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笹木陽一さん(中学校教師・こどもの姿を語る会事務局)インタビュー・7

家族とは、再び

杉本:ですから、やっぱりプロセスなんだと思うんですよね。人生の中のひとつの。だからここで終わるとはおそらく先生自身も思ってないでしょうし。

笹木:まわりまわって、いま娘が言葉を獲得し、これから本当にまっさらな目でね。悪いけどこんなクソッタレな時代に産んじゃってごめんなさいというのが本当にあるんだけども、それでも彼女の眼には明日への喜び、遊びの中で本当に即興のわらべ歌で育てたのがもう今の彼女に生きていて。親馬鹿なのはわかるんですけど、一節歌ったらすぐに返すし、もうコール&レスポンスができる。後でたらめな、たまに自分が好きな洋楽の節とかを口ずさむとけっこう正確な精度でシャドーイングしながら歌うんですよね。

杉本:そこをわかるわけですね(笑)

笹木:だから子どもは理屈でもなんでもなく、感覚としての音や知覚情報というものを本当に深い意味としてパっと全体として取り込んで、そしてパッと間接的に情動的に表現して返す。ただ彼女はすごく繊細だから、幼稚園行ったら本当に固まってしまって何もしない子なんだけども。家に戻ってくるとワァ~って。で、僕には「嫌い、キーッ」とけっとばして。で、僕もたまには叱るけど、おもちゃにされることにしているんですね。要するに僕にも大きな原光景があって。うちの親父がグワーっと切れて、ウチの姉を厳冬の1月の寒い外に「言うこと聞かないんだったら出てけー!」って抱えてバーッと裏の玄関から。

杉本:ああ~。昔の親にはありましたねえ。

笹木:蹴とばした。それを僕、中3でしたけど受験期で本当にあの時は一瞬親父を許さんぞと。だからそういう親にだけはなりたくない。でもやっぱりたまらなくなる時もある。「うるさい!」とか「やめろ~」とか言っている自分もいるんですけど。でもそんなこともあるけれど、おやじが姉には絶対に許さなかったそんな厳格な関係性みたいなことを僕はやっぱりできないし、蹴られても「痛い、やめて」というしかないですし。

杉本:それはわかるなあ。

笹木:で、親父も実は犠牲者でね。

杉本:うん。時代のね。

笹木:そうです。

杉本:「あの時こういわれた」ことの傷つきということはどこまで引っ張っていくものか。僕もね。やっぱり兄との関係ではどうしてもよそよそしくなるんですよ。僕自身自覚しているんですけど。兄はどう思っているか分からないです。結局お互いによそよそしいですからね。兄のほうも一緒に居れば会社の人間関係のような(笑)丁寧な、お互い対応していますけど。お互い、もう少し踏み込んでしまったらまずいかも?っていう感じがあるかな。ただ兄に対する関係の中で僕自身のほうがこだわりを持っているのは間違いなくあるんです。そして父も僕は結局わからなかったというか、父も黙りこくっていることが多い人でしたからね。「何を考えているのかな?」って思って。それが分からない。昔の人って、やっぱりそういう所があるから。それに男同士ですしね。

笹木:そうです。

杉本:ある種お互いの世界観みたいなものが違っても仕様がないと思ったり。そこを埋めなくちゃいけないということは晩年。必要だったことなのか、どうなのか?そこはちょっとあるんです。亡くなる二日前にやっぱりかなり深刻な状態に陥った時に、酸素マスクみたいなのをつけていた状態で肩で呼吸して、ああ、これはもういよいよダメかもしれないと思った時に、これに関しては浜田(寿美男)先生が新生児の赤ちゃんというのは要するに目に指向性というものがほぼないので、目はパッチリあいているけれども目の力が何に向かって志向しているのかというのがまだない。新生児にはない。それが浜田先生の親御さんが亡くなる時も同じように目に指向性がなくなって行ったんだという話をされたんですよ。で、父は僕らが見舞いに行った時これはもう厳しいなと思った時にはまだ目に力があってこちらをじっとみていたので。声掛けはしたんですけど、もういよいよという時に向こうに行く時の、本当にひとりで行かなくちゃいけないじゃないですか?あちらに。つまり亡くなるということを受け入れてひとりで旅立たなくちゃいけない時、俺、やっぱり手を握ってあげたりすべきだったんじゃないかと。やっぱりそれだけは心の中にあるんですよ。でもできなかったんですよね。

笹木:ええ。何かわかる気がします。だから自分、近い将来リアルにね。親を送るというのは当然来るんだけど、どうなるのかなあ?

