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笹木陽一さん(中学校教諭・こどもの姿を語る会事務局)インタビュー・5

相互の当事者性を引き受けていきたい

笹木:例えば「マイノリティ」という言い方もどうなのかわかりませんけど、でも今まで可視化されてなかったし、存在してなかったかのように権力的に隠されていたもの、そういう小さな物語がある意味で魅力的なものとして立ち上がって来て、そういうものを可視化するツールとしてインターネット社会があり、それを僕は肯定的にナラティブなフィールドとして評価しているんですが、ただそれはどこまで行っても、何というのかな。僕は「リアリティ」と言わないで、「アクチュアリティ」ってあえて言うようにしているんですけど。それは臨床哲学の*木村敏さんの影響で、この人がアクチュアリティという言い方をするんです。それに倣って言っているんですが、いずれにしてもある現実世界のリアリティじゃなく、実際に当事者性を引き受けて、生きて物語を紡いでいる自分にとっての真実みたいなものをそれぞれ大事にしあえるような世の中。貧困というのも貧困というラベルで貼っちゃうんじゃなくて、それぞれの当事者性の中でみんながそれぞれ違う。でも、そのストーリーのそれぞれをちゃんと引き受けて生きる。それがある種の社会的な問題とどこかで通底するというような関係性である。自己と他者が完全に分けられるものではない。木村敏氏の趣旨は「あいだ(間)」。

杉本:「あいだ」。そうですね。確かそのような表現をされますよね。

笹木:そのようなこと。今もこうやって喋っちゃうと単なるペダンチックな弁にしかならないかもしれないけど、こうやって語ることで世界がそこで作られていくわけですよね。社会構成主義の考え方とかがナラティヴ・セラピーとかのベースにもそれがありますけれども。だからいっぱい傷もあるし、他の人に通じなくてもこうやってちょっと聴き取ってくれる場があり、語りたいことがあれば今急に饒舌になったりしていますけど、それはそれで初めて饒舌になった自分がそこで立ち上がっているわけで、実際、聴き取られる場がなければ当然喋らないし。で、僕はグッと呑むタイプの人間なので、それで結局病気にもなり、胃も壊すし、でもやっぱり時折こうやって思うがままに言葉に自分を託してみるというか、エッセイなんかもほとんど自動筆記ですよね。

杉本:なるほどねえ。

笹木:ですから考えて書くというよりも、その時の知覚、感じることに任せて、手の動くように任せてみるとか、キーボードを打つのに任せてみるとか、というような書き方をしています。あとで読み返すとシュールリアリズムみたいな文章なんだけど、「あ、このことは現実のあのことを反映しているな」と、精神分析的に。それを自分で読み解くことができるようになったりとか、けっこうそういうことは個人的な趣味なんです(笑)。でもなにかこれってアカデミックにもね。理論化できることを自分はしているかもしれないなという予感もあって(笑)。まあそのあたりを教育大学(現藤女子大学)の*庄井良信さんなんかは面白がってくれています。

杉本:弱さというか、その庄井先生はどういう風な表現をされていたかな?何か「とぼとぼと…」みたいなね(笑)。そんな感じが根本的に大事なんだ、みたいな表現されていたような気がしたんですけど。

笹木:『自分の弱さをいとおしむ』。一番大事なこととして、若いころに臨床経験のスタートの段階でカウンセリングの先輩から言われたと。

杉本:あの~、僕に関しては、本当の物心がつくちょっと手前、小学校に入る前くらいはそんなキャラクターの自分だっただろうなと思い返しているんですよ。でもやっぱりそうさせてくれないというか。今でも覚えているんですけど、小学校に入る前に「学童雑誌」が主催したイベントに、親に連れられて行ったことがあるんです。そこでイキナリ椅子取りゲームをさせられて。僕はそんなゲーム全然知らなかったんですよね。ですから曲が始まるとみんな行進して、曲が止まるとみんなパっと椅子に座る。僕はルール知らなかったからイキナリ排除されて。それを見ていると最後は椅子をひとりまで奪い合うじゃないですか。あそこからすでに違和感が始まっていた気がします。

