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笹木陽一さん(中学校教諭・こどもの姿を語る会)インタビュー ・自己の物語の探究・1

2018年4月

セルフ・ナラティブ

笹木:送っていただいた『ひきこもる心のケア』(世界思想社:2015)をひと通り読んで、「おわりに」で“当事者研究の代わりにしたい“という書き方をされているところが響きましたね。僕自身個人的なつながりのこともあり、具体的に「べてる」の当事者研究ともつながってますし、べてるのスタイルでないにせよ、僕の私的エッセイに当事者研究という名前をつけたのは、最初が2000何年だったかなあ?

杉本:メールマガジンではおそらく2011年……。

笹木:2011年の1月に始めたんですね。

杉本:そうなんですね。で、3月に震災があった。

笹木:はい。

杉本:偶然ですけど、その前から当事者研究的な考えで書かれておられたんですか?

笹木:僕は自分でものを書こうと思ったきっかけの詩がありましてね。「詩のようなもの」というタイトルで、始めたんですけど。その日付が2005年なんです。

杉本:ああ、そうですね。2005年に「詩のようなものーある日の自己言及」を書かれていますね。

笹木:だから「セルフ・ナラティブ」ということばも実は臨床教育学に出会う前に僕は自己言及という言い方で自分なりに概念として持っていたんです。

僕は杉本さんの活動はアクティヴ・インタビューだなという風に思いましたね。質的研究的に研究者のかたにたくさんお話聞いていらっしゃるから。

杉本:アクティヴ・インタビューというんですか?

笹木:要するに問いをある程度決めておいて、それに対して答えてもらうというものではなく。

杉本:自由連想的な形だと?

笹木:そうそう。そういう中でどんどん問いが変わっていくということ。そういうスタイルにインタビューがなっていて、それこそ惹きこまれるように読みました。

杉本:お恥ずかしい。ありがとうございます。いちおう少しは構造化されたインタビューにしなければいけないと思うんですけど。自分が読み手であると考えると、どうしてもこういうスタイルになるんですよね。

笹木:うん。僕の研究発表とか、それこそメルマガでお読みいただいたエッセイもそうですが、とにかく自分では「自分のために書く」という風に決めてやっていることなので、本当に読み手を意識していなくて。ですからある時、笹木さんの書いたものは読めないって国語科の親しい先輩からズバッといわれた時はけっこうショックを受けたんですけど。だからといって書きぶりが変わるかというと変わらないですよね(笑)。何か「変わらなさ」にきっと自分の中の核があるんだろうなと思ってるんです。喋り方もそうですし。あとで話すと思いますが、僕はたくさんの挫折体験をしているんです。「音楽・平和・学び合い」というタイトルでエッセイを書いていた時は初めての連載でしたし、全国のだれが読んでいるのか分からない。メールマガジンというのは読み手の想像ができないので、少し格好つけて自分の傷はあまり書かないようにと思った。それでもやっぱり僕は言わなくてもいいことを言ってしまうし、書くことで何かを共有したくなってしまうので、書いてしまうんです。でもこの所しばらく書いていなくて、去年(2017年)秋からずばり自分の研究テーマと決めた「自己物語探究の旅」という連載を始めた時には、やはり自分の傷や痛みがなかったかのように、あるいはそれを乗り越えた英雄譚のように自己を語ることのいかがわしさというか、そういうことに対する拒否感というのを強く感じ始めていますね。それで良いと思えない所があるというか。

杉本:やはり葛藤はありますよね。でも僕もそういう率直な話こそが響くというか。自分自身もたくさん傷つくのを恐れて悩んで生きてきた人間なので。ところで、先ほどの話の続きですが、*「内観」という方法も実践されたそうですね。

笹木:そうなんです。実は自分から何とか変わりたいという風に思ったわけではなくて、そういう状況を突き付けられて、それをしないことには環境を作っていけなくなった時、外発的にしなければならなくなったんです。内観療法はご存知かもしれませんけど、一週間、狭い一畳ほどの部屋の中でひたすら自分を振り返るんです。

杉本:ええ。なかなか大変だろうと想像します。

笹木:やはり自分をもう一度組み立て直すというのかな。でもおかげさまで、そういう経験をした時、「ああやっぱりやってよかったな」と思ったんですよね。

杉本:はい。

笹木:その10年前に大学院に入って、大学院の1年目から2年目の真ん中くらいまで僕は学校に行けなかったんです。この頃ようやく書けるようになったんですけど、その時は本当にもう一文字も、一音符も書けなくなった、という状態でした。

杉本:音符もなんですね?