杉本:いや僕はね。父の時は意外なほど冷静でした。セレモニーが終わった後も。兄はあんなに父と思春期の頃には仲が悪かったのに、なぜかけっこう涙ぐんでいたんですよ。納棺の清拭の際、読経している時に涙ぐんでいたんですけど。僕は割と冷静でしたね。そしてお墓を立てて、お墓の中にまあ亡骸と言いますか、火葬したお骨を埋葬する時「(納骨を)されますか?」と言われて。その時僕は一人だったんですね。母はもう身体弱いんで車の中にいて。「あ、じゃあ」と言って見ると、中がとても深いんですよね。その時、僕は本当に不謹慎にも(苦笑)火葬したら、これはもう何体も埋められるな、って。そんなことを考えていたんですよ(笑)。考えて、ジャァ~とそれこそお骨を埋めた時に、ああ、こう見るとやっぱり生き物だなあって。こんなこといろんな人に言って回って俺自身何でこんなこと、言いまわるのか?って思うんだけど。

 母の場合はね。きっと違うんだろうと思うんですよ。父に関しては冷静にいろいろ生きている時に人間は特殊に大脳を使っていろいろ考えてしまうけれど、結局人間も生き物なんだなあって。ちょっとね。いろいろ楽になった面も正直あって。経済的なこととか、さっきも話した資産的なこともあるんですけど。父母に迷惑かけてきたってすごく思っているんだけど、生きてて元気な時の両親って「お前、どうするんだ?どうするんだ?」ってやはり言われるじゃないですか。できなくてこちらは困っているんだけど。いろいろ父も両義的な面があってバトルもたくさんしたけど、まあ最終局面ってこういうものなんだよなあみたいな(苦笑)。じゃあ自分はどうか。自分もそれを受け入れてこうなれるのか。自分自身がいずれ亡くなるわけですけど、じゃあリアルに悟ったかといったら全然そんなことはなくて(笑)。父はこうなった。ああ人間も生き物にすぎない、と。「ただし自分を除いては」というね(笑)。

笹木:いや、そうなんですよねえ。

杉本:(笑)そんなことを思っている自分がいました。まさに冷たい気もするし、変に楽になった感覚というのもあり。ここまであしざま言って相当こじつけっぽいですけど、それが父親のプレゼントな感じもしないではないですね。勝手な思い込みですけど。

ライフヒストリーの変容

笹木:あの、北大の間宮先生と初めてゆっくり言葉を交わしたのが2010年に「全生研(全国生活指導研究協議会)」という、初めて学校の外に出て教育のサークルに関わった団体なのですけど、その大会で自分の部活動での葛藤体験を語ったことがありまして。うまく行かなかったと。それをレポートにしたんですけど、その時にレポートには書いてないんだけど、トラブルになってしまった男の子は実の両親がいなかった。その背景を説明しているうちに気づいたら自分の傷つきの話を勝手にしゃべっていたんですよね。

 で、間宮先生がその僕の語りを聴いて、アドバイスじゃないけど、その頃ちょうど一緒に研究していた札幌のリーダーの方がその前年の秋に自殺しちゃったんですけど。それを受けて間宮先生は教師の養生についてですね。自分が教師として「頑張ろう、頑張ろう」じゃない方向で自分を守る、そういうことが大切なんじゃないかという発信を始めていた時期なんです。笹木さんの発表を聴いていて僕の言ってる「教師の養生」ということと重なるなと。無理しすぎてはいけない。教師としてこうあるべきみたいなものに縛られて、結局自分も相手も苦しめると。そういうことにつながる率直な語りでしたね、って評価してくれたんです。その時にはじめて。僕は他の人に姉のこと、当時は他の人に相談したことがなかったんです。30代までは。でもこれは今がタイミングかもしれない。その時は自分の祖母が亡くなった直後でもありまして。「ありがとうございます。実は…」と。たぶん心理の専門家の前では自分に重ねて姉のことを喋ったことはありますけれど、そうじゃない場面で初めて「実は」と言って、相談したんですよね。そうしたらその時に間宮先生が「僕もそういう時期があった」と。すごく苦しい時期があった。その時宮沢賢治の思想に救われたんだという話をしてくださって。で、「笹木さんもおばあちゃんも亡くなった、おじいちゃんも亡くなりましたね」と。たぶん次にお父さんがお亡くなりになった時にストーリーが変わる。

