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笹木陽一さん(中学校教諭・こどもの姿を語る会)インタビュー・2

過去にはすがりつけない

笹木:でも、視野が狭い所もあったなとこの頃は思います。人に何を言われても、僕は学校をもっと柔らかい場にしたいし、来て安心できる場所にしたいし、それはイデオロギーとか関係なく、無差別の排除のない場所にしたい。でもかつてイデオロギーから管理職を敵対視したり、そういう時期が僕にもあったけれども、それによって僕も傷ついたし、まわりで本当に大事なはずの子どもたちが蚊帳の外に置かれていたのも、今ではそうだったかもしれないと思いますし。

 でもそういうのは置いておいて、目の前に苦しい人生を抱えて生きている子どもやその家庭があるんだから、そこをどうやったら救えるのか。そこに即して考えなくてはいけないので、やっぱり自分の労働者性とかいうのはいちおう置いておくと、それが過剰に、教師聖職者性みたいなね。一生懸命働いて、みたいなことにつながり今のブラック労働みたいなことにもつながっている。なかなか正解はなくて、一筋縄ではいかないですし、ひとりひとりがいろんなものを抱えながらいろんな働き方をしている。

 私のおさめてきた音楽上のプロフィールを杉本さんはずいぶん関心を持ってくださいましたけども、でもそういうことに関してはやめざるを得ない。自分の指揮者であるというアイデンティティを一回置いた時、置いて初めて見えてきたものが沢山ありました。今となっては負け惜しみではなく、「ああ、相当無理して指揮をするという場所にしがみついていたんだなあ」というのがわかる。だから戻ろうとも思えない。たまに素敵な言葉に触れた時にやっぱり身体が動いちゃったりしますし、授業では僕は音楽科を持っていませんけれども、何かで僕が音楽の先生だって子どもたちに知られて「教えて」と言われた時に一緒にやれれば、そこで何か豊かなものが生まれるはずなので、それは子どもたちとの間の幸せなことではあるんですけど。それもどこかで書きましたが、うまく言葉にはならない、やはりまだうまく和解できてないというか、自分自身が素直に本当に音楽が好きで、音楽をやりたくて音楽家であると語れるには、まだ傷ついてからあまり時間が経っていないので難しいですね。僕はいちおう臨床教育学会という場所で、ワッと聴きとってもらえてすごく楽になったんですが。インクルーシヴ教育を推進するという学校に行った年、2015年度の1年間というのは相当痛々しくて。本当に僕は教職を辞める覚悟をしたほどでした。日々目の前でいじめの傍観者でいなければいけない自分に耐えるのは本当に辛かったですね。インクルーシヴ教育をやる学校とは言いながら、学校で行われているのは「なに!てめえ~」と。暴力もあるし。


弱さを差し出してみたけれども

杉本:インクルーシヴ教育をやる学校というのは要するに障がいのある……?

笹木:そうです。そういう子も一緒に学べる場所。でもそういうつもりで行ってみたら、全然そういうものではなかったですね。

杉本:先生もどうにもできないみたいな感じですか?

笹木:要するに力。パワー・ハラスメントが横行していて。教師の間もそうですし、生徒間でもそう。そのうち僕は自分の弱さを差し出して子どもたちとコミュニケーションを取ろうとするので、でもADHD系の他動の子どもたちに噛みつかれて、毎日「死ね、死ね」と言われ続け、それに対して他の職員は盾になるんじゃなく、あなたがいなければ彼らは暴れないんだから学年の階に上がらないで欲しいと。僕は2年生所属で4階がその子たちの教室なんです。「行かないでくれ」と言われて7月から10月くらいまで上に上がれないんです。で、上がっていったら狙い撃ちされる。もう「あいつキタ~」というね。とにかく凄かったですね。今も思い出すと身体が震えますが。で、授業中もその流れをおさえる生徒指導部長というのが、僕がとても良く知っている後輩でしてね。彼もその後いろんな歴史があって彼自身傷ついて結局「力には力で収める」というような生き方しか出来なくて。その意味で彼も可哀想なんです。僕も彼に守ってもらう立ち位置にいなければ、あの学校では生き延びられなかったんです。屈辱的でしたけど、その傷は本当に深かったですね。でもその次の年に「もういい」と。一般教諭は降りると。その一般教諭を降りるきっかけも、その時の管理職には僕も感謝しているんですけど、学級が減り、先生の数が減るんで、音楽科ふたりはいらなくなると。ひとりは出てもらうんだけど、笹木さんはどうする?と相談されたんです。僕はもうその時は心底参っていたので、この学校でやっていくのは無理ですと。そうしたら、「拠点校指導」という若い先生を支える仕事があるからやってみないか?と言われて。それまで僕は、一度たりともそんな仕事をしたいと思ったことはなかったんですね。

杉本:ええ。私も初めてききました。

笹木:でしょう?そんな職種があることは、ほとんどの人が知らないでしょう。

杉本:そうですね。少なくとも僕の学校時代はそういう役割の先生はいなかったと思います。せいぜい生活指導の先生がいるくらいで。最近新しく出来た役割なんですか?

