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笹木陽一さん(中学校教諭・こどもの姿を語る会事務局)インタビュー・4

知的な依存

笹木:すごくわかる気がします。僕なんかは傍から見るとね。学校の仕事も「何?普通そんな働き方あり得ないよ」と言われるくらいいろんなことをやり、にもかかわらず夜には自分のことでまた週に3日は市民活動サポートセンターに来てメールをチェックして、それから自分の仕事のチェックをして。またそのあと家に帰って子どもとかの邪魔にならないように家庭生活をするという。全部がどう考えてもどこかいびつなんですよ。どこかを軽くして行かないと壊れるよ、って自分でも自覚があるんだけど。でもどこを抜いたかというと、僕は仕事を、いわゆる普通の教師であるという仕事の仕方はやめました。

 身体的に胃などで自分の病気があるのだけれど、やはり何より一番重たい病気は依存症だと思っています。お酒をやめたのはそれだったんです。どこかのエッセイで書いたんですけど、やっぱり研究したいとか、語りがどうとか言っているのも、ただ単に「知」というものに依存してるにすぎないという冷めた見方も自分の中のどこかにあって、それは何というのかな。「やめろ」と言われてもやめられるものではないですよね。やっぱり依存症。だからお酒は本当に断ちましたけど、だからといって自分の依存は変わらない。それを変えちゃうことが治ることだったり、より良く生きることになるかというと、いや、やめないと確かに社会生活はできないし、子ども育てたり家庭生活を持続できないと分かっているんですが、完全に手放すというか、本当に依存的ではない新しい自分みたいなものを夢見たり、掴まえようとトレーニングを重ねたり、あとは僕が「こどもの姿を語る会」というのを始めたのは、やっぱり酒を止めた時の自助グループ、断酒会とつながって、そこで語り、聴き合うことでエンパワーの力を得るという体験があったからこそ今そういうことをしてるんですけど。根っこにある自分の病理、病いが結局自分の人生を紡いているし、人は何とでも言うかもしれないが、僕はそのおかげで豊かなんだろうなあと今は思えています。

杉本:そうですよね。知的な表現活動をされているわけで、一般的にそれを依存症とはいいませんね。確かにそういうことをなりわいに近い形でしている人はある種、醒めた時に「これは自分にとって依存症だ」とかって思っているかもしれませんけど(笑)。周りは依存とは普通思わないですよね。

笹木:そういう風に考えたとき脳科学者の茂木健一郎さんがね。どんなに知的なことに依存、アディクトしても体は壊さない。お酒とかの物質的なものに依存すると精神や身体を壊すけれども、知的なものにはどんなに依存しても壊れないという書き方をしている文があって。それはそうかなと思いつつ、でもやっぱりね。例えば精神的なバランスを崩す人たちというのは、知的な観念に囚われている。杉本さんにとっての宗教体験とか、マインドコントロールなんかもそうかもしれませんが。

杉本:うん。あれは幅が狭すぎましたから。同時にあまりにも幼稚すぎたので。

笹木:何というのかな。僕は自分が研究したりとか、別のものに変わりたいとか、そういうことも含めて、しょせん依存だって引き受けるほうが。

杉本:楽ですかね?

笹木:楽だし、身の丈に合っているし、それこそ「そうじゃないんだ」と思った時に、きっと違う危険性があるだろうなと思うから、ブレーキみたいなものですかね。

杉本:なるほど、その説明はわかります。

笹木:どこかでそういう風に思っていたらきっと暴走しないだろうと。だから書き続けるのも本当に恥ずかしながら強迫神経症のように僕は書くんですよね。

杉本:いやでも、本当にたくさん、いろんな本を読まれているなと思っていたんですよね。音楽にかかわらず、本当にいろんな分野の本を。

笹木:音楽のものは特にトラウマ的に思い出すので読まないですね。もう。


必要だったストーリー

杉本:でもホームページでは2011年から、すごく小学校、中学校、高校、大学とお好きな音楽で「出会い」をされておられて。その経緯の中で教えてくれる師匠みたいな人の存在が常にいらっしゃって、そこではやはり葛藤的な関係もあって、でもショックをさまざま乗り越えてこられて、やはりそこはすごいなと思ったんですけどね。

笹木:あの時はやっぱり一般職の音楽科教員だったし、自分は音楽家であるというアイデンティティが底を抜けた震災後に、生き延びるにあたって必要だったんです。でも実際の現場では部活動でうまく行かない、たぶん指揮もね。本当は学校もそうで、オペラの指揮を振ったりしていた過去に対するノスタルジーもきっとあったんでしょうし、いま自分が物語として自分のストーリーを書く中では過去のことなので。当時は自分が音楽家であるみたいな風に自分を語りだすことで自分を救っていたのかもしれないです。