杉本:ああ~。

笹木:で、その時に初めて「今までの葛藤の意味みたいなものが、新たに違う意味を溢れ出すようになるような気がしますよ」って。予言めいたことを言ってくださって。だからそれは実は僕が自己物語とかを言うことへ向き合うことのひとつのきっかけではあるんですよね。

杉本:なるほどねえ~。

笹木:だから僕のエッセイからいろんな他者、特に師といわれるような人との出会い、という風に読み取ってくださいましたけど、まあそれはもちろん葛藤を含めたどちらかといえば対立的に向き合う人との関係のほうが圧倒的に多い。

杉本:でも離れてないところがすごいと思います。

笹木:直接の師弟関係じゃないんですね。でも重要な他者とどう出会うか。重要な他者というのは別に影響力があって、自分に向かってくるのではなくて、その時その時の自分の人生の中で何か磁場のようなものが生まれて、まあ偶然は必然なんだなという人もいますけど、そういう風に出会っていく。出会った時にそこに新たな意味づけをしながら、どんどん、どんどん終わりのない語り直しが続いていくんだろうな、という。それは「生き、語り、語り直し、生き直す」という分かりやすいスローガン。その語り直すというのがまさに今日のね。杉本さんとの語り合いもその一つの機会だと思うんですけど、こうやって語る中で、まあ記憶に残らないかもしれないけれども、本当に今日初めて「ああ、そうだったんだ」と思えたことがたくさんあって、だからずいぶん、当初はもうネガティヴな感じでしたけど、そんな話を終えて今はすごく「ああ~」って整理された思いがありますし、やはり何かそういう語り、語られ、聴き取られ、または語れないものをそのままに、別にそれを無理に開くことなく、「語れないんだから」ってそのままにしていく。たどたどしくやって良いという。


「語りの底」にこそあるもの

杉本:最近のメールマガジンなんかでそういう話がおそらく文章として語られていると思うんですけど。僕もインタビューしたことがあるひきこもりの研究をされておられるかた。横浜にはひきこもりの当事者ですごく活発な人たちがいて、あつまりを開いているんですけど、そのグループの中に社会学者として参加しているかたがいらっしゃって、本を出したんですね。で、その人は「混沌とした語りを聴き取る他者」がひきこもりの人を元気にする要素としてある、というようなことを言っていて。まさに混沌としているんですよね。いろんなネガティブな要素を中心にしてひきこもりの人たちというのは整理のつかない自分の中のモヤモヤみたいなものがあるので。どうしてもその因果とか論理とかでは掬いきれないような言葉を持っているわけで。それをそのままに受け止めてくれる対話の相手がいてくれることが非常に、僕の解釈では大きい救済要素なんだろうと思うんですよね。

笹木:要するに今日も杉本さんにしか語れない、たぶん容易には他の人に差し出さないストーリーをたくさん聴かせていただいたと思うんですけど。それを聴きながら、僕にはそれと響き合うような自分の物語があるんだなあって。コミュニケーションって実はそういうもので、要するにこういう風にやり取りされるのが本来のコミュニケーションだと思いますけど。

杉本:実は底流のほう。「底」のほうなんですよね。

笹木:そうです。実際の意味としてじゃなくて、その底の部分でお互いのストーリーがどこかで響いたり、響かなかったり。でもやっぱり何かつながっている。

杉本:つながっているものがある。ただそこが現世的な効率とかの、能率の意味の中ではなかなか無駄な時間だと。

笹木:そうなんです。全く評価されない。

杉本:無駄な時間として。それは暇な時間にやってください、みたいな(笑)。でも事実問題、社会的な関係で付き合っていると。どうなんでしょうね?飲んだりしているとみんな話したりしてるんですかねえ?わかんないんです、僕。飲まない人なので。