笹木:最近でもないんですけど。正確には学校教育法が変わってからですね。2006年の時はどうだったかな?正確なデータは思い出せないんですけど、初任者研修というのが法制化されたのがもう少し前で、1990年代の半ばくらいなんです。ちょうど僕が教師になったちょっとあとくらいかな。でも、僕は1996年に教師になったんですが、ちょうど初任者研修というのが始まって、でも現実には国の官製研修が増えるなんて許せないと組合が反対していたので、いわゆる行政研修としてはほとんど形骸化していて、僕自身は初任者研修らしきものをほとんど受けた記憶はない。ほとんど軽いものしかなかったんですよね。まあでも、実際はもうちょっと前からあったのかな?


あるべき教師像

杉本:最近の初任者研修みたいなものというのは、何かある種、国の意向に添うような先生を育てよう、みたいな感じ?

笹木:そうですね。もうちょっとクールに説明すると、要するにスタートとして「不適格教員の排除」というのがあり、そして「教員免許更新制」が2007年に導入され*(令和4年度廃止)、その流れで自民党の安倍さんがもう1回政権に立ち戻った2012年以降、*教育再生実行会議という所で「あるべき教師像」みたいなものを国が出して、自治体ごとにそれに合わせた指標が作られ、それに向けて採用段階から退職までキャリアアップしていくためには、「この段階にはこんな力が必要だ」みたいなリストが作られ、で、札幌市はこの3月に作ったばっかりなんです。あれだけ批判していた「とんでもない、いらない」と必死になって血眼になって反対していたその指標を元に若い人を指導し、その指標通りになっていないと管理職に文句を言われるみたいなかたちですね。

 でも、僕がそういう立場にあるからこそ、何か守れるのではないかと思ったんですね。そういう評価のまなざしで若者は本当に苦しんでいるけれども、「いや、そんな気にしなくていいよ」って。自由にやったらいいよ、って僕なら言える。でもその形で勤めて3年目なんですが、うまく行く人もいました。でも、同じ音楽科でその研修の考えを内面化している人もいました。というのは教師として採用されるために一生懸命何年も何年も、そのための勉強をするわけですからね。やっとなれた教師を始めた時に僕が「そんな堅苦しく考えなくてもいいじゃない。やりたいようにやればいいよ」と言うと、はしごを外されたように感じて、「何だ?」と思う先生もいましたね。

 あと、これは別の話ですが、僕は儀式の時に「君が代」が流れると本当に苦しいんです。それも神経症的で絶対に耐えられないんです。自分が最後の担任として出た卒業式の時も本当に苦しくて。もう立っていられない。座っているんだけどそれは反対の意志を示すカッコイイ座り方ではなくて、もう胃が痛いふりをして座っていて、生徒の名前を読み上げる前に芝居がかってるみたいですけど、一回退室までして。本当に耐えられないんです。ある学校での最初の仕事は放送係として「君が代」の音声ボタンを押すのが仕事でした。そういう葛藤の中で「絶対嫌だ」と思っていたこともやりました。でも震災以降、僕は避難者の支援をするようになりますが、比べるようなものじゃないんだけど、そうやって自分の生きているフィールドみたいなものを根こそぎにされた人たちが近くにいて、その語りを聴き取ったり、あるいは語りを得られないその方たちに比べたら、胃が痛いこととか、君が代のスイッチを押すこととか、日の丸をバックに整然とした写真を撮ってホームページにあげるとか、ある意味どうでもいいことだな、と思えているいまの自分がいるんですよね。それを回復というのか。何なのか。僕はひとつの自己との和解であるとは思って、そう留めようとは思っているんですけど。

杉本:なるほど。今ではそこら辺はやっと楽になった感じですか?

笹木:う~ん。でもこれからも嫌でしょうし、じゃあ普通の教諭に戻れば僕も50代ですから、当然学年代表ですとか、教務主任とかをやるわけです。そうすると自分の言葉で「国歌斉唱」と皆の前で言ったりとか、あとは学年率いたらそろそろ若い先生の範を示して、きちんと立ってみたりとかしないといけないわけですよ。

杉本:うんうん。それを想像すると…。

笹木:もう、うんざりしますよね。でもこれもどこかのエッセイで書いたんだけど、谷川俊太郎さんの「生きる」という詩をめぐって震災後にいろんな人たちがネット上で言葉を紡いだ。そういう美しい本がありまして。その中にひらがなの「あ」というペンネームのかたがね。「大切な人を守るためなら、50年間信じ続けた信念を曲げてもいい」と。

杉本:ああ~。それはすごいですね。

笹木:何かそんな境地ですかね。で、あれだけ坂本龍一とか、福岡さんというクリスチャンの国立(くにたち)の小学音楽専科の先生が、「君が代を弾け」と言われるのを拒否して、それに*林光(はやしひかる)さんという人や坂本龍一さんや、そうそうたる音楽家たちが「音楽は心で奏でたい。内心と外形的な行為というのは連続しているんだ。分けることなんか出来ない」と。僕は未だにそう思う人間です。でもどこかでね。自分の指揮棒を置き、あれだけ熱心だった学級担任も辞め、音楽科の授業もせず、どんどん自分が大切にしていたものを手放していった果てに「じゃあ、何が大事?」と言えば、悲しいけどあんなに若い頃に馬鹿にしてた先輩たちのように、クビにならないよう仕事を続けるために嫌なことをする、みたいなね。ハタからみるとそんなことしているのがよく分かるわけですよね。