笹木:すごくわかります。

杉本:競争というものにものすごい肯定的。僕は学校って小学校の時からそれが始まってたんだなあと今思い返しますけどね。

笹木:なんの悪気もなく強くあることや、ひとり秀でていることを目指すし、目指させるのが教育だって。みんな何の疑いもなくやるんですよね。

杉本:ある意味動物的には自然なんだろうなという印象はあるんですね。同時に僕らの頃って、僕は昭和36年生まれなので、小学校は昭和42年くらいですから、それこそダーウィンの進化論的なものってすごく楽観的・肯定的に評価されていて、進化論だから教科書なんかを見ると、動物から人間への進化みたいな。サルからネアンデルタール人、新人類から現代人、みたいな形で。進化の形の図解。完全に進歩主義なんですよね。だから進歩の過程では競争があって、競争に勝ち抜いた種が強いみたいなことがものすごく楽観的に信じられてた時代だったなと。包摂的な社会でしたが、同時にそういう発想は全然変わらずにあって、社会主義も進歩主義でしたから。どちらもダーウィン主義者なので(笑)。「弱さ」が前面にある人にとっては、あの昭和のノスタルジックな40年代においても。今に比べると、はるかに雑駁な人間も生きやすかったとは思うんだけど(笑)。だけど「ボ~」とはできない社会であったのは今と変わらない。


自分の文法は変えられない

笹木:そういう意味ではね。今の若い人たちが生産とか経済活動とかから降りてネットの世界でもいいですけど、自分のストーリーの世界で生きていることをネガティヴに「ひきこもり」と言ったりするのはダサくて、それはそれで豊かな意味があるんだと。

 僕は実は*東浩紀の『動物化するポストモダン』や、『郵便的不安たち』なんかを引用したんですけど、個人的にはもっとリアルに、僕はアニメは実はほとんど分からないし、ネット文化もほとんど初期にアクセスしなかったし、もっといえば絶対アクセスしないぞと思っていて、2006年に佐伯 胖(ゆたか)さんという認知科学者の講演を聴きたくて、そのためにはメールアドレスを持っていないと申し込めないというのがわかって、ヤフーのアドレスを作ったというタイプの人間なので。

 でも実際に新しいフィールドでネットでのいわゆるフラットな、本当にポストモダンな社会の中で自分をアバターのように演じることもできる。だからFacebookでも、僕はロールプレイングゲームをしないけど、ロールプレイングゲームみたいなもんだよねってどこかで割り切り、いわゆるリアルの生身の笹木という人間とは違うキャラクター、「こどもの姿を語る会」の事務局の笹木さんという、また臨床教育学会の笹木さんというのを結局、意識的にね。流出して書いている所もありますが、自分のタイムラインなんかには変なこだわりがあって僕は絵文字やスタンプは絶対に使わないとか、文章書く時にも必ず敬語で書いて、「笹木拝」ってかならず書くことに決めているとか。まあ、傍から見たらどうでもいいこだわりなんだけど(笑)。そこは手放せない。2006年のあるブログにコメントを書くことがインターネットでの初めての発言ですけど、やっぱりそこからそれは絶対外さないんですよね。だから「(笑い)」とかは書かないと絶対決めてるんですよ。すごくつまらないでしょうし、付き合いづらいだろうと思いますし、現実世界では傷ついたりするのは分かってるんだけど、そこは絶対に手放せないですね。その語り口、いわゆる文法を変えたらそれはある意味自分でなくなっちゃうじゃないかと。だから僕は自分がネット上で書いたものを本当に「セルフ・ナラティブ・データベース」って名前を付けて全部集めてるんです。それも途中までは紙にしていたんですけど、紙にしたらきりがないから、今ページ数にすると、この7月に出る論文に書いたのかな。データベースの文字数を書いてなかったかな。そう、1275ページですね。

杉本:1275ページ!すごい。笹木さん、絶対本を出したほうがいいですよ。

笹木:よく仲間にも、書いたものを…。

杉本:絶対言われますでしょう?