笹木:僕は未だにね。「飲みニケーション」が必要なんだとかいう人がいますけど、まあニコッと笑って「まあね。飲んだほうが喋れることもありますけれど、まあスッキリやめて二日酔いのない人生を取り入れてから豊かですよ~」と嫌味に聞こえるかもしれないけれど、本当にお酒飲まないのって豊かですよって。心の底から言えるし、お酒やめたおかげで少しはね。その前の本当にダメだった人生ではない人生が僕にもあったし、そのおかげで家族や娘とも出会えたし。そういう意味では本当に僕は何というのかな。いろんな意味で恵まれているし、他の人から見ても何も失ってない。客観的にはね。でもすごく深く傷ついているし、それではもうどうしようもなくその傷つきは、3月に村山先生と久しぶりに話した時に、まあ彼は飲む人。深酒はしませんけど、お酒を飲めば陽気になる人で、でも真理があるだろうと思うのは「いや、笹木君、もういいよ、もういいよ」って。

杉本:そうですね。俺ももういい。自分がもういいやと。自分を苦しめる自分が住んでいましたけど。もういい(笑)。

笹木:もういいでしょっ、て。

杉本:10代から40年くらい苦しんだから「もういいよ」(笑)。

笹木:うん。そういわれた時に、「ああ、そうだよな」って。

杉本:だってハッキリ言いますけど、自分以上に他人が自分のことを気にしてくれませんからね。

笹木:そうです。当然です。

杉本:いやもちろん近接領域に自分のことを気にかけてくれたりするというのはあるわけだけども。もちろん奥さんもいらっしゃるから奥さんも気にかけてくれていると思いますけど、ただ究極はねえ。まあ、みんなひとりで。それこそ、旅立つわけですから。

笹木:だから本当に月並みなんだけど、僕は今までサバイヴしてきた、生き延びてきたという風に自分のことを考えていたんですが、去年くらいから、いやこれから先は生き延びるなんてそういう切ない言い方ではなくて、持続して生き続ける。簡単にネガティブなものから逃げるとか、違う所に行くとかという表現ではなくて、坦々と生き続ける。生きているだけでそれでいいじゃないって。何も欲張ることもなく、生き続けるって。それでいいんだって。てらいもなく自分に言えるような所もちょっと出てきてはいるんですよね。で、自分がすごく“ワ~“と情動的に動きすぎてしまう人間だという自覚があるので、やっぱり自分も10年くらい前から「慌てず、騒がず、坦々と」生きるって呪文のように言うようにして、こうやってノートを書いても最後には「慌てず、騒がず、坦々と」、「これでいい、これがいい」と書いてペンを置く。何かひとつのルーティンがあるんですね。

杉本:本当にそれはメールマガジンを読ませてもらっても、そういう風な筆の置き方をされているなという気がして、いつもそのような形で終わられる真意やいかに?と思っていましたけど(笑)。今日、わかりました。

笹木:(笑)そういうことなんです。まあだからセルフ・アファーメーション(自己宣告)なんですね。何か断酒、酒を止める時に宣言をするんですけど、その時に「あなたのアファーメーションは何にしますか?」って。パッと思いついたのが「慌てず、騒がず、坦々と」。

杉本:その英語は一種の呪文みたいな?

笹木:そうです。まあ簡単に言えば呪文ですね。自分に言い聞かせるって。

杉本:言い聞かせる。うん、了解です。

笹木:まあそうやって言い聞かせながら、自分に語り掛けながら生き延びるというか。まあそういうことなんですね。でもなかなかこういう風に自分のコアの、傷の所からワッと直接それに遠慮せず気にせず喋る経験って実はあんまりなかったし、お医者さんの前でもここまでのことは話さないのです(苦笑)。

杉本:でも、自覚的に悩まれてこられたというのはすごく伝わってくるので、どっかで「もういいよ。これだけ自分」やっぱり自分の中のもうひとりの自分が「よく耐えてきました。もうよろしい」みたいな。どっちにしたって羽目ははずさないんだから、みたいなね。

笹木:「もう許してあげたら?」という声はね。


人の選択とは?

