About me (2)

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Hajimemashite, honkon kara kimashita Ken to iimasu. Yoroshikuo onegai shimasu !

日本語を勉強し始めた頃、日本語の授業で習った初対面の挨拶ですが、当時の自分にとっては長くてなかなか覚えられないという記憶があります。なぜなら、ローマ字で覚えていましたから。

頑張って練習してやっとfull sentenceで自己紹介ができると、今度は紹介を受けた日本の方から、Kenさんって何をされていますかと聞かれました。
。。。もちろん何も言えませんでした。名前と出身以外、自分のことについて説明する日本語をまったく習っていませんでしたから。

今振り返ると、確かに名前と出身だけで自己紹介にはならないですよね。
たぶん多くの外国人の方も同じような経験を持つかもしれません。

改めて、少し自己紹介をさせていただきます。

日本ブームの頃に香港生まれ育ち

まだ香港がイギリスの植民地だった頃ですが、香港生まれ育ちでイギリス式の教育を受けていました。香港は80年代の後半から90年代の前半までかなりの日本ブームで、日本のアニメ、ドラマ、バラエティなどがたくさんテレビで放送されていました。まだ小学生だった自分は、ほぼ毎日日本語と日本文化の雰囲気のなかで過ごしていました。意味がわからないまま、よく日本語のセリフを真似していました→「お前はもう死んでいる」。

大学に入って本格的に日本語を学ぶ

本格的に日本語を勉強しようと思い始めたのは、香港中文大学に入って半年が経ったところです。香港中文大学は香港のなかで唯一日本語・日本文化・日本経済を学ぶ専門の学部があって(日本研究学科)、当時約30校以上の日本の大学と学術協定を結んでおり多様な交換留学プログラムを提供していました。しかも給付型奨学金が用意されているので、こんな絶好のチャンスを逃していけないと思って、留学プログラムの選抜に参加して、本格的に日本語と日本のことを学ぼうと思いました。留学にいくためには日本語の入門コースをクリアさせる必要があったため、半年の集中コースで結構頑張りました。合田先生、説明のために可愛い漫画を描いてくださって、ありがとうございました。

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初めての来日

大学3年生の頃、人生の最初の留学がスタートしました。初めて日本に来た時の様々なシーンが、まだはっきりと覚えています。まるで昨日のことのようで不思議に思います。

東京学芸大学での1年間の交換留学は、いや大学のなかだけでなく日本にいたこの1年間は、私の人生が変わったきっかけとなりました。大学のなかで学び、多国の留学生と友達になり、日本人の親友ができたことなどがもちろんですが、夏休みに青春18切符を使って日本を横断したような旅で、日本の様々な姿に触れました。一年の交換留学が終わって帰国に飛行機に乗っていた時、また来ますと強く思いました。今度はただの留学だけではなく、もっと深く知りたいと思うようになりました。

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再びの留学

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香港の大学を出て、ITコンサルタント、大学の非常勤講師、人材派遣会社の起業などを経てから、2007年再び留学することにしました。今度はちょっと関西を見てみたいと思って神戸大学大学院に入学しました。前回の交換留学とは違って、もう大学生ではないので大学の斡旋を受けることができず、大学・教員探し、日本に渡り受験、ビザ申請、お住まい探し、市民登録などがすべて自力で対応しないといけませんでした。当時は日本語能力試験の一級に合格したとは言え、生活のための日本語は全然上手ではありませんでした。また、最初は給付型奨学金が決まっていなかったので、貯金だけで学費や生活支出を支える不安が、今まではっきりと覚えています。

ここで少し海外留学を検討中の皆さんに経験シェアさせていただきたいと思いますが、給付型奨学金(経済的サポート)はとても大事です。国際交流と留学サポートの仕事でいろんなケースを見ましたが、給付型奨学金を正しく理解している学生は少ないと感じました。「大丈夫、バイトもできるし現地に入ってから奨学金申請もできるので、とにかく留学先を決めればいい」と思っている学生も少ないようです。たとえ言葉に問題がなかったとしても、海外の環境に想定外の物事が多くて、最初は思う通りに行かないことが結構多いです。もし経済的困難に落ちたら、全体が崩れますね。貯金をたくさんもっている以外は、給付型奨学金を重要視して積極的にとることがおすすめです!

2度目の留学は、1回目の交換留学よりはだいぶ困難がありました。交換留学は軽く日本の様々な面に触れた感じでしたが、私費留学しかも学位取得を前提にした留学は、限られた予算・時間・日本語能力で勝負するような感じでした。なお当時は日本への理解がまだまだ浅いので、勘違いや理解不可のところもいっぱいありました。10ヶ月以上経ったところで、貯金がそろそろなくなり、精神的にたいへん弱くなってきたこともあります。バイトすればという話もありましたが、現実的に学校の勉強と生活の対応だけで精一杯で、外国人としてどうやってバイトを探し、如何にバイトの環境に馴染んでちゃんと稼げるか、しかも同時に体調を壊さないようにすることは、決して容易ではありませんでした。最悪の場合を想定していくつのプランを立てましたが、やはりお金がなくなって帰国するしかないを考えると、悔しい気持ちがいっぱいですね。

繰り返しますが、海外留学とくに自国とはだいぶ環境の異なる国で勉強・生活するには、経済的サポートがかなり重要です。イメージと違って想定外のことが結構たくさんあるので、お金が足りないと、様々な困難を乗り越える精神力がだいぶ弱くなります。心身ともに崩れたら、悪循環にハマる可能性が高いです。ある程度の経済的余裕(貯金や給付型奨学金)を保つことが必要ですね。

ちょっと戻りますが、幸に1年目の終わり頃に次の年度の給付型奨学金が決まって、しかも以前の交換留学の時より額が大きいため、助かった、助かった、助かりましたぞと3回も叫ぶくらい、嬉しかったです。当時は運がよかったと思いましたが、今振り返ると、運というよりは、給付型奨学金を探し続け申請し続けていたことによって、獲得できたのではと考えます。この経験は自分にとって有意義なLessonの一つとなりました。先が見えない不安のなか、諦めず、周りのことを考えず、失敗を恐れずにやることだけに集中してやり続けるという姿勢が、ものすごく大事とのことを学びました。

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2回目の留学の終わりに修士課程修了・学位記を手に入れたとき、この一枚の証書というよりは、この2年間の経験によって学んだことから、充実さを感じました。言葉の壁を超え、異文化の壁を超え、専門的学びの壁を超え(論文を知らないスタートから120枚以上の論文の完成まで)、経済的な壁を超え、そして精神的にも強くなったところに、少し自分にも誇りを感じました。もちろん、振り返ると自分の力だけでなく、親のサポート、先生や友人たちのサポートから力をいただいたことの大事さも強く感じました。

2回目の留学が終わりになったところで、1回目のときの「また来ます」と違って、「まだ終わっていない、日本で次のチャレンジに挑みます」と自分に言いました。

日本で国際交流・産学連携・留学サポート等の仕事に就く

あるきっかけで、留学が終わり私は神戸大学で国際交流・産学連携・留学サポート等の国際系の仕事に就きました。これもまた、人生の多彩な1ページが始まりました。

次の記事 About me (3) でちょっと日本での仕事経験をシェアしていきたいと思います。

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