笹木:それもね。冷静に考えると「本当にそうだったのか?」って思う所もあります。何か“ぐわあ“とか言いながら、グジャグジャと殴り書きみたいなものを書いていたような気もするし。だから「記憶は嘘をつく」もので、どこか整理して美しい物語にしているのかもしれないです。そういう意味では杉本さんがインタビューされた浜田寿美男さんの「言葉や語りは内在的なものではなくて、人と人との間にある」という言葉、これってものすごい真実だと思うんだけれども、多くの人はなかなかそうは思っていなくて、やっぱり言葉や信念みたいなものは内的なものではあるんだけど、でもそれは「関係」の中で立ち現れてくるということですよね。そういうことは意外と知られていないと思います。人間関係とかコミュニケーションを考えるうえで、前提とすべき考え方だと僕は思うのだけれども、やはり何か話をしてもうまくわかり合えない時は逆に、「アイツが悪いんだ」とか相手の自己責任にしてみたり。その分かり合えなさみたいなものをそんな風にはかるのか?みたいなことを考えるのは、僕も自分の歴史を考えると家族にもたくさん問題を抱えていたことを見ないように生きていた時代もあったからですね。

 でもその連載の2月、3月に丁度おじさんが亡くなった話を書いたんですけど、やはりちょっとストーリーが変わって行くきっかけというか、岐路に来てるかなという気はするんです。丁度このインタビューの約1週間前に覚悟を決めて、死んだ叔父の奥様、おばさんに電話したんですけど。お手紙をくださいましてね。僕はおじさんが弾いていたギターが僕の音楽のルーツだということを書いていた。じゃあ残していったギターがニ本あるからもらってくれないかという手紙が来たんですよね。それはやっぱり何か巡りあわせを感じてしまった。娘もしゃべるようになったし、いろんなことを感じられる中で娘に「本物のギターが来るけど、どお?」と聞いたら喜ぶわけですよね。それで「じゃあ送っていただけますか?」という電話をする中で、ゆっくりお話などは実は今までしたことがなかったけれども、すごくたくさんの葛藤をおばさんはおばさんとして抱え、叔父を看取ったということらしいです。電話なので本当に断片的にしか聴けないですが、でもその語りを聴きながら、本当に「言葉にならない」というか。語り得ないことを急いで語ろうとしないで、グッとこらえるというか。

 人は、(いろいろな)寄る辺のなさという面も含めて自分のストーリーですから引き受ける。その時に僕は*クラインマンという医療人類学の研究(病の語り)と出会えて、「ああそうか。それでもいいのか」と。その都度ストーリーは語り直していけるし、根本的なネガティヴな痛みみたいなものは当然消えないけど、別にその傷がなかったかのようにふるまって生きるわけでもなく、それはそのまま自分の現実として受け入れて、でもできることをしていくという考え。そうしないと僕には娘もいますしね。生きていくという所では背に腹を変えられないのがあるわけですから。

こうやって語る、また書くという中で何らかのストーリーを作って、それを支えにしながら現実をやり過ごして生き延びていく。これは僕の場合、極端なやり方でやらないと人生が前に進まないから、執拗に書いたりするんですけど。でもよくよく他の人と話をしてみると、普遍的に誰もがそういう人生のストーリーを生きているし、それは“悲惨さ比べ“ではなくてみなそれぞれに多様な人生を生きている。それだけなんだから、変に一喜一憂しないで「そんなもんだ」と言って、先に進むしかないのかなと。


