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本の読める場所を求めて、を読んだ。
読書という行為ではなく、本を読む場所について考察するユニークな内容。
読書とはなにか、これからの書店のありかたとは、などをテーマにした本は数多く手にしてきたが、「本を読む場所」について深く考えることはなかった。著者の阿久津さんは「fuzkue」というお店(場所)を運営している。
サイトのつくりも素晴らしく、機会があれば是非一度は出かけてみたいと思う。
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自分が本を読む場所は自宅だ。昨年春から導入されたリモートワークで実質通勤が滅失した今、ほぼ100%に近く「自宅の自室(執務室)」となる。2階の6畳の部屋で椅子に座ったりベッドに寝転んで、一人で静かに読んでいる。
リヴィングではテレヴィの音や、子ども達のゲームの音、そして息子が奏でるピアノの音など、とにかく無限に音が発生している。読書中の大敵は「音」である。自室でも時計の秒針の音が気になり電池を外すくらいだ。
読書を妨げられないために必要なのは、デシベルで表される音量の小ささ以上に、聞こえてくる音が意味を孕まず、耳や意識を奪っていかないことなのではないか。 *本著から抜粋
著者も指摘されている通り、思考回路のスイッチを押してしまうような音、つまりそれは人の会話(テレヴィやラヂオなどのメディアも含む)なわけだが、そういった意味ではカフェなどは絶対に適さないので利用しない。
また本著では「ブックカフェ」という類の飲食店に鋭くアンチテーゼを投げかけており、自分も諸手を挙げて賛同したい。特に気になるのは本を読むものではなく飾るもの、空間演出の道具と認識している悲しい店たちだ。
と、ここまで書いてふと気づく。どんなに騒音が酷くても人の会話で賑やかでも、全く気にならない人がいることも事実だ。自分も読書に没入すれば気にならないことがあったが、この1-2年はからっきしダメだ。理由は不明。
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著者が祖母の告別式のとき、控室で読書をして親戚から顰蹙を買ったという。何故スマホはOKで読書がダメなのか。親族の主張も理解できるが、釈然としない。そういえば走り幅跳びのブブカは待ち時間に読書をしていた。
理由を考えてみる。
我々がスマホを操作しているとき、狭いスクリーンをのぞいてはいるが、その先はインターネットを通じて世界と接続されており、暗黙知としての公共性のようなものが存在するのではないだろうか。
つまり"個人活動のように見えて実は社会参加をしている最中"という共通認識があるのではないか。いっぽうで書籍にはそれがなく、一方的かつ完全に外部を切り離した「自分勝手な没入」として人の目に映るのかもしれない。
スマホを操作してるシーンを読書に置き換えてみると、途端に違和感を抱くシーンが次から次へと思い浮かぶ。
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全く新しい切り口で読書という行為を自分の目の前に浮かび上がらせてくれた本著、是非ともみなさんにも読んでいただきたい。
今週もお疲れ様でした。
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