杉本:ええ。自分の中から日々。出てくる声が。あと僕の場合は背負ってきていませんからね。母親だけですね。背負っているのは。お子さんがおられるというのはやっぱり大きいでしょうね。

笹木:いや、でも本当にギフトで、プレゼントだなって。

杉本:逆にこれからお子さんの方から、いろいろと教えてくれることがありそうですね。

笹木:そうです、そうです。もうすでにね。よくあるのが3歳くらいまでは親孝行しきるっていうし、それからみれば居てくれるだけでありがたいし、本当にこれから育っていく近くにいることで、娘のまなざしで世界と出会い直せるというのは本当に。ね?どこか人生を2回生きるようなものですし。

杉本:うらやましいです。

笹木:でも僕、生徒にも言うんですけど。この頃は、「あのね」って。「僕は姉がいるんだけどさ、姉は病気なんだって。ずっと入院しているんだ」って。ウチの姉は、まあ勉強もできなかった、大学も行けなかった、社会人にもなれなかった。だから姉の分も二人分生きると思って生きているんだよねっていうのをよく、やっぱりお酒止めたくらいから言えるようになって、生徒にはよく言ってましたね。でも二人分生きるという構えは非常にあの、重くてね。

杉本:そうですね(笑)。

笹木:疲れちゃうので(笑)。だからそこはこの頃、姉は姉の人生を生きている人だと。

杉本:そうそう。そうだと思いますよ。

笹木:だからひきこもりだから大変だ、って。だから出さなきゃみたいな力学でやっていましたけど。いやそうじゃないよな、って。きっと姉には病院の中で誰よりも長く入院している中で信頼されていたり。

杉本:もしかしたらそういう感覚というものも、ある種一般常識。いや、これ僕自身にも自分自身に言い聞かせることだと思うんですけど、一般常識の枠組みから見て可哀そうだとか、切ない話だとか。でも本当にそうなのか。難しい課題です。

 あの~僕もね。認知症が始まってきた母のことを浜田先生に愚痴るような感じで言いましたけど、「そういう世界から見ている人も面白んじゃないかなと思うんだけどね」という話をしてくださって。「そうすか」って(笑)。その時は僕はすぐ納得はできなかったんですけど。

笹木:だから、そう。姉には姉の人生があり、人間関係があり。

杉本:見ている世界や知覚があって。それは普通の人が常識に縛られたものとは、また別の世界を見ている可能性があるのかも…。

笹木:そうそう。だから僕はべてるのことを姉に言いに行って。「こんなのあるんだよ、どう?」って。「生きる場所、変えてみない?」って、言ったことはあるんですが、彼女はすでにその病院に15年もいたわけで、「いや、陽一無理だわ」って。私はここで生きてきたんだし、ここで生きていくよ、って。だから病気や症状がまずい時は「出たい」と暴れたりとか、「何で?」とかやるし。たぶん父の葬式も出れないと思うんで。だからどうなんだろう?って。やっちゃいかんなあと思っていて。でも姉はわからない。親父の葬式に出たいと言わないかもしれない。その時に、「いやそうじゃない。出るべきだ」というのもおかしいし、「陽一、私出ないわ」と言ったら、「あ、そうか」というしかないし。それを10年前の僕だったら「ごめんな」と思ったと思うんだけど、今の僕だったら「あ、そうか。それは姉ちゃんの選択だし、そうだよな」って。今なら言える気がしますね。

杉本:何か本当にこういった話ってある年齢にならないと(笑)。なかなか「そうですよね」っていう話にはなりにくく。若い人が読んだら分かりにくいだろうかもしれませんが。

笹木:いやいや、すみません。本当に。

杉本:いえいえ。こちらこそ。

笹木:活字になることを前提にちょっと構成的に喋るつもりでいましたが。最初からもうイキナリ諦めまして(苦笑)。全然違う話を聞いていただいて。という感じになりましたね。


(2018.4.12.札幌エルプラザにて)

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笹木 陽一さん:
1970年、北海道・新十津川町に生まれ。
1993年、北海道教育大学札幌校芸術文化課程音楽コース(指揮・ソルフェージュ専攻)卒業。
1996年、同大学大学院修士課程学校教育専攻音楽教育専修(作曲・指揮法専攻)修了。修士号取得(教育学)

ホームページ:「自己物語探究の旅」
 こちらのホームページに「中・高校教師用ニュースマガジン」というメールマガジンで連載エッセイ、「音楽・平和・学び合い」が掲載されています。大変読み応えのある内容です(現在、まぐまぐのアーカイヴ配信はなく、読めない形になっており、残念です)。



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