杉本:でも本当に第三者的な立ち位置から言わせていただくと、すごく人との出会いの貴重な財産を得ていらっしゃるなと思うんですよ。

笹木:それはありがたいなってやっとこの頃、引き受けるようにはしていますね。それは先ほど少し言ったように、冷たく自嘲気味に「依存だ」という表現もするんですけど、でもやっぱり傷があったから、人と出会って埋められない傷を埋めようとするが如くにいろんな人とつながっていたのは事実なので。ただそういう所でつながっていても、現実の社会生活の中で先ほどおっしゃったようにやっぱり決定的につながれなくて傷つくというのは今も続いています。このアンバランスさは何なのか。逆に言えば適応障害なんていうのは、現場、職場では“グワー“となっちゃうけど、職場から離れて趣味の世界になると自由になれるみたいなこともあって。


人文知が生かされていない

杉本:でもね。仮におそらく先生のように真面目に真剣に考えていらっしゃる人が報われないのは、残酷な世の中だってやっぱり思わざるを得ない。

笹木:いえいえ。

杉本:言い方が良くないなと思いつつもですね。やっぱりそうなんだなというのは思う所で。結局それは研究者とかを職業にしてしまえばいいのかなと安易に思うんですけど。でも、セミプロ研究者みたいなかたが人文知の世界で報われず、コンビニの店長みたいな形などでいるとすると、何か日本社会ってそんな風になっているんだなということの切なさをちょっと思います。今のお話を伺っていると(笑)

笹木:本当、そうですよね。

杉本:本来的なその人の努力とかを世界から閉じ込めてしまうことでいいのか?と思うんですよ。おそらく今の社会は効率と社会的有用性を最優先するような政治をやったり、経済界はそういう人を最優先するから。目に見えない成果とか、まして国家を相対的に考える、みたいな人間は(苦笑)。研究者には、大学でも遇することは出来なくなってるんだなと。よほど私立大学で話の分かる学長、鑑定眼があるような腹の座った学長がいるような所ではあり得るかもしれないけど、けっこうな人が夢破れてるんじゃないかなって。


どうあれ、問題意識は手放さない

笹木:僕は自分のつながりの場、フィールドが変わったのは10年前の2008年に教育大学の*村山紀昭(のりあき)さんが学長を辞めて、「教育人間塾」という福沢諭吉の読書会を始めた時です。僕は自分が最初の大学院で苦しい時に、クラシック・マニアでまだ助教授だった村山先生に救われた。そういう個人的な縁があって、でも大学再編という問題があり学内政治でも頑張って、僕の母校の北海道教育大学札幌校、今また音楽教育も人が3人来ていますけど、当時は母校に音楽科がなくなったんです。そのルサンチマンが強くて、生意気にも村山先生が学長を降りるとなったら、惹きつけられるようにもう一回再会して、そこで一回この歴史の長い物差しの中で現代の問題を相対化しようということで、福沢の「文明論之概略」やそういうものを原典で読む。彼はヘーゲリアンですが、でもヘーゲリアンといいながら、その前はアナーキストだったと自分でも言う人でね。北大に入って哲学なんて実はやりたくなかったんだけど、ベートーベンが好きで音楽美学を研究したくて入ったんだけど、無いので哲学研究にした。ですからベートーベンと同世代のヘーゲルの研究をして、そのあとは唯物論研究会でずっとマルクス・レーニン主義関連の翻訳なんかも彼は30代でしていて、ずっと基本的にリベラルな人で大学の中で出世するなんて考えたこともない。でも50代になった時にこの大学はこのままではまずいだろうと。本当にそう思って学長選に出るということをやった。

 で、改めてお話をいっぱいする中で何というのでしょう?根っこの所で、いろんな公職もされたし、文科省では結局教員の資質向上グループの最後に座長をやって、学び続ける教師像みたいなものを作ってそれで公職を2年前におりたんですけど、そんな村山先生と3月1日に久々にお会いした時の語り口はね。もう学生時代の僕を救ってくれたフランクなひとりの人間に戻っていたんですよね。権威もなく。「僕はもう教会に通って教会学校で聖書読んでるんだよね」って、てらいもなくて。75になるのかな(2018年時点)。でもすごく若々しくて。お会いした時に全然エネルギーも変わらなくて。その時に本当に深く人生を突き詰めていって、僕にいつも言ってましたが「笹木君、一緒に本を書こう」と。いや、そんな大それたことは。「いや、俺もさ」って。「哲学しかできないからさ」って。「もの考えることしかできないんだよ」って。考えて、考えて。そこから現実世界にちょっと首を突っ込んで学長をやったり、文科省の仕事もやらざるを得ずやったけれど、でも今はそんなことはもうどうでもよくて、「人間って何なんだ?」って。「文明って何なんだ?」って、本当に根っこの所でヘーゲルが考えた所に立ち戻って考えてるんだよね、って仰ったんです。その時に“あっ“って。この人と縁があって、結局お知り合いになってからもう30年くらいになりますけど、今もこうやって話を聞ける場所にいるってことは不思議だなって思いましたね。