家族ということ

杉本:私も先生より一回りくらい上なんですけど、本当に精神的に幼稚なままずっと来て、本当にけっこうな年齢まで自分と社会とか、自分とは直接の接点がないんだけど、人の集団とかというものを対立項で考えたり、「こっちが正しいのか向こうが正しいのか」という二項対立的な発想が長かった。本当に長かったんですよ。で、今の話を先生からうかがって、「う~む」と思ったんですけど、やっぱりいろいろと社会的に頑張っている人とか、いろいろやっていて、尊敬すべき人たちもプライベートな部分ですよね。パブリックな部分だけじゃなくプライベートな部分でみんなそれぞれさまざまな事情を抱えていて、僕も長くセラピストの人と雑談というか、おぼろな話をしてきているんですけど。そういった中で、みんな何というか、「負債」のようなものをね。「抱えて生きてるものだから」みたいな話をいただいて(苦笑)。

笹木:うん、うん。

杉本:そうかもしれませんね、みたいな。だから例えば僕がいまいろいろ対人支援の仕事をしている人の話なども聞くと、被支援者の家族もいろいろ大変な事情を抱えているらしいとか、どうもシンプルに就職の相談とか、生き方に迷っているという次元からのスタートではすまないらしいんです。

笹木:いや、本当にそうですよ。

杉本:それ以前の所に急所があるらしい。特に最近その傾向が増えてきているようで。これは一相談員が対応できるケースではないということを聞くんですよ。そうすると、「遙かに」とまでは言いません。僕は僕で、主観的に苦しかったというのはあるので。ただ、客観的に僕らの時代との間で見た場合、もっと「家族って大変だな」って思います。昔はごまかしごまかしできたものだったのかもしれないけど、なかなかちょっと今はむき出しの状況があって。少しずつ、まあ究極的には経済問題が大きいでしょうけど。そこは僕の場合は高度経済成長の時代で、両親は特別な負担がなかったんです。かつ、特別可も不可もない人たちで。考え方は古かったですけど。特に父は戦争前の考えにこだわっていたので。兄と喧嘩が絶えなかったですけれども。でも本当に僕は「俺は不幸で……」と今はそんな僭越ことは到底言えないなあ、と(苦笑)

笹木:そうなんですよねえ。

杉本:そう思っている所があります。

笹木:いや、僕もそうだな。いろんな縁をいただいて、いろんな当事者の方と話す中で、比べられるものではないけれども、何ていうのかな。僕がこんなことで悩んで、またはストーリーにしてるんだろうってことが恥ずかしくなるような、すごく強烈な体験を聴いたりもするんです。


緩やかな世の中であってほしい

杉本:やっぱりみんな抱えているものはあるという…。

笹木:「みんなが抱えている」という当然の前提からスタートしましょうというのを合意点とすれば、何となく緩やかな世の中に変わらないかなあというのがあるんですよね。それを*大田堯さんなんかは「かすかな光」という言い方をしますけど。やっぱり微かでもきっとそれはあるよなあと。まあ本当に、僕はもうニュースとかをみるといちいち頭に来るということもあるので。

杉本:ああ、同感です(笑)。

笹木:(笑)特に、生徒にも「ごめん。テレビ、ウチはないんだ」「ええ~?」というリアクションで。

杉本:そうなんですか?

笹木:それが持ちネタなんですけど(笑)

杉本:でも、僕もテレビはほとんど見ませんね。

笹木:震災のどさくさで地デジに移行した時にもう許せなくてね。「何だ?それ」って。そんなのはあり得ないだろう。もういい、テレビなんか見ないと。そこは珍しくウチのカミさんとも意気投合して。でも子どもはね。

杉本:お子さんは別に何ともなく?

笹木:いや。何ともなくはないんですよ(笑)。

杉本:そうでしょうね(笑)。

笹木:ははははは。いろいろ葛藤はあるんでしょうけどね。でも今はまだ5歳なのでね。くだらないものを見てもねえ。

杉本:そうですね。

笹木:でもテレビを見ない、持たない現象は起きてると思うんですよね。

杉本:そうです。今はむしろスマホのほうが問題かもしれませんね。

笹木:ショックな話があって。これはどうしようもない。僕らは車に乗らないので、地下鉄とかに乗せて赤ちゃんの時から運ぶわけですが、物心がついて娘が最初にやったことっていうのは、(親指を動かして)こういう、ね。

