかもしれません。

そんな意見に対する岡田斗司夫さんのコメントが強烈だったので、引用しておきます。

「いやいや、それは幻だよ。そんな幻ではなくて、現実を見なければダメだ!」
そう反論したくなるかもしれませんね。
でも、デコられていない現実って何でしょう?
外を出歩くとき、僕たちは必ず服を着ています。きちんとしたスーツを着ていると、サラリーマンっぽく見える。汚いボロを着ていると、浮浪者だと思われる。濃い化粧をそてミニスカを穿いている人は―などなど、僕らは人の身なりを見て、どういう人かを判断してるじゃないですか。
その人の「本当」とは、素っ裸の状態でしょうか?
「幻を剥がして現実を見る」というのは、「道を歩いている人たちを素っ裸にしたら、本当の姿がわかる」と主張しているのと同じこと。そんなことを言われても、「バカらしい」と思うでしょ?

ぼくたちは前からずっと、『幻』と『現実』のグラデーションの世界に生きていたのかもしれませんね。


フェイクニュースを受け入れたくはない

ただ『なるほど、じゃあフェイクニュースが流通するのは仕方のないことなんだな』って受け入れるのは簡単なんですけど、それってあまりも悲しすぎませんか!?

『理解はするけど共感はしない』って言葉がありますが、まさにそんな感じです。

時代の流れとして『真実』が『嘘』に覆われやすいことは理屈としては分かりますが、それをやすやすと『はいそうですか』と受け入れたくはありません。

VTuberを見て日頃の疲れを癒やすのはいいことですが、『ローマ法王がトランプを支持している!』というニュースが世間を賑わすのは、なんとかしたいなと。

ただ、だからってなにか起死回生のアイデアがあるわけではないんですが、1情報の受け手として、そしてブロガーの端くれとして『ファクトチェックするコストが報われる世界』の構築には、微力でも貢献していきたいなあと思いました。


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