 それはやっぱり僕自身が問題をまだ手放さずにずっと考え続けているから。今もそういう風に考えて。でも本人は上下関係も何もなくて本当にフランクに何か人生のテーマ、考えるべき主題について考えている人間がそこにいるという。とっても純粋で、いわゆる権力関係じゃない人間関係。本当に昔夢見ていた、僕は若いころにポストモダン思想にハマりましたけど、要するに価値を相対化しなければ僕は現実の苦しみを生きていけなかったわけです。それで近代的な主体とか、自己責任みたいなもののルーツとしてのヘーゲルみたいなものを、それは当時流行っていた浅田彰とかの言葉の受け売りですけど、そんな時代に村山さんと出会い、僕は音楽科の学生なのにもかかわらず、自己と他者の関係論みたいな原稿用紙30枚くらいのレポートを哲学の講座で書いたんですね。それが20歳の時ですけど。それを面白がってくれて、受講生10人分僕のレポートをノーカットで全部コピーして全員に配って「こんな面白いレポートを書いた音楽科の学生がいるんだけどさぁ」とみんなで読みあってくれて。「でもさ、笹木君。君は考えているけど、ちょっと浅いなぁ」って。「あんたヘーゲルの批判してるけど、ヘーゲル読んだの?」とかって(笑)。そんな風に相手をしてくれた人です。

杉本:なるほどね。

笹木:その時、「あ、学問って面白んだなあ」って思えたんですよねえ。

杉本:ええ。

笹木:だから音楽はもしかしたらルーツではないかもしれない、って。今喋りながら思ったりもしますけどね。

杉本:どうでしょうか。だって。すごく深いですよ。私はさっぱり音楽のテクニカルな話は分からないですけど、相当だと思いますよ(笑)。本当にプロフェッショナルを目指されたのは必然だったんだなって。

笹木:でも結局はプロフェッショナルにはなれなかったから。僕はカミさんには馬鹿にされまくってますけど。

杉本:(笑)

笹木:いや本当、カミさんは本当にパラノイアックにピアノをガァッと弾く人で、うちの娘がお腹にいるにもかかわらず、横浜まで自分のコンクールを40越えても受けに行くような人で。

杉本:奥様はアマチュアなのですか?それともセミプロなのですか。

笹木:まあセミプロですね。今も結婚式のオルガン弾きを週末だけしていますので、一応それで。また結構式界隈だけでは苦しいので、音楽葬とかなどでもずっと音楽をやっています。

杉本:なるほど。

笹木:で、カミさんはものすごく洋楽に強くて、杉本さんが話題にしているアーティストのことを言ったらもう当然知ってましたね。

杉本:へえ~(笑)。

笹木:僕は不勉強でね。名前くらいしか。

杉本:奥様はクラシックをやりつつ、洋楽とかも聞いていたと?

笹木:僕はカミさんと何で近しくなれたかというと、要するにクラシックしかやってないような音楽家がイヤなわけですよ。で、僕はジャズ研究会に入っていたし、彼女はずっと洋楽ばっかり聴いていて。でも浪人してピアノで大学入ったけど、その空気に馴染めなくて、で面白い先輩がいるって関心をもってくれてジャズとかポピュラーの話ばかりしていて。そんな関係がなれそめだったものですから。

杉本:なるほど。

笹木:だからたぶん家では娘が生まれてからは、本当に童謡のCDとかしかかけませんけど、でもたまに聴くかといったらクラシックではないですね。やっぱりジャズも娘が喜ばないから聴かないですけど。

杉本:Jポップとか?

笹木:Jポップは僕らが嫌いだから聴かせないし。

杉本:ははは。何を聴いているんでしょうね?やっぱり奥さんのセレクトなんですか?

笹木:そうですね。でも確かにちょっとノスタルジーもありますかね。やっぱりあれだけこだわって本当に純粋に音楽の研究をしたかったし、でも知的好奇心というのは今の研究ともつながっているし、僕はストラビンスキーという作曲家の研究を修士課程でしましたが、あの時は病気になっていったん書けなくなったけど、とにかくロシアに生まれて革命で一回スイスに亡命し、それからパリに行き、パリにもいられなくなってアメリカに行き、という。人生のストーリーをころころ、ころころ変え、作品も「春の祭典」とか初期の作品から、もう本当にカメレオンのように作風を変えた作曲家なんですけど。で、彼の研究をしたというのがいま、僕自身がストーリーをどんどん変えていっているということと実はパラレルで重なっているんですよねぇ。あの時ストラビンスキーのことを分かろうとして研究したのと、今の僕のナラティヴ研究とか言いながら人の人生って何なんだろう?ということを何か解き明かしたい。そのフィールドに自分というものを運んでみたいということとは、実はつながっているんだろうなと思う。


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*村山紀昭ーむらやま のりあき、1943年(昭和18年)2月11日 - )日本の哲学者。専門は、哲学及び近代日本思想史。北海道教育大学元学長。札幌国際大学・札幌国際大学短期大学部前学長。北海道中川郡美深町出身。

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