杉本:どうなんでしょうね?でも客観的にはそう見えるかもしれませんけど、あまり上手い言葉が見つからないですけど……。とてもつまらない例えですけど、「いざ鎌倉」がある、と言いますかね(笑)。

笹木:(笑)そうそう。そんな感じかも。

杉本:何を言いたいかというと、主観をどう扱うか、というか。そういうことなのかなあ?という感じがあって。

笹木:そうそう。杉本さんの本の中でも感じましたね。

杉本:だから僕も宗教がらみの悩ましさがあった時というのも、傍から見れば何が悩ましいのか絶対にわからないだろうと思ったんです。そんなのつまらないことだろうと。でも、それが二十代後半にまた外に出れなくなる理由でもあったんですよね。僕の中心問題で、もう、「大変なことをしてしまった」というのがあったんですけど。自分にしか分かりようがない、自分だけのこだわり。あるいは人間として裏切った、逃げた自分がいたとかね。そういうことに延々とこだわって。でも同時に客観的には分かるわけですよ。そんなこと他人に言ったって何のことやらさっぱり分からない。分かりようがないというのがあるから。そうすると、いっそう語り相手が見つからず、みたいなことで精神科の先生を巡って。とうとう最終的には精神分析の先生の所にまで行きついたんですけど。そういうことはやっぱり若さの中でどうしてもあって、耐えがたい自分自身の罪悪感というものにぶつかる。で、実際今はどうでもいいと思っている。でもこうやって例えば笹木先生とこういう話が出来るのも、60近くなっている自分がいろんな人と、若い研究者の人も含めてそういう話が「できる」ことが、僕にとっては自分が大学に入る前のノイローゼを経て、大学に行ったら深いコミュニケーションが出来るんじゃないかとか、対話ができるんじゃないかと思っていたことが今、本当にできているんじゃないかと思うんですね。やっぱりそれは小さな喜びの核としてあるんですよ。だから社会的な立ち位置はもう手に入らないし、そうすると本音は嘘かもしれないけど、「どうでもいい」というか。とりあえずそういう建前の社会に入ったら僕、マインドが潰れちゃうと思うから。それはもう、「捨てました」と。さっきの話とつながってないようだけど、お金とか、家とか自分にはいちおう保障されてるんだということを前提として、「もういいや」と。社会的な役割に関しては。

でも実際は今でも聖職意識はあるんですよ。父もお世話になった母の医療関係者とか、介護者たちとか、ケアマネージャーさんとか。また改めて世話になってますし、親父もずいぶん世話になりましたから。すごくありがたく、立派な仕事だと思ってるんです。それを自分がやれるか?と言われるとやる自信はない。福祉の資格もあるし勉強もしましたけど、やっぱり机上の論理。できないし、実際できなかったので、それはもう代わりにやってくれる人が必ずいるから。僕の役割ではないけど、インタビュー活動は僕のためというのが一番大きな理由だけれども、まあ何人かでも読んでくれる人がいれば、蓄積もあるし、その蓄積の中にひっかかってくれる何かがあればいいなあと思っていて。本当に説得力がないですけど(笑)。自分の中では自分の満足はあって、説得力があるかどうかという認識もあえて捨てた方がいいのかな、と。

笹木:うん、うん。いや、自分はとっても自分に重ねて。僕にとっては勇気をいただく人生の先輩の語りとしていま僕は受け止めましたけど。

杉本:いやいや、とんでもないですよ(笑)。勘弁してください。

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*教育再生実行会議―内閣総理大臣教育改革を提言する政府の組織(内閣総理大臣の私的諮問機関)。21世紀の日本にふさわしい教育体制の構築を目的とする。2011年(平成23)の大津市中学生いじめ自殺事件を契機に、安倍晋三(あべしんぞう)政権下の2013年に発足し、菅義偉(すがよしひで)政権に引き継がれた。教育再生実行会議の提言に沿って、中央教育審議会(文部科学大臣の諮問機関)が具体策などを協議し、必要な法整備や予算措置に取り組む。内閣総理大臣、官房長官、文部科学大臣ら閣僚と20人以上の有識者で構成する。

*林光―(はやし ひかる、1931年10月22日 - 2012年1月5日)は、日本の作曲家である。作品では、合唱組曲『原爆小景』が特に有名である。また日本語によるオペラの可能性を求めて多くのオペラを書き、オペラシアターこんにゃく座の座付き音楽監督、作曲家を務めた。

1953年には外山雄三、間宮芳生らと共に「山羊の会」を旗揚げした。このほか、宮沢賢治の音楽作品を広める活動も行った。

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