理解ではなく、まずは了解してみる。
京都大学総長、山極寿一さんの著書を読み終えた。
タイトルの通りに内容については想像に難くないのだが、このコロナ渦において多くの人々が感じているアナログの良さだったり、ある種の原点回帰的な話題が中心に据え置かれている。近しい書籍を読まれている方にはやや既視感強めの内容かもしれないが、さすがゴリラを数十年ものあいだ間近で観てきた人の発言、なんともいえない含蓄がある。あと愛嬌も。
つまりは温故知新的な観点になるのだろうが、ゴリラを通じて我々人類がどうあるべきかという考察は流石の一言。そういえば我が武蔵大学に丸橋珠樹教授がいらして在学時代に何コマか受講したが、もっと真面目にお話を聴いていれば良かったと。25年経った今になり少しだけ後悔している。
当然のことながらゴリラの生態についての記述が多いが、どうやらゴリラは自分が思っていた以上に寛容で優しい生き物らしい。彼らにそういった他者を思いやるものが、確たる思想として存在するのかどうかはわからないが、事実として群れの中の弱者を救済するような行動が見受けられる。読んでいてハッとすることが多々あった。
このnoteでも、他者への思い遣りについて何度か言及したと思うが、理想の輪郭は見えつつも実行動となるとなかなか難しい。頭では理解しているけれど、という状況だ。本文で非常に参考となるものがあり引用したい。
注目されているのが、東洋哲学の中にある「容中律」(肯定も否定でもなく、肯定でも否定でもある、とする理論)の概念なのです。これは、0か1、その間を許さない西洋発の概念「排中律」(どのような命題も真か偽のいずれかであるとする理論)の逆を行くもので、わかりやすくいえば、両方の存在を許すことです。(中略)僕の大師匠の今西さんも、人間以外の生物にも主体性があり、環境と生物種は相互に影響を与え合って「生活の場」をつくっていると主張していました。
これは自分も、読んでくれている皆様も、常々実感されていることだろう。自動車の運転でいえばハンドルの遊びだろうし、自然であれば里山のようなものだろうか。明確な境界線を敷かずに緩やかに移り変わっていくという現象または状態。あえて明確に分けないということ。曖昧性がいかに失われているのかという気付きを改めて与えてくれたように思う。
そこでタイトルの理解と了解の違い。確かに今日も理解ではなく了解してみようと思うことがいくつかあった。ここでこの二つの言葉の違いについては、ここで蘊蓄を連ねるつもりはない。気になった人は辞書で調べてみてください。それではまた明日、お目にかかりましょう。
読書好きが高じて書くことも好きになりました。Instagramのアカウントは、kentaro7826 です。引き続きよろしくお願い申し上げます。