笹木:でもね。人のために書いたものがほとんどないので、いやもちろんエッセイとかはあるけど、でもどうなんでしょうね?最初は「出版したい」とか、「活字化したい」とか、「本を書きたい」という欲望はありました。30代の後半は。

杉本:特に論文はすでに編集の人が手を入れているのかもしれないですけど、自分でこういう書式を作るのってまだ簡単じゃなかったじゃないですか?30代の頃って。

笹木:そうですね。

杉本:今はワードとか使いやすくて。実は僕も一冊目は自費出版なんですけど、タテ型にするのも全部自分でワードでね。普通に難しくなくやれたので。自費出版するのはとても楽だし、そこからも展開はあるかなあというか。あって全然おかしくはないと思うんですけどね。おそらく研究論文のようになるんでしょうけど。

笹木:でもこれも変なこだわりなんですけど。庄井先生はすごく穏やかな方ですけど、言葉はすごい強烈でね。「今流行の華やかな心理学や教育学の潮流に浮足立つことなく、またそれらの潮流のパッチワークや安易なパンフレット合戦に手を染めることなく」。まあいっぱいありますよ。そういう教育書関係はね。

杉本:うん。まあ。

笹木:ね?ただのカタログみたいなものは。僕はね。この「安易なパンフレット合戦に手を染めるのではなく」という、ここにものすごく共感するんですね。というのは僕の仲間がみんなどんどん、どんどん出版しているんですよ。

杉本:ああ、なるほど。

笹木:僕はね。「笹木先生はどうして書かないの?」って。変な意地ですよね。出版したからって何か良いことあった?って。

杉本:へへへ(笑)。

笹木:(笑)杉本さんにはね。何か誤解のある発言かもしれませんけども。

杉本:いえいえいえ。

笹木:僕はこの本(『ひきこもる心のケア』)はすごく価値ある仕事だと思います。この本を読む前に田中(敦)さんとの出会いもあり、村澤(和多里)さんとの出会いもあり。

杉本:村澤さんともありますか?

笹木:はい。学会のレポートで。

杉本:それは臨床教育学会ですか?

笹木:はい。学院大学でやったんですけど。その時も原稿ギリギリで間に合わなくて、村澤先生にお願いして、学院大の印刷室でバーとプリントしてもらったんです。

杉本:なるほど。でもその前から村澤さんは知ってるわけですよね。

笹木:村澤先生のお仕事は関心を持って読んでいましたし。

杉本:そうですか。

笹木:直接お声がけしてというのはその時が初めてでした。

杉本:もしかして本、何か読まれてました?

笹木:『ポストモラトリアムの若者たち』は、図書館で借りて「わあ、すごい研究者だな」って圧倒されてあこがれていました。

杉本:そうでしたか。

笹木:で、学会の発表の後で庄井先生と村澤先生がすごい深い話をしているのを拝見して。

杉本:へえ~、そうなんですか。いや、あの人は顔広いひとなんだなあ。

笹木:学会の創刊号に僕は論文を載せたので、名前は知っていてくださったんですね。

杉本:あのかたは臨床心理の人だけど、臨床教育学にも関心が?

笹木:臨床教育学会にも名前を連ねています。


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*木村敏―(1931−2021)。昭和6年2月15日朝鮮慶尚南道生まれ。名古屋市立大教授をへて,昭和61年京大教授となる。のち河合文化教育研究所主任研究員,竜谷大教授。西洋哲学西田哲学などを手がかりに精神病の人間学的研究にとりくむ。56年フォン・シーボルト賞。平成22年「精神医学から臨床哲学へ」で毎日出版文化賞。京大卒。著作に「自己・あいだ・時間」など。

*東浩紀―1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。株式会社ゲンロン創業者。専門は哲学、表象文化論、情報社会論。著書に『存在論的、郵便的』(新潮社、第21回サントリー学芸賞 思想・歴史部門)、『動物化するポストモダン』(講談社現代新書)など。

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