杉本:ああ、「(スマホ)あるがごとし」、ですね。

笹木:そうそう。スマホやタブレットをさわる動作がほぼ最初に覚えた身振りなんですよ。

杉本:みんなそうなんですよね。実は今や僕もそうなんです。

笹木:苦しいのは、僕は去年とそれからその前の年度となぜか技術・家庭科担当になりまして、コンピュータも差し替わりがあって。デジタル教科書を前提としたタブレットで授業をするみたいな。矛盾してるんだけど(笑)教師教育者としては授業テクニックとして奨励するんですね。僕は自分では使えないのに。

 僕が指導している後輩の20代の先生たちは、ほぼスマホ・ネイティブ、タブレット・ネイティブですから、それはそれですごく面白い授業なので、そこは評価するんですけど。でもそういうのが学校でも当たり前になっていく中で子どもはどう育つんだろう?って思いますね。担当してる若者が石川県の物作りの文化のある金沢で育って、お父さんが板前なんですよね。そういう板前の父親の背中を見て育った若者ですから、「笹木先生、僕は技術・家庭でこういうタブレットとかで教えなくちゃならない立場だけど、今政府が言ってる「ソサエティ5.0」って、あれはなんですか?」って聞かれた。テレビ見ないから僕も分からなかったけど、正月とかだけは温泉とかに家族なんかで行くので、その時だけは娘もテレビを見れるわけですね。

杉本:はい。

笹木:ショックだったのは、1月の元旦に合わせた頃だったかな。政府の広報で「ソサエティ5.0」とか言っていて。

杉本:いわゆるコンピューター社会ですか?

笹木:そうです。でもそこはね。自分もネット社会の中である程度生きている所もあるし、それを全否定なんかは出来ないんだけれども、それだけになっていった時に人はどう育つんだろう?まあまあ、恐ろしい。でもそれを使わなければ生きていけないような時代が確実に来てるわけで。だからもう矛盾だらけでね。自分が嫌いだったもの、手に染めたくないものを役割上奨励したり、学校でもなぜか僕はPTAメールとかの担当で、今もコンピューターシステムが変わったので、全部一から登録し直してほしい、みたいな仕事で。僕は本当にそういうのが嫌いだし苦手で出来ないんだけども、役割なので。そういう仕事を先ほどギリギリまでやっていて。もう間に合わないので明日やりますと言って出てきたんですけど。


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*内観療法―内観療法とは、過去から現在に至るまでの対人関係のなかで、「してもらったこと」「して返したこと」「迷惑かけたこと」を振り返り徹底的に自己を見つめ直すことで、自分本来の生き方をつかむ精神療法。 吉本伊信が浄土真宗の一派に伝わる「身調べ」という求道法から宗教的色彩を除き、誰にでもでき得る形に発展させたものである。

*クラインマンーアーサー・クラインマン(Arthur Kleinman、1941年3月11日- )は、ニューヨーク生まれのアメリカの精神医学者、医療人類学者。スタンフォード大学で医学博士号を得た後(1967)、ハーバード大学で社会人類学の修士号を得た(1974)。精神科医として訓練を受けたが、台湾や中国本土における精神医療の研究を通じて、文化と精神医療について関心をもつようになる。後には、その関心を医療と文化に広げ、に医療人類学の研究者として知られるようになった。『病いの語り』において、医療者は疾患(Disease)として扱う事象を、患者は病い(illness)として生きるという見方を提唱した。つまり、同じ事態に対してそれぞれが異なる物語を持っているということ、それらのいずれもが医療にとって重要であり、後者、病いとして生きる患者のナラティヴを重視する姿勢を示したのである。こうした流れは、ナラティブ・ベースト・メディスンにつながっていく。

*大田堯―(おおた たかし、1918年3月22日 - 2018年12月23日の)。東京大学名誉教授、都留文科大学名誉教授。日本子どもを守る会名誉会長。シューレ大学アドバイザー。専攻は教育学、教育史、教育哲学。戦後の日本を代表する教育学者として著名である。2011年に大田を主人公としたドキュメンタリー映画「かすかな光へ」が公開され、再びその活動が注目されている。

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