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あなたの歩くところが道。

どこかで違和感を感じながら社会の基準に従っている人は多い。
「これは私の本当のやりたいことではない」「本当の自分がわからない」など。

あるいはその逆もいる。
「普通から外れていたくない」「自分は変わっているから、普通になりたい」「人並みにならなくてはならない」「一人前になるために、普通は〇〇しないといけない」

前者は、「本当の自分」という理想。
後者は、「普通」という理想。

「本当の自分」なんてわかるものだろうか。
「普通」の人なんているのだろうか。

「本当の自分」
自分のことを"全て"理解することなんてできない。
わかっているなら、将来どんな状況が来ても全て予測可能になる。予測というより、プログラムのように決まっている。こういう状況ならこう感じる。それが決まっている。わかっている。
そんな人いるのだろうか。
「本当の自分」を想定しても、そこから溢れるものが常にあるし、変わっていくもの。
そして、「本当の自分」を見つけたらゴール、終わり、なんてことはない。
しかし、「本当の自分」を設定することで、「今の満足しない状況から切り離された自分」が存在できる。それが理想になる。

「普通」
平均はあっても、「普通」の個人などいない。平均は平均で個人ではない。
「普通」の定義は人によって異なる。その「普通」の概念もその人の中で固定されたものではないだろう。社会に影響され、変わっていくもの。
「普通」になりたい、という時の「普通」はその人にとっての理想と化している。

「本当の自分」「普通」もどちらも、「そこを目指していれば大丈夫」「このレールに乗っていれば良い」という気持ちがないだろうか。

ここで大事なのは、その理想を達成したか、あるいはできるかどうかではない。
理想にまで続くように見える道に居ること自体がすでに「安心感」を生み出している。
だから、「本当の自分がわからなくて(本当の自分になりたくて)悩む」「私は普通から外れていて不安だ」と思っていても、ある意味ではすでに「安心感」を享受している。

どういうことか。
例えば、「結婚して人並みになりたい。結婚してやっと一人前だ。結婚できていない自分は普通でもないし、一人前でもない」と悩んでいる人の場合。
「結婚」が理想になり、目的になる。
「結婚」という目的ができると、そこに至る道が想定される。
直線的な時間軸の上を、希望に満ちた「結婚」の未来に向かっている、というイメージができる。
これにより、目的地には達していないが、その道・レール上に今自分は居るんだ、と少なくとも思える。
これが、「外れていない」「迷子ではない」という意識を生み出す。
いや、違う。
その逆だ。外れていないという「安心感」を得たいからこそ、何かを理想として設定する。
「本当の自分」「普通」から私は外れている、と思っているが、これは「目的へ続く"道"からは外れていない」という前提の上に成り立っている。
目的・理想からは外れているが、それに続く道からは外れていない。

つまり、これらの「不安」「悩み」は、 「安心感」と同居している。
こういった「不安」「悩み」を生み出す構造それ自体から抜け出せないのは、そこに「安心感」があるから。
子供の頃から居た「道」に居続けたいから。「安心感」に抱かれ続けていたいから。

その「安心感」を手放さないと、その「不安」「悩み」も消えない。同じコインの表裏だから。
どこかでわかっているはず。
道から外れる。
道を外れるといっても、急に仕事・学校をやめて、どこかの山に籠る、ということではない。
外れる覚悟を持つ、ということ。

自分で作り上げた道でもないなら、社会的な影響は多く受ける。だから、他の人ともすぐに比較してしまう。
お膳立てされた道を歩くのではなく、あなたの歩くところが道になる。それが結果的に「本当の自分」「普通」とされる道と重なることがあるかもしれない。そうでないかもしれない。

理想がなくても、目的がなくても、あなたの歩くところが道になる。どこに続くということもない。
一歩一歩踏みしめて歩けば、道と一つになる。

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